約束の土曜日の午後。
バスから降りると晴れた空が見えた。

バス停から真っ直ぐ伸びる大通りを、晴空と二人で並んで歩く。
美術館通りという看板が見えた。

「晴空が絵を好きだなんて知らなかったよ」

「俺? 俺は全然絵なんかに興味ねーよ」

私は、マンガみたいにずっこけそうになった。

「じゃあ、なんで誘ったの?」

晴空はそれには答えず、
「あ、ほら、見えてきたぜ」
と、前方を指差した。

「質問に答えてよ!」

つっこむ私を無視して、晴空は早足に歩き出す。
晴空が進む先に、塀に囲まれた緑の丘が見えた。
丘をのぼった先に、箱のような形の建物が建っていた。

「あれがそうだよ」

そう言って足を速める。

「ちょっと待てよ」

晴空はいたずらっぽく笑いながら、駆け足で先をいく。
あとについて門を通り抜けると、丘の傾斜に沿って石段がつくられていた。
そこを進んだ先に、美術館があった。

晴空は、こちらに時々振り返りながら、石段を駆け上がって行く。

「おせーぞ」

「もー、なんで走るの」 

文句を言いながらも走ってついてくる私に、晴空は時々振り返って楽しそうな顔をしていた。

美術館の入場窓口についた時には息を切らしていた。膝に手をついて、
「中に入る前にどっと疲れたよ」
とため息をついた。

そんな私のとなりで、晴空は息も乱さず平気な顔をして入場券を買っていた。サラッと私の分まで代金を支払い、チケットを二枚受け取る。

「私の分まで払わなくて良かったのに……」

「まあまあ、いいからさ」

「良くないよ」

晴空は財布に手を伸ばそうとする私の手首をつかみ、もう一方の手で展示室の入り口のドアを押し開く。

「とにかくさ、あれこれ言わずに中に入ってみろよ!」

そう言って、私の手を引っ張って中に入っていく。私の前に広々とした空間が現れた。

目に飛び込んできたのは、吹き抜けのだだっ広い部屋と、その壁に並んだ数えきれないほどの絵だった。

私は息を飲んで辺りを眺めた。

四方を取り囲む、たくさんの絵、絵、絵、絵。小さいもの、大きいもの。
落ちついた色合いのもの、
色鮮やかなもの。
一個一個が独立した世界みたいに濃厚だった。

それらが一気に目に飛び込んできて、まるで洪水のようだ。

その空間の真ん中に立ち、目を丸くしてグルッと絵を見回した。
私の足がクルクルと回転するように動く。
私は息をするのも忘れて、クルクルと回りながら私を囲む絵を眺めていた。

「おいおい、目が回るぞ」

晴空が笑う。私は立ち止まり、
「あんまり、すごい光景だったから」
と言った。
高揚した表情の私を見て、晴空は満足げに目を細めた。

「一枚一枚、ゆっくり見てもいい?」  

「もちろん」

晴空はそう答えると、私と手をつないだ。
私は心臓がトクンと音をたてるのを聞いた。

「いくらでも時間をかけていよ」

そう言って、手をつないだまま微笑む。
私は顔を真っ赤にしてうつむいた。

「あ……、ありがと」

それから、本当にたっぷり時間をかけて絵を見て回った。
その間、ずっと手はつないだままだった。

展示室はいくつもの部屋に分かれていて、それぞれの部屋に、現代とか、人間とか、差別とか、共生社会とか、テーマがあった。

どこをのぞいても、絵の一つ一つにガツンと衝撃を受けた。
絵を眺めるというより、絵が自分の心に突き刺さってくるような感覚がした。

「あ、この人の絵、おまえの絵に似てるよな」

晴空がある絵を指差して言う。

「似てるかな……」

「ファンタジックな雰囲気とか、細密画みたいな細やかな描写が似てると思うよ」

その絵をじっと見つめてみる。
晴空の言う通り、似ているのかもしれない。
だけど、次元が天と地ほど違う。
表現力の豊かさに驚いて、声も出ない。

そんな私の横顔を見つめていた晴空が、こう言った。

「来てよかっただろ?」

私は、一つ、感嘆のため息をついてから、
「うん」
と、晴空に満面の笑みを向けた。

私は笑う時に照れて目をそらすことが多い。
だから、晴空の目をまっすぐに見つめて満面の笑みを浮かべたのは、この時が初めてだった。
晴空は私の顔を見て息を飲んだ。
それから、嬉しそうに微笑んだ。 

ゆっくりと、じっくりと、私たちの中で何かが育まれていく。
出会ってから、今日まで、時間をかけて育ててきた何かが。

今日より明日、それは大きくなるかもしれないし、もしかしたらしおれてしまうかもしれない。
それは分からない。
ともかく、私たちはその時間の流れのまっただ中にいた。

たくさんの絵が私たちを囲んでいる。
洪水のような、たくさんの色。たくさんの絵。
そして、私たちは、時間を切り取った一枚の絵のように、手を繋いでお互いを見つめていた。

     ・   ・   ・

 
美術館を出て、帰りのバスに乗り込んだころには、日が傾き始めていた。

晴空と二人で一番後ろの席に座った。
晴空は窓際。私は通路側。
窓の向こうには夕日の光が差していた。

「ごめん、熱中しすぎて」

「別にいいって。初めからそんなふうになるだろうと思ってたから」

晴空は全然気にしていなさそうな顔をしていた。

「それより、前の方の席じゃなくて良かったのか? おまえ、車に酔いやすいだろ」

どこに座ろうかと二人でバスの中を見渡した時に、一番後ろの席を指差して、あそこがいいと言ったのは、私だった。

「そうなんだけど……、一番後ろの席ってちょっと憧れてたから」   

「なんで?」

「修学旅行とか社会科見学の時、だいたいクラスのボスみたいな人がバスの一番後ろに座ってるから」

晴空は思わず笑みをこぼした。

「ちっちゃいもんに憧れるな」  

「だって、一人じゃどこにも出かけないし、学校は歩いて行ける距離だし、こんな機会なかったんだもん」

私は一番後ろの席の真ん中に座って、バスの中を見渡してみた。ちょっとだけボスの気分を味わえたような気がした。私はにんまりとする。

その様子を隣で眺めていた晴空は、
「満足か?」
と聞いてきた。
「うん」
と答えると、晴空はおかしそうにーー勘違いじゃなかったら、ちょっと愛しそうにーー吹き出した。

「他にしてみたいこと、ない? 行きたいとことか、乗ってみたいものとか」

私はきょとんとして、晴空の顔を見た。私より背が高いので、見上げるような形になった。

「なんだろう? 船……に乗ってみたいかな」

「船、好きなのか?」

「まだ乗ったことないけど、なぜか好き。名前に海がついてるからかな」

車窓の外を青い夕闇が流れて行く。

「そういや、フラグの絵にも船が描かれてたな」

「うん。あの船はね、前にも言ったけど、空と海、両方渡れるんだよ。海底もいけるの。
水空両用!」
 
声を弾ませると、晴空が同調するように楽しそうな顔をした。

「水空両用なんて乗り物あるの? 
あんまり聞いたことないけど、当たり前みたいに言い切るところが、おまえらしいよな」

「こういうのは、自由に考えた方が楽しいんだもん」

晴空が「そうだな」と言って微笑む。

晴空は車窓の外を眺めた。
「そっか。空も海も渡れるのか」

晴空の視線につられて、私も車窓の外を眺めた。
青い夕闇に満たされた街は水の中に沈んでいるみたいに静かで、海の底をバスで走っているみたいに感じた。

晴空はしばらくぼんやり外を眺めてから、こう言った。

「じゃあ、あの船は俺とおまえを繋いでるんだな」

「え?」

目を大きくして聞き返すと、晴空はこう言った。

「俺とおまえの名前。空と海だろ」

にっこりと笑う。
あ、と私は心の中でつぶやいた。

自分の描いた船が空から海面へと着水する様子が、ふっと目に浮かんだ。船首には晴空と私が乗っていた。
船は、波とたわむれているみたいに、波の上を数回はねた。水しぶきが散る。
晴空と私は、水しぶきを浴びながら笑い声をたてた。

バスが揺れる。

「二人で乗ってみたいね、あの船に。
空にも、海にも行ってみたいね」

青い夕闇にひたひたと満たされた街を眺めて私はつぶやいた。
本当に海底を走っているみたい。車道を走る車と並んで、イカやマグロが泳ぐのが目に浮かんだ。
私は空想家なので、私の目に映る景色は変幻自在だ。
イカやマグロは、信号が赤になると、きちんと止まって、青になると泳ぎ出す。  

ふいに、バスの上に大きな影が落ちる。
窓から空を見上げると、バスより大きな体をしたマンターー多分、十五メートルはあるーーが、ゆうゆうと泳いでいるのが見えた。

窓に張りつくようにしてそれを眺めていると、晴空は窓枠の上に乗せていた手をひっこめた。
「体、当たってる」
と晴空が顔を赤くした。

「え? 何?」

「いや、なんでもないよ」

私は首を傾げた。
変な晴空だ。

赤い顔をしたまま、私から目をそらして、
「窓の外が気になるのか?」
と尋ねてきた。

「うん、海の底にいるみたい」

私は辺りの景色にすっかり心を奪われていた。
青い海底をバスが走って行く。
とても静かで、ここにいるのは自分と晴空だけみたいに感じた。
晴空と二人でずっとここにいられたらいいのに、と思った。

そう思った途端、晴空と出会ってから今日までの思い出が頭をかけめぐった。
一瞬で、たくさんの時間を旅したような気分だった。

私は窓から離れ、座席に深く座りなおして、
「不思議に感じることがあるんだ」
とつぶやいた。

「どんなこと?」

「晴空との思い出ってね、色あせないんだ。
覚えてるっていうのとは全然違う。
今日あったことも、昨日あったことも、いくつものできごとがちゃんと心に刻まれてる」

私は胸をおさえた。

「ここに、ちゃんと残ってる。
そんな感じがする」

晴空は、バスの振動に合わせて揺れている私の顔に目をやり、優しく微笑んだ。そして、
「そういうもんなんだよ」
と言った。

「思い出だけじゃないよ。
言葉も、小さな優しさも、愛情も、もらったものは全部おまえの胸の中に残っていくんだよ」

私は驚いて、大きな瞳で晴空を見た。

「消えてしまわないの?」

過ぎ去ったものは、全部失われてしまうんだと思っていた。

「消えないよ。おまえにあげた俺の気持ちも、おまえのものだよ。
だから、おまえはもう二度とひとりぼっちにはならない」

そう言って、私の視線をまっすぐに受け止めて微笑んだ。

私は息を飲んだ。
ひとりぼっちで過ごした何年もの月日や、積み重なった悲しみやさみしさが、一気に解き放たれてバスの窓の外へ飛び出して行った気がした。

私は泣くより他にしようがなかった。
声を上げ、晴空の胸に飛びついて泣いた。

晴空は一瞬驚いた様子だったけれど、何にも言わずに胸に受け止めてくれた。

バスの窓から解き放たれた感情は、くじらのような姿になって、海の底から海面へと一気にのぼっていく。
たくさんの水泡がはじけた。
のぼっていくほど、水の色は明るくなっていく。
海面近くには空から降る光が、帯状になってゆらゆらと揺れていた。
その光の帯に飛び込み、海面を突き抜け、海上へと勢いよく跳ね上がる。
盛大な水しぶきが散った。
クジラが青い空の下で舞った。

感情が開放されるがままに泣く私に、バスの乗客全員がびっくりして振り返っていた。

晴空は平気な顔をして、私を胸に抱いたまま窓の外を眺めていた。
私はその優しさに甘えて、思う存分、晴空の胸にしがみついて泣いた。

バスがゆっくりと揺れる。

晴空の胸は、想像よりももっとしっかりとした厚みがあった。

泣きながら熱を放つ体の中で、何かが生まれたがっているのを感じた。
それは、晴空がくれた言葉を吸収して、大きく大きく育とうと、私の中で身を震わせていた。

続く~