夕方の公園で、晴空とブランコに腰掛けて、幼い頃の話をしていた。

母は専業主婦だったが、家事にはこだわりがあったので、いつも決まった手順で時間をかけて家事をしていた。いつも忙しそうで、添い寝などしてくれた記憶もない。
だけど、片手で数えられるくらいの回数だが、眠る前に私を抱いて歌を歌ってくれたことがある。

その歌は、子守唄ではなかった。
題名はわからないが、童謡だと思う。
母はその歌を、家事の合間にも時々歌っていた。

そう言えば、ここ数年は母がその歌を歌うのを聞いていない。小学校高学年になってからは、学校から帰るとほとんど自分の部屋にこもっているからかもしれない。

私はその歌の題名を知らないし、歌詞もところどころしか覚えていない。
でも、どういうわけか、ふとした時にその童謡を思い出すことがあった。そのたびに、なんて名前の歌なんだろうと考えた。しかし、どうやって題名を調べたらいいのか分からなくて、ずっと謎のままになっていた。

「ちょっと歌ってみろよ」
と晴空が言った。

私は覚えているところだけ歌ってみた。

ーーふけゆく 秋の夜 旅の空の
わびしき想いに 一人悩むーー

夕焼け空の下で童謡を歌うと、心細い気持ちになる。

「知ってるよ、その歌」
と、晴空は言った。

「〝旅愁〟だろ? 俺の母さんも、よく子守唄がわりに歌ってくれたんだ。
全然子守唄っぽくないけど、なんでその唄だったんだろうな」

私は、驚いた。
私たちは、別々の場所で生まれて、別々に育ったけれど、同じ歌を子守唄がわりに聞いて育ったのだ。
私は、出会う前から晴空とつながっていたように感じた。

公園は私たち以外には誰もいなくて静かだった。
私たちは、夕空の下でブランコを揺らして旅愁を歌った。
私の声は心細げに響いた。
晴空は微笑むように柔らかに歌う。
私と晴空の声が重なり合い、夕方の空気ーー色鮮やかでそれでいて静かーーに、溶けるように広がっていく。

遠くの山の端が金色に燃えている。
小学三年生の頃にいた学校は、田舎にあって、学校の近くに小さな山や小川があった。
夕方になると、山も川も赤く染まってきれいだった。
だけど、思い出すと、胸にすきま風がふくみたいにさみしくなる。やっぱり、あの場所でも私はいつも一人だった。

「体育祭まで、あと二週間くらいだな」
と、晴空がブランコを小さく揺らしながら言った。

「中学最後の体育祭だね」
 
今まで、いい思い出は一つもなかった。
仲間とか、団結とか、にぎやかさとか、体育祭って素敵だ。だけど、体育祭が盛り上がるほど、さみしかった。

ーーでも、今年は……。

胸に浮かんだ言葉の続きを、ブランコをこぎながら、口に出してみた。

「いい思い出、作れるといいな」

私はブランコをゆらゆらと揺らした。
揺れるたびに、空に放りだされそうに感じた。
ブランコは波みたいだ。
ゆらゆらと揺れ、心も揺れ、夕焼け空も揺れていた。
夕焼け空は感情豊かだ。
赤に、オレンジに、紫に、いろんな色が波のように広がっている。

「そうだな」

そう答えてから、晴空はブランコから飛び降りた。そして、私に振り返った。

「なあ、ちょっと付き合ってくれないか」

「何に?」

「リレーの練習」

赤く染まる公園のグラウンドを私は走る。いらなくなったプリントを筒状に丸めたものを、バトンがわりに持って。

走った先で晴空が待っていて、丸めたプリントを受けとって走り出す。

晴空は、リレーの選手だった。
リレーは体育祭のラストをしめくくる種目で、晴空はアンカーを務める。

バトンを渡したあと、肩で息をしながら、走る晴空の後ろ姿を眺めた。
身長の伸び盛りの、少年らしい体をしならせ、力強く土を蹴って走っていく。

もう、二人で何回グラウンドを回っただろう。私はもうヘトヘトだったのに、晴空はまだ余裕のある表情をしていた、
額の汗を手の甲で拭いながら、
「なんだよ、もう疲れたのか?」
と聞いてきた。

「私が女の子って忘れてない? 晴空の体力に合わせられるわけないじゃん」

そう言って、地面の上に仰向けに横たわった。

「なあ、そう言わずに、あと一周だけ走ろうよ。今度は二人並んで」

「え~、もう本当に限界なんだってば」

「おまえのペースに合わせるからさ」

そう言って、私の手を引っ張って立たせる。私はあきらめたみたいにため息をついた。

二人分の、大きさが違うスニーカーが夕日に染まった砂の上を駆けていく。
砂の上には、昼間誰かが書いた落書きが残っていて、〝ずっと一緒にいようね〟と書いてあった。

「なあ……」

走りながら、晴空が話しかけてくる。

「おまえさ、誰か俺以外のやつにも、自分のことを相談してみないか?」

ハアハアと荒く息をしながら、私は聞き返す。

「自分のことって、あのノートに書いてたこと?」

「そう」

「嫌だよ。なんでそんなことをしなきゃいけないの?」

立ち止まり、不機嫌な顔をして見せた。
晴空も、立ち止まって振り返った。

「姉ちゃんもさ、おまえと一緒でちょっと人と違うからさ、学校でうまくいかなくて悩んでたんだ。
だから、保健室の先生とか、スクールカウンセラーとか、いろんな人に相談してたよ。
今もアメリカの学校で担当のスクールカウンセラーがいるんだ。
いろいろアドバイスもらって、自分の個性とどう向き合えばいいか分かるようになったって言ってた。
だから、海音もさ……」

「絶対に嫌!」

晴空が言い切る前に、キッパリと拒否した。

「晴空だから、相談できるんだよ。
なんで信用もしてない人に、自分の弱みをさらさなきゃいけないの?」

そう言って、ムッスリと黙り込んだ。
晴空が困ったようにため息をつく。

「じゃあ、考えてもらっておくだけでいいよ。海音の気持ちが変わったら、相談に行こう」

私はしぶしぶうなずいた。

      • • •

公園をあとにして、並んで路地裏を歩く。
道は狭くて、二人並んだらもう道幅いっぱいだった。

日はすでに沈んでいた。
家の塀に囲まれた路地裏は薄暗かった。

先週の土曜日、晴空とこの路地裏でキャッチボールをした。なんだか小学生にもどったみたいな気分だった。

私は運動が苦手だったので、キャッチボールなんて気がすすまなかったけれど、やってみると不思議と楽しかった。
下手とか上手とか関係なく、体を動かすことが気持ちいいと思えた。
思い返すと、幼い頃は、運動が苦手かどうかなんて関係なく、単純に体を動かす喜びを知っていた。ひたすら延々と、小学校や公園の遊具で遊んでいた。

晴空は、幼い頃は知っていたその感覚を体に呼び覚ましてくれた。
ただ楽しくて、楽しくて、体が夢中になって動いていた。

キャッチボールをしたあと、路地裏を山手へ進んだ先にある小さな川で遊んだ。
木の枝に糸をつけてたくあんを結んでおくと、カニが釣れるんだと晴空が言って、やって見せてくれた。

本当に言った通り、小さなカニが釣れた。
カニはハサミでたくあんをしっかり挟んでいた。

晴空がカニを川にはなしてやろうとしたら、指をはさまれそうになって二人で笑った。

楽しい思い出ばかり思い出しながら、浮かない顔をしていた。
歩きながら話しかけてくる晴空にも、気のない返事ばかりをしていた。

晴空が立ち止まって、
「なあ」
と声をかけてくる。
「怒ってんの?」

目をそらし、ちょっと黙ってからこう答えた。

「だって……、他の人に相談しろなんて言うから……」

晴空が肩をすくめる。

「相談できる相手は、少ないより多い方がいいじゃん」

「それはそうだけど……」

二人は立ち止まり、路地裏で向かい合った。

私はうつむいて晴空の足元あたりを見ていた。街灯の明かりがチカチカと点灯して、二人の影も瞬く。

「なんか……、突き放された感じがしたから……」

うつむいたまま、頬を膨らませてボソッとつぶやいた。
その様子を見て晴空がふきだした。

「なんだよ、そのほっぺた」

頬を指でつまんでくる。カニみたいに、ギュッと。

「もう、痛いって! やめてよ!」
 
頬をつまむ手を振り払う。
晴空が星空みたいに明るく笑った。
気がつけば、空は紺色になっていて、ちらちらと星が瞬いていた。

晴空がまた、歩き出す。私も半歩後ろに続いて歩いた。

「おまえを見てたらさ、昔飼ってた犬を思い出したよ」

「犬?」

「うん、そいつ、捨て犬だったんだ。俺がひろってきてさ。
飼い始めはすごく警戒心が強かったのに、しばらくしたらめちゃくちゃなついてきて……。
どこに行く時もついてこようとするから大変だったよ」

私は自分に犬の耳と尻尾が生えて、キャンキャンと晴空について回る様を想像した。

「やめてよ、犬と一緒にしないでよ!」 

ふくれっつらをすると、晴空が振り返って私を見て、またおかしそうに笑った。

「もういいよ」

私は晴空を追い越して早足で歩く。
冷たい春の夜空が目の前にあった。
月も星も悲しいくらいに綺麗。
それぞれひとりぼっちで輝いていた。
私は空を見上げて足をゆるめた。

「晴空はいつも友達に囲まれてるから、伝わらないかもしれないけど……、
私、ちょっとしたことで不安になるんだ。
晴空と仲良くなれたのに、また一人になるんじゃないかって思って……」

背後で、「なんだ、そんなことか」とつぶやくのが聞こえた。

「そんなことって!」

怒った顔をして振り返ると、晴空が私をちゃんと真っ直ぐに見て微笑むのが見えた。

「そんなこと、心配しなくていいよ。
一人にはしないから」

晴空の頭上で星が明るく瞬く。
晴空は星のように陰りのない声で言った。

「なあ、海音。
もしおまえがさ、俺以外の人には頼りたくないって言うんなら、俺はそれでもかまわないんだよ。むしろ、俺だけに頼ってくれるのは嬉しいよ。
だけど、俺はおまえをさ、あんまり依存させたくないんだ。
なんでか分かる?」

私は首を傾げた。

「おまえに、ちゃんと自分で自分を幸せにする力を持ってほしいからだよ」

流れ星が一つ、路地裏の向こうへ弧を描いて飛んでいく。
星は凛と胸をはって、一人きりで輝いていた。

「いろんな人に相談してみようって提案したのはさ、突き放したわけじゃないよ。
海音に、悩みを解決する手段をいっぱい持っていてもらいたいと思ったんだ。
俺は、ただ、海音に幸せになってもらいたいんだよ」

星空の下、晴空は自分の足で立っていた。
私も、自分の足で、しっかりと自分を支えていた。

ああ、そっかーー。 

私は胸の中でつぶやいた。

晴空は私に一人で歩いてほしいんだ。
そして、一人で歩くっていうことは、ひとりぼっちっていうことじゃないんだ。 

心の中に沈澱していた不安やさみしさが、夜空に溶けていく。
春の夜空はつんと冷たくて、だけど、そこに浮かぶ星たちは、となり同士、微笑みあうように瞬いていた。

        • • •

その夜。
お風呂からでたころに、晴空から電話がかかってきた。

携帯電話を耳に当て、晴空の話に相槌をうっていたが、なんの用事なんだか分からないような電話だった。

最近悠人がしたイタズラの話ーー悠人が友達の家に遊びに行った時にこっそり歯磨き粉にねりわさびを入れて、翌日友達からブチきれられたことーーとか、
一条さんと立花さんは性格は真逆だけど、幼稚園時代からの幼馴染で、とっても仲良しであることとか、
どう考えても明日話したっていいようなことばかりだった。

夜遅くに電話をしている声を聞きつけて、部屋にお母さんが入って来た。
「もう、時間も遅いから、そのへんで切りなさい」
と、わざと大きな声を出す。

それが電話の向こうにまで聞こえていたようで、晴空が、
「じゃあ、もう遅いから……」
と話を終わらそうとした。

「うん、また明日」

私は電話を切ろうとした。
その時、晴空が、
「あ、待って」
と言った。

「何?」

晴空は、電話の向こうで少し黙ってから、
「……やっぱり、なんでもないよ」 
と言った。

「そっか……、じゃあ、またね」 

そう言って電話を切ると、携帯電話を勉強机の上に置いた。パジャマ姿で勉強机に頬杖をついて、しばらくぼんやりとした。
そして、何の電話だったんだろう、と考えていた。

晴空は何かを伝えたかったんじゃないだろうか。
路地裏で伝えきれなかった何かを。

私は路地裏でのやりとりを思い返す。

ーー俺は、ただ、海音に幸せになってもらいたいんだよ。

熱がこもった言葉だった。
晴空は、どうして、私のことをそんなに真剣に考えてくれるんだろう。

私は机の上に転がっている消しゴムを拾うと、鼻に近づけた。におい付きの消しゴムで、桜のような甘い香りがした。甘い香りをかぐと、晴空からかけられた言葉を次々と思い出した。

ーーそんなこと、心配しなくていいよ。一人にはしないから。

ーーなんでか分かる? おまえに、ちゃんと自分で自分を幸せにする力を持ってほしいからだよ。

晴空は優しい。
晴空はきっと底抜けのお人よしで、私の幸せを心から願ってくれている。

それなら、私は晴空に胸を張れるような人生を歩まなくてはいけない。

でも、胸を張れるような人生ってどんなものだろう。

自分の〝目標〟とか、自分の〝夢〟とか、それはいつどうやって見つけるんだろう。

私は、机の引き出しを開いてノートを取り出すと、思いつくままに言葉を書き出してみた。
自分の心をシャベルで掘るように、深く深く掘り起こしていけば、その中に〝夢〟や〝目標〟が見つかるかもしれない。

だけど、ノートに並んだ言葉は、〝夢〟や〝目標〟ではなく、晴空からもらった言葉ばかりだった。

ーー学校でなんか困ったことがあったらさ、隣に来いよ。

ーー楽しいから一緒にいるんじゃないんだよ。
もっと他に理由があるんだ。

ーー心配しなくていいよ。一人にはしないから。

私はそれらの言葉をじっと眺めてみる。

それらの言葉は、路地裏で見た流れ星みたいに輝いていた。

私は両手を器のようにして、何かをすくうような仕草をした。
キラキラ光るたくさんの言葉を、私は手のひらにすくいあげた。
そして、それをそっと胸に押し当てた。
すると、あたたかさを胸に感じた。

晴空からもらった言葉が、種のように私の胸に宿った。

そんな気がしたのだった。

     • • •

その夜、夢を見た。
 
校庭から、大きな植物が生えていた。
それは、塔のように太い茎を空に向かってにょきにょきと伸ばし、大きな赤い花を咲かせていた。

運動場がすっぽり影に覆われるくらい、大きな花だった。

青い空に、殴り込んでいくみたいなくっきりした赤い色。

それは、〝夢〟が咲いたような鮮やかな色だった。
 
続く~