中三の四月から、クラスの担任になった先生の話をしたいと思う。
 
その先生は、生徒の好き嫌いが激しい先生だった。
自分に媚びてくる生徒や、
部活やテストで優秀な成績を残している生徒が好きだった。

私は人を観察するのが苦手なので、
先生についてのそれらのことは私が発見したことではない。
同じクラスの生徒たちが、先生のことをそう言ってウワサしていたのだ。

私は、たぶん、先生の好きな部類ではないはずだ。
テストの順位は学年で中の下だったし、
運動は何をやってもダメだった。
頭の中にあるリモコンが壊れているのではないかと思うくらい、手足の動きがぎこちなく、不器用だった。
球技は特に苦手で、バスケもバレーも、パスができないので、私には誰も球を回さなかった。

私は人の気持ちは分からないけど、
その人が全身から発散する、負のオーラのようなものは、なんとなく感じ取れる。

私は先生といると、先生から何か嫌なものを感じて気持ちが落ち着かなかった。
心地が悪くて、ソワソワとした。
心がチクチクとした。
先生が発するこの負のオーラのようなものが、嫌いって感情なんだと思う。

私はクラスでいじめを受けていたが、
先生はそれに極力関わろうとしなかった。
明らかな目撃証言があって、学年主任まで話が登って行った場合には、対応してくれたが、それ以外は放置していた。
(川原の一件では、目撃した近隣住民が学校に電話したらしく、いじめっ子は一週間の出席停止になった。
夏川くんも、いじめっ子と派手にケンカしたので、校長先生から説教され、反省文を書かせられたらしい)

いじめっ子らは、明日からまた登校してくる。
明日からが少し心配だった。

いじめってなんだろう。

本で調べてみたら、〝クラスの力のバランス〟が崩れた時に起きるものだと書いてあった。

〝あいつはいつも掃除をさぼっててズルイ〟とか、〝空気読めなくてうっとうしい〟とか、
何か嫌な点があったとしても、それだけじゃいじめはおきない。
〝それを理由に、クラスの力が一人に向かってなだれ込んだ時に起きる〟と書いてあった。

いじめがある時、そこにはいつも比較があるらしい。
比較すること、優劣をつけること。
そこに力が加わるといじめになるそうだ。

力。
私はクラスをねじ曲げる大きな力を想像する。

私はこの場所で、どんなふうに生きていったらいいんだろう。
誰に聞いたら、教えてくれるんだろう。

それは、いくら本を読んでも書いていなかった。

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私のクラスには、何をするにもおっとりととりくむ、立花穂乃果(ほのか)という名前の女の子がいた。

立花さんは、先生に指名されて回答する時も、プリントを解く時も、他の人より時間がかかった。
顔の小さな女の子だった。
目立たない子だったけれど、花束に添えられたかすみ草みたいに、かわいらしい容姿をしていた。
小首をかしげて考えこむ時、肩の長さで切りそろえた髪が顔のそばで揺れた。

立花さんは答えをだすのに時間がかかるものの、その答えはいつも正解だった。
だけど、何をするにも人より遅いので、いじめっ子たちから、「のろま」と馬鹿にされることがあった。

そのせいか、立花さんはいつも自信がなさそうだった。
内気で、声が小さくて、先生に当てられるたびに、もじもじと恥ずかしそうにしていた。

今日、掃除の時間に、立花さんが男子四人ーー私をイジメのターゲットにした人たちだーーから「のろま」、「とろとろすんなよ」とバカにされていた。

立花さんは、教室の掃き掃除をしている途中だった。彼女は男子たちに言い返すこともできないでいた。
男子の一人が濡れた雑巾を立花さんに投げつける。肩のあたりに当たったのを見て、他の男子が笑っていた。

雑巾が床にビチョリと落ちる。
立花さんは、ほうきを持ったまま、目のあたりを赤くしていた。
泣くのをこらえているようで、肩がほんの少し震えていた。

周りにいる人達は、時々ちらちらと立花さんを見るけれど、誰も口をはさもうとはしない。
みんな、黙々と掃除をしていた。

そんな中、教室に入ってきたのは夏川くんとその友達ーー月森悠人(つきもりゆうと)という名前だったーーの二人だった。

二人は、違う場所の掃除を割り当てられていて、それを済ませて教室に戻ってきたところだった。

夏川くんは、教室に入ってすぐに教室のトゲトゲとした気配に気がついたようで、教室を一度見回してからすぐに立花さんに近づいていった。

私はその時、胸がザワッとした。
何か変だった。
教室にいる生徒みんなが、夏川くんをチラリと見て息をのんだ。みんな、口を固く噛みしめていた。
教室の空気が、急に息苦しくなった気がして、どういうことだろうと思った。

夏川くんは、のしかかってくる教室の空気なんておかまいなしというふうに、平然とした顔をしていた。
立花さんに微笑みかける余裕すらあった。

夏川くんは、教室の空気を破るみたいに、穏やかな声で、
「立花、先生が用事があるって言ってたよ」
と言った。
 
立花さんは救われたような顔をすると、
「先生のところに行ってくる」
と言って教室を飛び出していった。

いじめっ子たちは、面白くなさそうな顔をして、夏川くんをにらんでいた。

「俺が言ったこと、嘘だと思ってるのか?」

夏川くんは、いじめっ子たちに言った。

「本当だよ。先生をここに呼んできた方が良かったか?」
 
いじめっ子の一人が舌打ちし、
「行こうぜ」
と言って、連れ立って教室を出ていった。

教室中の人が、ほっとしたみたいに、ザワザワと雑談し始めた。

「晴空、おまえさ……」
月森くんが隣であきれた顔をしていた。
「そんなことをしてたら、そのうちおまえの方がいじめられるぞ」
私はその言葉を聞いて、ドキリとした。
そうだったのか。
さっきの行動は、そんなリスクのあることだったのか。

私はほうきを握る手にギュッと力を込めた。
夏川くんがいじめられたらと思うと不安だった。
しかし、夏川くんは、別にどうでも良さそうな顔をしていた。

「そうかもな」
「なんで、そんなふうにノンキにかまえていられるんだよ」

そのやりとりを聞いていた私は、思わず夏川くんに話しかけていた。

「どうして?」

急に話しかけられた夏川くんが驚いた顔をして私に振り返る。
月森くんもギョッとしていた。

「自分の方がいじめられるかもしれないようなことをどうしてするの?」

月森くんは「なんだ、こいつ」っていう顔をしていた。
夏川くんもやっぱり驚いた顔をしていたが、月森くんとはまた違った表情を浮かべていた。

「俺らの会話、聞いてたんだ」

私は、そう言われて急に恥ずかしくなり、慌ててそっぽを向いた。

「別に、聞こうと思って聞いてたわけじゃないよ。
たまたま近くにいたから……」

言い訳っぽく聞こえる気がして、私はどんどんと困惑していった。思わず、怒ったみたいな顔になる。

「それより、どうしてあんなことしたの……?」

私はどうしてもそれが聞きたかった。
目を合わすと余計にソワソワしたので、私はうつむいてそう尋ねた。眉根にギュッと力がよる。全然、かわいくない顔をしていたと思う。

夏川くんがこちらをじっと見つめるのを感じた。

「南こそ、なんでそれを知りたいんだ?」

「なんでって……」

答えにつまる。
なんでか、自分でもよく分からなかった。
自分の心をのぞきこもうとすると、ものすごくくすぐったいような気持ちを感じて、私はとまどった。

私はしばらく黙っていた。チラリと目をあげると、私の顔をじっと見ている夏川くんの視線とぶつかった。
私は自分の顔がカーッと熱くなるのを感じた。

そんな私を見つめていた夏川くんが、ふっと微笑んだ。

「おせっかいなやつだな」 

私は、目を丸くして夏川くんを見た。
「おせっかい? それは、夏川くんの方でしょ?」

「どっちだっていいよ」

夏川くんは穏やかに笑って言った。
わた雲みたいな笑顔だと思った。

「晴空、そんなやつ、もういいよ。帰ろうぜ」

月森くんがそう言って、机の上に腰をかけて退屈そうに足をブラブラさせていた。
すでに帰り支度はできていて、背中に鞄を背負っていた。
夏川くんが、ああ、と応じて、鞄を手に取る。

私との会話は終わってしまったようだ。

夏川くんと月森くんは楽しそうに話をしながら、教室の入り口の方へ足を向けた。
たわいのない話をして笑い合っている二人を眺めて、胸がスンとさみしくなった。

私はうつむいた。
やっぱり眉根にギュッと力がこもる。
全然かわいくない顔をして、
「掃除の邪魔だから、早く帰って」
と言った。
その言葉は、自分でもびっくりするくらい嘘っぽかった。
なんだか、胸が余計にスンとさみしくなった。

そんな私の脇をすり抜ける間際に、
夏川くんは一瞬、私を見て微笑んだ。

その一瞬の表情に、私は息をのんだ。

ずっとうつむいて歩いていて、ふと顔を上げたら目の前に満開の桜があったような気分だった。
私の胸に、何か淡く甘い感情がよぎった。

      • • •

いつの間にか掃除は終わっていて、教室には私一人になっていた。
窓の外を眺めると、空の高いところに綿を薄くちぎって放り投げたような雲が出ていた。
春の、穏やかな空だった。

窓辺に立ち尽くしていると、夏川くんと月森くんが校庭を横切って門に向かっていくのが見えた。

教室はしんと静まり返っていた。

私はまだほうきを手にしたままで、それを片付けるのも忘れて、二人の姿が見えなくなるまで窓の外を眺めていた。