私は、よく窓の外を眺める。
授業中とか、
身体測定のために廊下に一列に並んでいる時とか、
体育館で校長先生の話を聞いている時とかに。
窓はなんとなく好きだ。
絵みたいに景色を四角く切り取ってくれる。
私は窓を眺めながら、その風景にいろんな空想を付け足す。
例えば、巨大な樹の根が街を丸ごと飲み込んでしまっている様を想像したり、
校舎と同じくらいの背丈がある一つ目の巨人が、山の向こうにぬっと現れたかと思うと、どんどん近づいてきて教室の窓から中をのぞきこんでくるのを思い描いてみたり。
街が海の底に沈み、水がひたひたと空の高さまで満ち、
教室の窓の外を、クジラやジンベイザメやマンタが泳いでいくのを空想してみたり。
そんな風景のそばで、生徒たちは平然と授業を受けている。
まるで、学校の中と外は切り離された世界だって思ってるみたいに。
ノートの隅に、空想したものを落書きして、時々先生に叱られる。
だけど、描くのをやめても、一度空想した世界は、頭の中に生き生きと住み続ける。
だから、私の頭の中にはたくさんの世界が卵みたいになって、植え付けられている。
時々勝手に卵の中から生まれてきて頭の中でいろんな景色を展開させたり、また卵に戻っていったり、いくつもの世界が気ままにそこで暮らしている。
いつだったか、親にそんなふうに感じることを話したことがある。
私にしたら、それはごく普通のことだった。小さい頃から、ずっとそんなふうだったから。
他の人の頭の中にも、きっとたくさんの世界が住んでいるんだて思っていた。
だけど、両親はそろって気味が悪いものを見るような顔をして私を見た。
自分の親から、そんなふうな顔で見られたのは初めてだった。
私はびっくりしたし、すごく傷つきもした。
人と違っているんだって気がついて恥ずかしくもなった。
それ以来、私はその話を誰にもしていない。時々、その世界の切れ端が、ノートの隅に描かれるだけだ。
• • •
「ゴッホって知ってる?」
夏川くんがそんな話を突然始めたのは、下校中のことだった。
一緒に帰ろうと夏川くんから誘われたので、夏川くんと並んで、学校の北校舎の裏をぶらぶらと歩いていた。
学校の門は、東西に二つある。
昇降口を出て、そのまま真っ直ぐ進めば西門に出る。
校舎裏や校庭を回って反対側に出れば東門がある。
私と夏川くんの家は学校より東の方角にあったので、北校舎裏をグルリと回った。
別に、西門は玄関のすぐ目の前なんだから、西門から出て、学校の周りをグルリと東側に回ったっていいんだけれど、
学校の中をぶらぶら散策して帰った方がずっとおもしろかった。
それで、校舎裏を回ることになった。
放課後の学校は、なぜだか魅力的だ。
夕日が西の空へ沈んでいくと、
空は真っ赤に染まったり、オレンジ色に燃えたり、金色に輝いたり、いろんな色に染まった。
そんな空の下で、校舎はだんだんと影に沈んでいくみたいに、暗がりに包まれていく。
北校舎の裏は、特に薄暗い。ひとけもなく静かで、学校といって思い浮かぶ、にぎやかなイメージとはかけ離れている。
そのひっそりとした感じが、私はとても好きだった。
それから、北校舎裏の地面。
北校舎裏の地面の土は、いつ触ってもひんやりと湿っていて、触り心地が良かった。
塀の近くにはビワの木が等間隔に植えられていて、夏になると黄色い実をたわわに実らせるそうだ。
今は四月なので、緑色の葉っぱしかついていない。
ビワが生えているあたりも、やっぱり、土はいつも湿っていて、茶色い落ち葉が積もっていた。
木の枝や靴先で落ち葉を払うと、ダンゴムシやうねうね動く名前の知らない虫が姿を見せた。
「ゴッホってさ、すごく変なやつなんだ」
夏川くんは、地面の石ころを蹴飛ばしながら言った。
私は、靴先で積もった落ち葉をつつきながら歩いていた。
突然すみかを荒らされた虫たちは、土の上で右往左往していた。
「変って、どんなふうに?」
私は、美術室に飾られた、ゴッホの「ヒマワリ」のレプリカを思い出しながら尋ねた。
「俺さ、この前、ゴッホの伝記を読んだんだけどさ……」
私たちのクラスでは、毎週水曜日のホームルームの時間に、読書をするというきまりがある。
この前の水曜日、夏川くんは真剣な顔をしてゴッホの伝記を読んでいた。
「ゴッホって、すごい画家だってことくらいしかそれまで知らなかったんだけど、なんかさ、すごい人だから、立派な人生を生きていたのかと思ったら、全然そうじゃないんだ。
ものすごく生き方が不器用で、
変わり者で、人ともぶつかってばかりいて、生きてる間はほとんど絵も売れなくてさ……」
それから、夏川くんはちょっとかがんで、足元にあった小石を一個拾いあげた。
「苦労ばっかりしてたみたいだけど、俺、それを知ってからの方が、ゴッホの絵に興味がわいたんだ」
そう言って、小石を空にかざす。
小石は琥珀みたいに、黄色みがかっていて少し透けていた。
夕陽を反射してキラキラと光る。
そうやってちゃんと眺めてみなければ気づかなかったけれど、すごくきれいだった。
「変わってるって、ある意味才能だよな。海音もさ、変人の才能があると思うよ」
「何それ? けなしてんの?」
夏川くんは驚いた顔をする。
「逆だよ。ほめてるんだよ」
そして、遠くをめがけて小石を投げた。
「ゴッホだからゴッホの絵が描けたんだし、
ゴッホの人生はゴッホにしか歩めなかったんだ。
だから、そういうことだよ」
どういうことだろう。
私は、目をパチクリさせながら、夏川くんが小石を投げた方を眺めた。
そこには藍色と紫の中間の色をした東の空があって、一番星が輝いていた。
「ただ、一個だけ残念に思うことがあるんだけど……、それはさ、ゴッホの生き方がさみしそうだったことかな」
さみしそうな画家かーー。
夏川くんの言葉は、やけに印象的に響いた。
「じゃあな」
夏川くんが私の家の前で手を振る。
夏川くんの家の方が学校に近いのに、私の家まで周り道をして見送ってくれたのだった。
私は一人でパタンと玄関のドアを閉じる。
それから、ドアにもたれて、少しぼんやりとした。
ゴッホの生き方をさみしそうだったと言った夏川くんの言葉が、ずっと頭の中でループしていた。
• • •
その日、夕食のあと、父親のパソコンでゴッホの絵やゴッホが歩んだ人生について調べてみた。
ネット上に、ゴッホが描いた絵の画像がたくさんあがっていた。
私は絵を一つ一つ眺めた。
どの絵にもインパクトがあったけれど、中でも「星月夜」というタイトルの絵にすごく惹かれた。
青い空と、こうこうと光る星と月。
空を貫く大きな糸杉と、
青い夜の闇に沈む民家と教会を描いた絵だ。
空はうねうねと生き物のようにうねり、
星も月も光りながら躍動しているみたいに見えた。
美しいような、
胸がザワザワと不安で落ちつかなくなるような、
不思議な絵だった。
見ていると、空がうねりながら迫ってくるみたいに見えた。
その空は、ゴッホが歩んだ人生そのものなんじゃないかと私は思った。
孤独とか、
苦悩とか、
理想とか、
現実とか、
ゴッホの抱えてきたものが大きなエネルギーになってうねりながらそこに描かれていた。
ゴッホは一八八一年から絵を描き始め、
一九九〇年に三十七歳の若さで死んだらしい。
そのたった九年の間に描いた絵の数に驚いた。
約八六〇点。
その絵をずらりと並べたら、どんな眺めになるだろう。
ゴッホは生き方がまっすぐだった。
絵にとことん情熱をかけたし、理想の高い人だった。
魂を削るみたいに、生活費をきりつめて絵を描いた。
だけど、生きている間に評価された絵はほとんどなかった。
今となっては、ゴッホの名を知らない人の方が珍しいくらい、有名な画家になったのに、ゴッホ自身はそれを知らない。
「ただ、一個だけ残念に思うことがあるんだけど……」
放課後の北校舎裏で、夏川くんが口にした言葉を思い出す。
「それはさ、ゴッホの生き方がさみしそうだったことかな」
ゴッホの生き方は不器用で風変わりすぎて、ゴッホの人生に寄り添ってくれる人はなかなかいなかった。
孤独に黙々と絵を描き続けるゴッホの背中を私は想像した。
ゴッホに、励ましあえる仲間がいたら良かったのに。
一緒に絵を眺めてくれる、妻や子供がいたら良かったのに。
そう思いながら眺めた「星月夜」の青い空は、とても寂しそうな空に見えた。
続く~
授業中とか、
身体測定のために廊下に一列に並んでいる時とか、
体育館で校長先生の話を聞いている時とかに。
窓はなんとなく好きだ。
絵みたいに景色を四角く切り取ってくれる。
私は窓を眺めながら、その風景にいろんな空想を付け足す。
例えば、巨大な樹の根が街を丸ごと飲み込んでしまっている様を想像したり、
校舎と同じくらいの背丈がある一つ目の巨人が、山の向こうにぬっと現れたかと思うと、どんどん近づいてきて教室の窓から中をのぞきこんでくるのを思い描いてみたり。
街が海の底に沈み、水がひたひたと空の高さまで満ち、
教室の窓の外を、クジラやジンベイザメやマンタが泳いでいくのを空想してみたり。
そんな風景のそばで、生徒たちは平然と授業を受けている。
まるで、学校の中と外は切り離された世界だって思ってるみたいに。
ノートの隅に、空想したものを落書きして、時々先生に叱られる。
だけど、描くのをやめても、一度空想した世界は、頭の中に生き生きと住み続ける。
だから、私の頭の中にはたくさんの世界が卵みたいになって、植え付けられている。
時々勝手に卵の中から生まれてきて頭の中でいろんな景色を展開させたり、また卵に戻っていったり、いくつもの世界が気ままにそこで暮らしている。
いつだったか、親にそんなふうに感じることを話したことがある。
私にしたら、それはごく普通のことだった。小さい頃から、ずっとそんなふうだったから。
他の人の頭の中にも、きっとたくさんの世界が住んでいるんだて思っていた。
だけど、両親はそろって気味が悪いものを見るような顔をして私を見た。
自分の親から、そんなふうな顔で見られたのは初めてだった。
私はびっくりしたし、すごく傷つきもした。
人と違っているんだって気がついて恥ずかしくもなった。
それ以来、私はその話を誰にもしていない。時々、その世界の切れ端が、ノートの隅に描かれるだけだ。
• • •
「ゴッホって知ってる?」
夏川くんがそんな話を突然始めたのは、下校中のことだった。
一緒に帰ろうと夏川くんから誘われたので、夏川くんと並んで、学校の北校舎の裏をぶらぶらと歩いていた。
学校の門は、東西に二つある。
昇降口を出て、そのまま真っ直ぐ進めば西門に出る。
校舎裏や校庭を回って反対側に出れば東門がある。
私と夏川くんの家は学校より東の方角にあったので、北校舎裏をグルリと回った。
別に、西門は玄関のすぐ目の前なんだから、西門から出て、学校の周りをグルリと東側に回ったっていいんだけれど、
学校の中をぶらぶら散策して帰った方がずっとおもしろかった。
それで、校舎裏を回ることになった。
放課後の学校は、なぜだか魅力的だ。
夕日が西の空へ沈んでいくと、
空は真っ赤に染まったり、オレンジ色に燃えたり、金色に輝いたり、いろんな色に染まった。
そんな空の下で、校舎はだんだんと影に沈んでいくみたいに、暗がりに包まれていく。
北校舎の裏は、特に薄暗い。ひとけもなく静かで、学校といって思い浮かぶ、にぎやかなイメージとはかけ離れている。
そのひっそりとした感じが、私はとても好きだった。
それから、北校舎裏の地面。
北校舎裏の地面の土は、いつ触ってもひんやりと湿っていて、触り心地が良かった。
塀の近くにはビワの木が等間隔に植えられていて、夏になると黄色い実をたわわに実らせるそうだ。
今は四月なので、緑色の葉っぱしかついていない。
ビワが生えているあたりも、やっぱり、土はいつも湿っていて、茶色い落ち葉が積もっていた。
木の枝や靴先で落ち葉を払うと、ダンゴムシやうねうね動く名前の知らない虫が姿を見せた。
「ゴッホってさ、すごく変なやつなんだ」
夏川くんは、地面の石ころを蹴飛ばしながら言った。
私は、靴先で積もった落ち葉をつつきながら歩いていた。
突然すみかを荒らされた虫たちは、土の上で右往左往していた。
「変って、どんなふうに?」
私は、美術室に飾られた、ゴッホの「ヒマワリ」のレプリカを思い出しながら尋ねた。
「俺さ、この前、ゴッホの伝記を読んだんだけどさ……」
私たちのクラスでは、毎週水曜日のホームルームの時間に、読書をするというきまりがある。
この前の水曜日、夏川くんは真剣な顔をしてゴッホの伝記を読んでいた。
「ゴッホって、すごい画家だってことくらいしかそれまで知らなかったんだけど、なんかさ、すごい人だから、立派な人生を生きていたのかと思ったら、全然そうじゃないんだ。
ものすごく生き方が不器用で、
変わり者で、人ともぶつかってばかりいて、生きてる間はほとんど絵も売れなくてさ……」
それから、夏川くんはちょっとかがんで、足元にあった小石を一個拾いあげた。
「苦労ばっかりしてたみたいだけど、俺、それを知ってからの方が、ゴッホの絵に興味がわいたんだ」
そう言って、小石を空にかざす。
小石は琥珀みたいに、黄色みがかっていて少し透けていた。
夕陽を反射してキラキラと光る。
そうやってちゃんと眺めてみなければ気づかなかったけれど、すごくきれいだった。
「変わってるって、ある意味才能だよな。海音もさ、変人の才能があると思うよ」
「何それ? けなしてんの?」
夏川くんは驚いた顔をする。
「逆だよ。ほめてるんだよ」
そして、遠くをめがけて小石を投げた。
「ゴッホだからゴッホの絵が描けたんだし、
ゴッホの人生はゴッホにしか歩めなかったんだ。
だから、そういうことだよ」
どういうことだろう。
私は、目をパチクリさせながら、夏川くんが小石を投げた方を眺めた。
そこには藍色と紫の中間の色をした東の空があって、一番星が輝いていた。
「ただ、一個だけ残念に思うことがあるんだけど……、それはさ、ゴッホの生き方がさみしそうだったことかな」
さみしそうな画家かーー。
夏川くんの言葉は、やけに印象的に響いた。
「じゃあな」
夏川くんが私の家の前で手を振る。
夏川くんの家の方が学校に近いのに、私の家まで周り道をして見送ってくれたのだった。
私は一人でパタンと玄関のドアを閉じる。
それから、ドアにもたれて、少しぼんやりとした。
ゴッホの生き方をさみしそうだったと言った夏川くんの言葉が、ずっと頭の中でループしていた。
• • •
その日、夕食のあと、父親のパソコンでゴッホの絵やゴッホが歩んだ人生について調べてみた。
ネット上に、ゴッホが描いた絵の画像がたくさんあがっていた。
私は絵を一つ一つ眺めた。
どの絵にもインパクトがあったけれど、中でも「星月夜」というタイトルの絵にすごく惹かれた。
青い空と、こうこうと光る星と月。
空を貫く大きな糸杉と、
青い夜の闇に沈む民家と教会を描いた絵だ。
空はうねうねと生き物のようにうねり、
星も月も光りながら躍動しているみたいに見えた。
美しいような、
胸がザワザワと不安で落ちつかなくなるような、
不思議な絵だった。
見ていると、空がうねりながら迫ってくるみたいに見えた。
その空は、ゴッホが歩んだ人生そのものなんじゃないかと私は思った。
孤独とか、
苦悩とか、
理想とか、
現実とか、
ゴッホの抱えてきたものが大きなエネルギーになってうねりながらそこに描かれていた。
ゴッホは一八八一年から絵を描き始め、
一九九〇年に三十七歳の若さで死んだらしい。
そのたった九年の間に描いた絵の数に驚いた。
約八六〇点。
その絵をずらりと並べたら、どんな眺めになるだろう。
ゴッホは生き方がまっすぐだった。
絵にとことん情熱をかけたし、理想の高い人だった。
魂を削るみたいに、生活費をきりつめて絵を描いた。
だけど、生きている間に評価された絵はほとんどなかった。
今となっては、ゴッホの名を知らない人の方が珍しいくらい、有名な画家になったのに、ゴッホ自身はそれを知らない。
「ただ、一個だけ残念に思うことがあるんだけど……」
放課後の北校舎裏で、夏川くんが口にした言葉を思い出す。
「それはさ、ゴッホの生き方がさみしそうだったことかな」
ゴッホの生き方は不器用で風変わりすぎて、ゴッホの人生に寄り添ってくれる人はなかなかいなかった。
孤独に黙々と絵を描き続けるゴッホの背中を私は想像した。
ゴッホに、励ましあえる仲間がいたら良かったのに。
一緒に絵を眺めてくれる、妻や子供がいたら良かったのに。
そう思いながら眺めた「星月夜」の青い空は、とても寂しそうな空に見えた。
続く~