それからーー。
私たちは、二人で絵を片付けると、校庭を通って帰った。
三日後には、この場所で体育祭が行われる。
校庭には万国旗が飾られていた。
当日はにぎやかだろうが、今は校庭に二人っきりだった。
万国旗が風になる音がした。

晴空は校庭の真ん中で立ち止まり、赤く染まる西の空に目を向けた。そして、
「気持ちのいい夕焼けだな」
と言った。

私も、夕日を見上げた。
赤い光が、シャワーみたいに全身に注がれる。気持ちがよくて、思わず目を細めた。

「本当」

私の体は、花になったみたいだった。水を浴びてふるえる花みたいに。

「気持ちいい」
私は、思わずそう声に出してつぶやいていた。

光におぼれそうだった。
私は目を閉じて、うっとりとした。

       • • •
 
体育祭当日ーー。

空は、見つめる瞳を青く染めそうなくらい、みごとに晴れていた。万国旗も、気持ちよさそうに風にはためいていた。

校庭には全学年の生徒たちが、クラスごとに二列に並んで整列していた。
 
朝礼台で校長先生が長々と話をしている。
私の前方には一条さんと立花さんが並んでいて、一条さんが立花さんの肩をトントンとたたいて耳元で何かをささやく。
二人して、クスクスと笑った。

そんな様子をぼんやりと見ていると、背中をツンツンと誰かにつつかれた。
振り返ると、斜め後ろに月森くんが並んでいた。

「なんでそんなところにいるの?」

月森くんの並ぶ場所は、もっとずっと後ろのはずだった。

「そんなこと気にするなよ」

月森くんは、自分の前にいた男子の肩をたたき、「そこ、代わってくれ」と言った。

「ええ? 先生に怒られるよ」

「大丈夫だって、とにかく代われって」

半ば強引に私のとなりに並んだ。

「本当に先生に怒られても知らないよ」
と私は言った。

「怒られたら、怒られた時のことだよ」

月森くんは相変わらずお気楽だ。

「それよりさ、あれ、すごいな」

月森くんが、校庭のフェンスにズラッと並んだ各クラスのフラグに目をやる。

「海音の絵が一番だよ。
よく描ききったな、あんな凝った絵。
みんな言ってたぜ。
おまえに描いてもらって良かったって」

照れくさい気持ちと、ほこらしい気持ちを両方感じた。私も、月森くんとフラグを眺めた。

校長先生のあいさつが終わり、生徒の代表が選手宣誓を行った。

その次に朝礼台の上に現れたのは音楽の先生だった。
吹奏楽部の子たちが楽器を持って、朝礼台の後ろに並ぶ。
音楽の先生が指揮棒をかまえると、吹奏楽部の部員たちはサッと楽器をかまえて演奏の体勢に入った。
その様子がとても勇ましく見えた。
金色や銀色の管楽器が、太陽の光を反射して輝く。

緊迫感がある一瞬の静寂ののち、指揮棒が踊り始め、スネアドラムが軽快にリズムを刻み、フルートの音が校庭に広がっていく。

演奏されているのはボレロだった。

軽快なリズムにのって、一年生がトラックの周りをグルッと行進して待機場所のテントへ退場していく。

同一のリズムをひたすら繰り返しながら、だんだんと演奏が大きくなっていく。
たくさんの管楽器や弦楽器の音が重なり、重厚な響きを作りだす。

そんな中を、二年生、三年生と、順番に行進して退場口に向かう。

列になって校庭を歩きながら、なんとなく、船上パーティみたいだと思った。
学校全体が大きな船で、ここは甲板。
たくさんの人がにぎやかに音楽を楽しんでいる。
 
校庭を見渡すと、観覧場所と競技場所を隔てたロープの向こうに私の両親が並んで立っているのが見えた。

両親は私と視線が合うと、二人でタイミングをそろえて手を振ってきた。
どうやら、ケンカは丸く収まったらしかった。 

やれやれだ。
また、いつケンカするか分からないけれど、とりあえずは良かった。

ケンカしながらもずっと別れないから、両親はあれでいて、仲がいいのかもしれない。
老夫婦になるまで結局一緒にいて、
シワシワの手に湯呑みを持って縁側に並び、
ケンカした日々を談笑しながら振り返ったりする日が来るのかもしれない。

私は両親に微笑んで、小さく手を振り返した。両親は私の笑みを受け止めてから、視線をフラグに向けた。すごいね、と言うように。

フラグの中では、飛行船と船が合体したような機体が悠々と飛んでいた。
ボレロが、勇ましく校庭に鳴り響く。
今にも、勇ましい音楽にのって、船が絵を突き抜けて青空に飛び出してきそうだった。

「あの絵、遠くから見ても圧倒されるけど、近くから見たら、細かいところまでリアルでまたびっくりするよな」

月森くんが、演奏や観客たちのざわめきに負けないように声を張り上げた。

機体には細かい部品がたくさんあって、できるだけ細かいところまで描きこんでいた。
船には丸い窓がたくさん並んでいる。
本当は、その向こうにクラスの生徒全員の顔を描きたかった。対象が小さすぎるので、そこまでは描けなかったけれど、私はあの窓の向こうにクラスの生徒がみんないるつもりでいた。

もちろん、私自身も、晴空も。

「赤い花もきれいだな」

「きれいでしょ」
と私は言った。

船から見下ろせば、大地は真っ赤に染まって見えるだろう。
あの赤い花たちは、私たちの思い。
そして願い。
希望の源。

私が絵を見つめていると、校庭に風が吹いた。
校庭の隅にある藤棚から甘い香りがした。
まるで、絵の花が香ったみたいだった。

私は立ち止まり、花のにおいをかいだ。
目を閉じると、絵の中にいるみたいだった。

まぶたの裏に、船の看板の景色が広がる。
同じクラスのみんなもそこにいて、船上パーティがもよおされていた。高らかに管楽器の音が鳴り響く。
そこには、いろんな顔をした人がいた。
すぐに怒る人も、すぐにいじける人も、いじめっ子も、いろんな人がいて、一つにつながりあうことはないけれど、同じ場所で笑っていた。

「何、立ち止まってんだ。行こうぜ」

月森くんに手首をつかまれ引っ張られる。
私の後ろで渋滞していた流れが動き出す。

列の前方では、一条さんが背中の後ろで手を組んでおしゃまに歩いていた。
立花さんもそのとなりにいた。握った手を口元にあてて一条さんに微笑みながら歩いていた。
月森くんは、私の隣でダラダラとやる気がなさそうに歩いていた。

ふと、列の後ろの方に目をやると、いじめっ子たちがじっとフラグを眺めながら歩いていた。その顔は年相応で、彼らもただの子供なんだなと思えた。

スネアドラムがリズムを刻む。
自然と足が軽くなる。
トラックの周りを演奏にのって行進していた時、空を大きな機械音が横切るのを聞いた。

見上げると、どこかの病院のドクターヘリが空を飛んでいくのが見えた。
私はその姿に、自分が描いた船を重ねた。

校庭に春の突風がふく。まるで、真上を通過する船が巻き起こした風のようだった。

「すごい風」

びゅうびゅうと校庭を吹き抜ける風に、月森くんが片目をつぶる。私は風になびく髪を手でおさえながら、空を見上げていた。

ジャーンとシンバルが鳴り、大太鼓とドラが心臓に響くような大きな音を立てる。
演奏は最高潮を迎えた。
高らかな管楽器の音が空へとのぼる。

ヘリコプターが遠ざかる。
私は自分の描いた船が、空の彼方へ遠ざかっていく様を思い描いた。
船は手を振るようにクルクルと旋回してから遠ざかっていく。
旅立っていくんだと私は思った。

空へ。空の先へ。
まだ見たことのない場所へーー。

私は、青い空を見上げて、船を見送った。

        • • •


体育祭の幕が開いた。
中学校最後の体育祭だ。

徒競走や、ダンスや、騎馬戦や、綱引きなど、たくさんの競技があった。
赤と白のハチマキが白線を引いた土の上で踊る。普段教室におさまっている生徒たちが、体操着を着て、土を踏み駆ける。体をしならせ、時にぶつかりあう。
それぞれの競技が盛り上がり、声援がワアワアと校庭に響いていた。

私が一番最後に参加した種目は障害物競争だった。
私は、マットの上で後転をして、跳び箱を飛んで、網をくぐって、一生懸命に走った。

ダントツで遅かったけれど、そんなに悪い思い出にはならなかった。

走っている間、晴空や月森くんや一条さんや立花さんの、がんばれという声が聞こえていた。

走り終え、出番が終わった生徒の列に並ぶ。
すると、晴空が生徒をかき分けて列の前の方から私のとなりに移動してきた。
「相変わらず、運動神経が悪いな。跳び箱って、座るもんじゃないんだぞ」
と言った。

「分かってるよ。飛び越えられないんだもん」

晴空が、クスリとした。

「でも、よくがんばったな」

そう言って、頭に手をのせる。 

三年生が全員障害物競走を終え、ピッとホイッスルが鳴った。
審判が校庭の真ん中に進み出て、「白、勝ち!」と声を上げた。私のクラスは白組だったので、まわりからワッと声が上がった。

そのあと、ピーッピッとホイッスルが鳴って、それを合図に三年生がゾロゾロと退場を始めた。

晴空は私のとなりを歩きながら、私の方を向いて笑った。

「なあ、おまえ、がんばったのはわかるけど、網に引っかかって、髪がボサボサ」

そう言って髪を手でなでて直してくれた。
嬉しいような、くすぐったいような心地がした。

出番を終えた生徒は、待機用のテントに戻るようになっている。
テントの下には、教室から運んだ椅子が並んでいた。
待機中はそこに座って違う学年の競技を眺めるのだ。

三年生がちんたらと喋りながらテントに向かっていたころ、校庭の真ん中では、保護者が二チームに別れて綱引きをしていた。

オーエス、オーエス、という掛け声が聞こえる。

中年になって、若い頃より腹回りの肉付きがよくなった父親たちが、赤い顔で天を見上げて必死に綱を引いていた。
スピーカーからは、流行りの歌がBGMになって流れていた。

あたりはにぎやかだった。
晴空は私の髪をなでながら、
「なかなか直らないな」
とおかしそうに笑っていたけれど、私がくすぐったそうな視線を送ると、ふっと笑うのをやめて真面目な顔をした。

私はドキリとして、周りの音も景色もぼやけるのを感じた。
晴空の姿だけが、くっきりと見えていた。

晴空は、私の頭をゆっくりとなでながら、
「四月に転校してきた時より、少し髪が伸びたね」
と言った。

そうかな、と答えかけた私の声にかぶせて、晴空がこう言った。

「好きだよ」

「え?」
私は頭が真っ白になりかけた。

「今の長さ」

「あ……、す、好きって、髪の話?」
なんだ、と思った。
だけど、まだ心臓がドキドキしていた。

私たちが向かいあって立っているそばを、幼いーーたぶん、五、六歳くらいのーー男の子と女の子が走り抜けていった。
二人は仲良さげに手をつないでいた。

男の子の手は日に焼けていて、どことなくやんちゃそうな手をしていた。女の子の手は、白く柔らかそうだった。
 
「じゃあ、次、出番だから」

晴空はそう言って、私に手を振った。
次の種目は体育祭の最後を締めくくる紅白対抗リレーだった。

私はまだドキドキと騒ぐ胸に手を当てて、晴空を見送った。

「なあなあ、とうとう最後の種目だな」

待機用のテントの下にもどり、椅子に腰かけると、月森くんが私のとなりに腰かけて話しかけてきた。

「ああ、見てるこっちが緊張する」
一条さんも近くの席にいた。両手を膝の上でギュッと握りしめて、列に並ぶ晴空を見守っている。

ピストルの音がして、一年生から順番に走っていく。

バトンが次々に渡り、とうとう晴空の順番が回ってきた。
アンカーのタスキをかけた晴空が、助走に入る。そして、晴空の手にバトンが渡った。

本当に見ているこっちが緊張した。
だけど、晴空は全然緊張していないように見えた。
晴空はとてもきれいなフォームで走る。
涼しそうな顔で、前を走っていた人を抜いて、トップに躍り出た。
思わず胸の前で祈るように手を握り合わせていた。

晴空や他の走者たちが、三年生のテントの前を通過して行く。
風を切るように、目の前を横切る。

私は前のめりになって晴空を見つめた。

すると、通り過ぎざまに、晴空がテントの方にちらりと目を向けた。

それは、一瞬のできごとだった。

晴空は、テントの下の私の視線を、一瞬ではあったけれど、はっきりと捉えて微笑んだ。

ハッとして、息を飲んだ。
瞬間的に体温が一度くらい上昇した気がした。

その時、私は自分の中にしまわれていた箱が開くのを見た。
その中には、四月に晴空と出会った時から、ずっと秘められていた思いが入っていた。

晴空が風のように走り抜け、一着でゴールテープを切った。

ピストルの音が校庭に響いた。

晴空がテントの下に戻ってきた時、私は目を合わせられなかった。

晴空の椅子は私の一つ前だった。
振り返って話しかけてくる晴空から、私は顔を背けた。

「何、赤い顔してんの」

晴空はそう言って熱をもった私の頬に手を伸ばしてくる。
その手を私は無言で払いのけた。

「どうした?」

「私にかまわないでよ」

まだ晴空に素直になれなかったころの自分に戻ったみたいに、晴空を拒絶した。

「何? また、そこから始めんの?」

晴空はやれやれというような顔をした。

「まあ、いいけど」

そう言った声には微笑がふくまれていた。

スピーカーからは、淡い恋を歌詞にした歌が流れていた。今の私には少しくすぐったい。
困惑したような表情をしてうつむいている私に晴空はクスリとした。

それから、私に顔を近づけてくると、私たちのすぐそばにいる月森くんにも聞こえないくらいのささやき声で、
「なあ……」
と声をかけてきた。

「何?」

心臓がタップダンスを踊っているみたいだった。
ますます顔が熱くなる。
とまどいを隠すように、つんと澄ました顔をしていた。

晴空がそんな私の肩をつかんで、グッと自分の方に引き寄せた。そして、耳元で、
「俺、おまえのこと……」
とささやいた。

その瞬間、時は止まった。

確かに、私の中で、一瞬、時間が止まったのだった。

晴空は、ふっと微笑むと、耳元でこう言った。

「やっぱり、まだ言わない。おまえの心の準備ができるまで気長に待ってるよ」

それから、晴空は私の肩から手を離すと、私を焦らして楽しんでいるみたいに、ニッと笑った。

信じられない、と私は思った。
肝心な言葉は一言も伝えてもらっていないのに、私の気持ちはもう後戻りできなくなっていた。

「そこまで言ったんだったら、言ってよ!」

晴空が笑った。

「言ってほしかったんだ?」

私は耳まで赤くなるのを感じて、慌ててプイッと顔をそむけた。

体育祭の終わりを告げるホイッスルの音がする。
 
私たちは、もうすぐ、友達ではなくなるのかもしれない。
そんな予感を感じながら、晴れた空を見上げた。

万国旗が空の下ではためく。
校庭のフェンスにとりつけられたフラグも、ハタハタと鳴っていた。
はるか彼方の空では、雲が風に押し流されていた。

見上げる空は、果てしなく広かった。
まるで、大きく手を広げ、私たち二人が未来に追いつくのを待ってくれているみたいだった。

私は胸の中で密やかに、
「好き」とつぶやいた。