ケーキも食べ終わった頃、立花さんと一条さんの親が車で迎えにやってきて、二人は帰っていった。

月森くんは今日泊まっていくらしく、今、お風呂に入っていた。

晴空のお母さんとお父さんは、おばあちゃんの寝る準備を整えていたし、晴空も何をしているのか、部屋の中から姿を消していた。

ぽつんと、ソファーの上で膝を抱えてみる。
帰らなきゃ、と思いながらも、柔らかなソファーに体を沈めたまま、立ち上がれずにいた。

ぼんやりとそうやって過ごしていると、先ほどまでこの部屋に満ちていたたくさんの人の声が、残響のように聞こえる気がした。
私はそんな声に耳に傾けながら、目をつぶった。そして、心の中でこうつぶやいた。

もしも……。
今日ここに集まったみんなでずっと一緒にいることができたら、どんなに素敵だろう。
みんなで、共同生活できるとしたら。
 
晴空はきっと、みんなのいい世話役になるだろう。
月森くんはふざけてばかりいるだろう。
立花さんは物静かに、
一条さんは感情豊かにふるまうだろう。

例えば、フラグに描いた船の上で、そんなふうにみんなで暮らせたら、とても楽しいだろう。

船は悠々と空や海を渡っていく。
みんなは船の小さなキッチンで協力しあって料理をしたり、
どこかの島に乗り上げて、木と木の間にロープを張って洗濯物を干したりする。
風に気持ちよさそうにはためく服は、大きさも色もまちまちで、洗い立てのいい香りがしている。

もし、その場所に私がいたら、私はどんなふうに過ごすだろう。

船が青い空へ吸い込まれるように上っていく。窓の向こうの空を眺めていたみんなが、私の方へ振り返って、笑いかけるーー。

……、……い、おーい!

空想にどっぷり浸かっていた私の耳に、現実の晴空の声が聞こえて、ハッとした。

「おーい!」

気がつけば、晴空が私のすぐそばにいて顔をのぞきこんでいた。 

「ここにいる?」

「え? 何? どういうこと?」

私は首を傾げた。

「また空想にのめりこんでただろ」

晴空が眉を八の字にしてため息をついた。

「おまえさ、空想してる時は周りの音も聞こえてないし、何にも見えてないような顔してるよ」

「本当?」

「本当。頼むから、道を歩いてる時だけは空想しないで前を見て歩いてくれよ」

そう言いながら、晴空は手に提げていたお盆をテーブルに置いた。お盆には、麦茶の入ったグラスが二つのっていた。

「飲む?」

晴空がグラスを私に差し出す。
うん、と答えて、グラスを受け取った。

晴空は自分の分のグラスを手にすると、隣にドサッと腰を下ろした。

それから、麦茶を二人で少しずつ飲んだ。
晴空はグラスを持つ手を下げるたびに、チラリと私を見た。だけど、何も言わなかった。
急に、会話が途切れてしんとする。

しばらくして、晴空はグラスを手の中で回しながら、「そういやさ……」と言った。
「聞けてなかったけど、なんで急に俺んちに来たの?」

私はすぐには答えられなかった。
耳に刺さるような両親の声を思い出す。私はグラスのふちを指でなぞりながら、
「もう、忘れちゃった」
と言った。

「本当に?」

晴空が心配そうな顔をする。

私は大丈夫という印に微笑む。

それから、グラスをテーブルに置いて膝を抱くと、今日ここであったことを思い返しながら言った。

「今日、とっても楽しかった。
ここに来てよかったと思った。
みんなでワイワイするうちに、嫌な出来事もちょっと遠いものになった気がした。
こういうのって、いいね」

晴空は柔らかく微笑んだ。

「そっか」

部屋のドアが開いて、風呂上がりの月森くんが顔をのぞかせた。晴空に借りたTシャツと短パンを着ていた。

「おさきー」

まだ半乾きの髪を、首にかけたタオルで拭きながら、冷蔵庫から麦茶のパックを取り出して、グラスに注いでゴクゴク飲んだ。
それから、壁にかかった時計を見て、
「もうこんな時間なんだ」
と言った。

私も時計に視線を向ける。
もう九時を回っていた。
驚いた! もう帰らなければ。
私はパッとソファーから立ち上がった。

「もう遅いから、帰る? 
父さんに車を出してもらおうか?」
と晴空が尋ねてきた。

ソファーに腰かけている晴空に振り返った。その途端、名残惜しい気持ちがして、私は帰る踏ん切りがつかなくなってしまった。
それでも、時間は刻々と過ぎていく。私はどうしたらいいのかまったく分からなくなってしまった。

そのとき、月森くんがサラッとこう言った。
「海音も、もう、いっそのこと泊まってったら」

私は、
「え⁉︎」
と大きな声を出した。

「いいじゃん。明日は日曜日だし、朝もゆっくりできるしさ」

「だけど……」

私は、顔を赤くした。

「俺が泊まるのと、海音が泊まるのと、何が違うわけ?
おまえら、友達だろ?」

私と晴空が顔を見合わせた。

「何? それとも、ただの友達じゃないわけ?」

月森くんが私たちの顔を代わるがわる眺めた。反応を確かめているみたいだった。

「た、ただの友達だよ」

晴空がそう言って、月森くんの視線から逃れるように顔を背けた。少し頬が赤く見えた。

「じゃあ、なんも問題ないよな」

月森くんはそう言うと、ソファーにどっかりと座りこんで、テーブルの上にあったリモコンでテレビをつけた。

もう、話は終了してしまったらしい。

私は晴空と再び顔を見合わせた。
胸には、戸惑う気持ちと、このまま話の流れにのってここに留まりたい気持ちが混在していた。
晴空も複雑な表情をしていた。
まごまごしている二人を見て、月森くんが言った。

「早くどっちか風呂に入ってくれば? それとも、一緒に入んの?」

「入らない!」

晴空と二人で赤い顔をして、ぴったり声をそろえて言った。

月森くんは私たちを見てニヤリとした。
それから、鼻歌混じりにテレビを見始めた。
そのときの月森くんの顔を横から眺めると、まるで面白いオモチャでも見つけたみたいに、ご機嫌な顔をしていたのだった。

     ・   ・   ・
 
 
晴空の部屋には何回か遊びにいったことがある。

だけど、晴空のベッドの上に寝転がって天井を眺めたことはなかった。

電気はすでに消えていた。
ベッドのシーツからも、パジャマからもいい香りがしていた。
私は、明らかにサイズが合っていない晴空のパジャマを着ていた。クンクンと袖のにおいをかぐ。人の家の洗濯洗剤の香りだと思った。

今、晴空と月森くんは、一階の畳敷きの客間に布団を敷いて寝ていた。
この部屋にいるのは私一人だった。
(月森くんは、「修学旅行みたいに客間に三つ布団を並べよう」と提案したのだったが、
「アホ。さすがに一緒の部屋では寝れないよ」と晴空が却下したのだった) 

だけど……。

私は、晴空の部屋を見渡す。
晴空の部屋に男子二人が寝て、私が客間に寝たら良かったのに。
とてもじゃないけど、ドキドキして眠れそうになかった。

晴空の部屋は、とっても晴空らしかった。
きれいに片付いているが、適度に生活感があって、居心地のいい部屋だった。
目を閉じると、ここで勉強したり、ベッドに寝転がったり、マンガを読んだりしている晴空の様子が、ありありと頭に浮かんできた。
部屋中に晴空の気配を感じた。
私はドキドキして、何度も寝返りをうった。

その時、ドアをノックする音が聞こえた。返事をすると、ドアが遠慮がちに開いた。

「起きてた?」 
と、ドアの隙間から、晴空が尋ねてきた。

「ごめん、ちょっと、机の上のものを取りたくて……。入っていい?」

まるで人の部屋に入るみたいに緊張して話すので、私まで緊張した。

晴空は机の上のコンセントにつながっていた携帯電話の充電器を引っこ抜いて、それを持ってドアノブに手をかけた。
ドアを開き、そして、出ていきかけて立ち止まった。

「それとさ、なんか……、寝つけなくて……」

半開きのドアに顔を向けたままでそうつぶやいた。

私は晴空の背中を見つめて、
「私も……」
と答えた。

「悠人のやつはすぐ寝たよ。
あいつって、どこでも自分んちみたいにくつろげるんだ。
ふてぶてしいやつだよな」

晴空が振り返って笑う。
私もクスッとした。

「ねえ、ちょっとだけ夜ふかししない?」  

心臓がバクバクしていた。少しでも落ちつきたくて、クッションをギュッと抱きしめながら尋ねた。

「いいよ」
という返事が聞こえた。
私は緊張を必死に隠して、楽しそうな顔をして、
「いつもの、あれ。対戦ゲーム」
と、テレビゲームのコントローラーをいじるような手の動きをして見せた。

「いいね。だけど、おまえ、弱いからな」

晴空の顔の緊張がゆるむ。

「今度こそ勝つから」

晴空の両親に夜更かししていると気づかれないように、部屋の明かりもテレビの音量もしぼって、小声でクスクス笑いながらゲームをした。
楽しくて、楽しくて、何度も繰り返した。

時間はすぐに経って、あっという間に時計の針がクルクルと回る。
気づけば、もうすぐ〇時だった。

「そろそろ、寝なきゃな」

晴空が時計を眺めて言った。こんなに夜遅くまで起きていたのは、初めてだった。

晴空と並んで時計を見つめて、しばらく黙り込んだ。
カチカチと秒針が時を刻む音がする。
今日一日のうちにいろんなことがあった。
晴空と美術館に行って、バスに乗って、晴空の誕生日を祝って……。
楽しすぎて、今日が終わるのをさみしく感じた。

となりで晴空はしばらく黙っていた。
私と一緒で少しさみしそうだった。
そのとき、時計の針は〇時の一分前を指していた。

「晴空の誕生日、あとちょっとで終わっちゃうね」
と私は言った。

「ちゃんと言えてなかったけど、おめでとう」

見ていないけれど、晴空がとなりで微笑んだ気配がした。

「だけど、私、晴空になんにもあげてないね」

晴空の机の上には、今日月森くんたちからもらったサッカーボールが、ラッピングされたまま机の上に置かれていた。

「別にプレゼントはいいよ。
誕生日だって、知らなかったんだし」

ゲーム機を片付けながら晴空がそう言った。
だけど、私はすっきりとしない気持ちがしていた。クッションを抱いてベッドに腰をかけながら、
「だけど……」
とつぶやく。

「私、今まで、晴空からたくさんのことをしてもらったじゃない?
たくさんの言葉をかけてもらったし、泣いたり、怒ったり、さみしくなったりしても、そばにいてくれたし、助けてももらった。
今まで、晴空から何かしてもらってばっかりで、何にも返せてない。
せめて、誕生日の日くらい、何かしてあげたかった」

クッションにあごをうずめ、ぼんやりとする。
晴空は、そんな私の顔を眺めて微笑んだ。そして、ベッドに並んで腰かけた。ベッドがきしむ音がした。

「じゃあ、一つ、海音にお願いがあるんだけど……」

晴空が、体の後ろに両腕をついて天井を見上げた。
天井の向こうにある星空を見透かそうとするような、遠くを見つめる目をしていた。

「何?」

私は晴空の横顔を眺めた。
晴空は、「これはさ、海音にしかできないことなんだ」と言った。

「そんなこと、ある?」

「あるよ」

いったいなんだろう?
首を傾げた私に、晴空は、
「絵を描いてほしいんだ」
と言った。

「絵?」

私は目を丸くして晴空の顔をじっと見つめた。

「私の絵なんてもらって嬉しい?」

「絵を描いて俺にくれって言ってるんじゃないよ」

どういうことか分からなくて、また首を傾げると、晴空がちょっと笑った。
それからベッドの上の私の手に、自分の手をそっと重ねてきた。
私はドキリとした。

「ただ、絵を描いてくれるだけでいいんだ。
おまえさ、絵の才能があると思うよ。

別に、夢を押し付けるわけじゃないけど、
磨けばきっと光ると思う。
だから、これからも絵を描いてほしいんだ」

その言葉には、私の幸福を願う気持ちがこもっていた。晴空が、澄んだ瞳で私を見つめていた。

「晴空のお願いってそれ?」

「そうだよ」

「そんなのでいいの? 晴空自身がほしいものとかないの?」

「俺が欲しいもの? じゃあ、それは来年の誕生日にでもくれよ。
今は、それが一番叶えたいことかな」

晴空の瞳はまっすぐで、その視線の先には私の未来の姿がある気がした。
遠い未来の私の幸せまで、晴空は願ってくれていた。

私は驚きに瞳が揺れた。
驚きが通り過ぎると、今度は体中に熱い血が流れるのを感じた。

「分かった」

晴空の瞳の奥をのぞきこみながら、私は言った。ベッドの上で重なった手が温かった。

「私、絵を描いてみる。
たくさん、たくさん、描いてみる」

そう口にしたとき、自分の心の中に光るものを見つけた気がした。
真っ暗い海の上で星を見つけたみたいだ。

「無理はしなくていいけど、楽しんで描いてよ」

晴空が優しく私の手を包んで言った。
うん、と答えて、私は天井を見上げた。

きっと、今日はこの天井の向こうにきれいな星空が広がっているにちがいないーー。
根拠なんてないけれど、そう信じさせてくれるような夜だった。

「晴空、私、今夜二人で話したことを忘れないよ」

晴空は、嬉しそうに、
「俺も」
と言った。

続く~