「……勝手に距離つめてこないでよ」
戸惑い顔で言うと、夏川くんは
「だってさ……」
と言って、頭の後ろで手を組んで空を見上げた。

「おまえのこと、嫌いじゃないって言った時、一瞬、すげー嬉しそうな顔してたぜ」

その言葉はまったく予想していないものだった。
胸の真ん中を風が吹き抜けたみたいだった。
私は心を奪われたように感じた。

中三の四月。
私は夏川くんに出会った。
それは、私の人生にとって、大きな意味をもつ出会いだった。

       ・・・
私は、「自閉スペクトラム症(ASD)」という発達障害を持っている。
ASDは、コミュニケーション、対人関係の困難とともに、強いこだわり、限られた興味をもつという特徴がある発達障害だ。

理由は分からないけれど、人間関係がうまくいかない。
なぜか、生きづらい。

ASDの人は、そんな悩みを抱えやすい。
理由がわからないまま、大人になり、社会生活で困難さを抱える人もいる。

これは、私がASDと診断される以前の物語。

私という人間と真っ直ぐに向き合い、理解し、
私をスクールカウンセラーと結びつけてくれた男の子との出会いの物語。
そして、その男の子と私が体験した、一ヶ月と数週間の、小さな小さな出来事の話。

       • • •


たくさんの足跡がついたスクールバッグが、目の前に転がっていた。

笑い声が聞こえる。

蹴り飛ばされて川原の砂利の上に転がったまま、動けずにいた私を笑う声だった。

私は、擦りむいた傷がズキズキと痛む腕を地面について、ようよう四つんばいになりながら、
悲しいのか怒っているのかわからないような気持ちを腹に抱えていた。
両手の間にポツリと涙が落ちる。

いじめ。
小さな声で、涙が染み込んでいく地面に向かってつぶやいてみる。

その言葉は、暗く重たい響きがした。
じわりじわりと胸に黒い影が広がるみたい。
鉄の塊でも飲み込んだみたい。

いじめ。
それが、今、自分に起こっていることだった。

私はスクールバッグをサッカーボールのように蹴り合う、同級生の男子たちを眺めた。
彼らの背後には川が見えた。幅五十メートルくらいの川だった。

汚い言葉を吐き出して、下品な笑い声を出す男子たちの向こうで、
川は春の日差しを反射しながら、サラサラと清らかに流れていた。
いじめっ子の残酷な振る舞いも、川原にはいつくばった私も、
おおむね平穏なこの世界からはみだしているみたいに感じた。

「鞄、返して」
小さな声でつぶやいたが、その声はゲラゲラ笑ういじめっ子たちの声にかき消された。
彼らのうちの一人が近づいてきて、
「おい、どんな気分だ」
と私の胸ぐらをつかんだ。

その時だった。
「何やってんだ!」
という声が、突然、土手の上から降ってきた。
同い年くらいの男の子の、凛とした声だった。

声がした方を見ると、勢いよく土手を駆け下りてきた男の子の姿が見えた。
「はあ?」
と、私の胸ぐらをつかんだいじめっ子がつぶやいた。

「急に出てきて、なんのつもりだ!」

「『なんのつもりだ』はおまえだ!」

そう言って男の子は、私をつかんでいたいじめっ子の横っ面を一発殴った。いじめっ子の手が私から離れた。

私は擦りむいた傷の痛みも忘れ、突然現れた男の子を目を丸くして見つめた。
男の子の名は、夏川晴空(なつかわ はるく)と言った。中三から転校した学校の同級生だった。

      ・  ・   ・

夏川くんの話をしたいと思う。
夏川くんに初めて会ったのは、つい二週間前の四月七日、始業式の日のことだった。担任の先生が私を転校生として、同じクラスの生徒の前で紹介してくれた。
あの時、教室の後ろの方の席に夏川くんはいた。

「南海音(みなみ みお)さんです。今年の四月からこの学校に通うことになりました。
中学校生活も残り一年。
良い思い出が作れるように、仲良くしてあげてください」

私は教壇に立って、うつむいていた。
そうしながら、教室のざわめきを聞いていた。
いつも不思議に思うけど、生徒たちの声は一つのざわめきとなって聞こえる。
個々の声というより、ザワザワという一つの騒音という感じ。
私はそこに自分が溶けこめる自信がなかった。

私の父親は銀行員なので転勤が多く、私は転校を繰り返していた。
小一の時から、中三の現在まで、合わせて五回転校している。 
そして、私はどの学校でもクラスの輪にうまく馴染めなかった。
転校してばかりで、クラスに馴染む間がないのが、その原因だと思っていた。
でも、そればかりが理由じゃないと、小学校の高学年あたりから気がつき始めた。

私は、まわりの人とは、何かが少し違っていた。
ボタンをかけ間違えた服みたい。
何かが、ちぐはぐなのだ。

どうしてか分からないが、私の発した言葉がクラスのみんなを凍り付かせることがあった。
私の何げなくとった行動が、みんなを困らせることもあった。
空気がよめない、とよく言われた。
冗談が通じない、とも。

ーー海音ちゃんって話が通じない。
宇宙人みたい。
だから、遊びたくない。

小学校何年生の時だったか、同じクラスの女の子からそんなふうに言われたことがある。
私は、その時、この世で一番悲しいことは、拒絶されることだと思った。

宇宙人みたい。
遊びたくない。

言葉が頭の中にこだまする。
そんな言葉をぶつけられなくてはいけない理由が私には分からなくて、涙をこらえてうつむいた。
私のとった何かしらの行動が、彼女のしゃくに触ったらしい。
でも、何がしゃくに触ったのかは分からなかった。
分かったのは、いつの間にか、クラスから孤立しているということだった。

教室を見渡すと彼女以外の生徒も、無言で私に拒絶の意思を表していた。
私は自分の周りに、深い深い谷でもあるかのように感じた。

そして、中学校三年生の一学期ーー。
私は、また、クラスから孤立しつつあった。
転校して早々に、クラスで一番目つきが悪い男子から、目をつけられたのだ。
彼は私の何が気にくわなかったのだろう。
やっぱり、
私は自分のどの行動が他人を怒らせているのか分からなかった。
ただ、いじめのターゲットになったことと、
それを察したクラスの生徒たちが私を遠巻きにするようになったことは理解できた。

そんな中で、夏川くんだけは他の生徒と様子が違っていた。
夏川くんは、私を遠巻きにしなかった。クラスの中で、彼だけは私に話しかけてくれた。

夏川くんは、いじめとか、生徒間にある階級差(私にはよく分からないけれど、生徒の力関係は平等ではないらしい)とかを、気にしない人だった。
でも、正義感が強いとか、熱く友情を語るとか、そういうタイプの人ではなかった。 
ちょうど飲みやすい熱さのスープ。
そんな温度の人だった。
どんな人に対しても壁を作らず、自然に接して自然に笑いかける人だった。

夏川くんは、朝、教室にやってくると、私の机の脇を通り抜けて自分の席に着く。
その時、いつも、
「おはよう」
と声をかけてくれた。

晴れの日も、雨の日も、
夏川くんは私に「おはよう」と言ってくれた。

だんだんとクラスで孤立していく私に、
一人きりで本を読んでいる私に、
寂しい気持ちを隠して、一人で席についてうつむいている私に、
夏川くんだけは毎日声をかけてくれた。

魔法瓶に入ったスープみたいに、
変わらない温度で。
同じ笑みで。

夏川くんの「おはよう」は、五年前に亡くなったおばあちゃんの「おかえり」に似ていた。
小学校で、同じクラスの子とケンカした日も、
無視されて悲しかった日も、
教科書を隠されて泣いた日も、
おばあちゃんは毎日変わらず「おかえり」と私を迎えてくれた。
同じ温かさで、同じ笑顔で。
晴空の「おはよう」は、おばあちゃんの「おかえり」と同じくらい安らぎを感じた。
そこにいていいよ、と言ってくれているみたいだった。

      ・  ・   ・

「『なんのつもりだ』はおまえだ!」

横っ面を一発殴られたいじめっ子がよろけた。

「いってーな! てめー!」

殴られたいじめっ子は夏川くんの胸ぐらにつかみかかる。その他のいじめっ子も踊りかかるように夏川くんに飛びかかった。

乱闘、という感じだった。
私は目の前で男の子たちがボカスカ殴りあうのを初めて見た。
夏川くんは、数の上で圧倒的に不利だった。
私は手で目を覆いながら、なんで一人っきりでこの人数に突っ込んできたんだろうと思った。
無茶すぎる。

夏川くんは、いじめっ子と腕をつかみあいながら、私に向かって大声で叫んだ。
「何、ぼうっとしてんだ! 逃げろよ!」

私はハッとした。
そうか、私を逃すために、無茶を承知で突っ込んできたのか。

夏川くんは、左頬を殴られていた。頬が青くなり、皮膚が浅く切れて真っ赤な血が頬から顎へ流れていた。
私はそれを見て胸がズキンと痛んだ。
私のせいだ。私をせいで、こんな目に……。

私はうろたえた。
どうしたら、これ以上夏川くんを巻き込まずにすむだろう。考えて、迷って、また考えて、それから私は意を決して立ち上がった。
すーっと大きく息を吸い込むと、腹の底から叫んだ。

「やめて! 夏川くんには関係ないでしょ! 私に関わってこないで!」

言い終わると同時に、川原の砂利を蹴って走り出した。乱闘の騒ぎの中へ、どうとでもなれと思いながら突入する。
猛然と走ってきた私に、いじめっ子たちはあっけにとられて動きを止めた。そのすきに転がっていた自分のスクールバッグを拾い、無我夢中で、振り回した。
教科書が何冊か入った重たいスクールバッグが、バコンと音を立てていじめっ子の一人に命中した。

「私一人でも、なんとかできるんだから!」 

ハアハア息を切らしながらそう言う私を、いじめっ子たちも夏川くんもポカンと見ていた。

少し間をおいて我にかえったいじめっ子が、
「このやろう! なめてんのか!」
と私につかみかかってきた。私は彼にスクールバッグを投げつけた。見事に命中し、彼が一瞬ひるんだ。そのすきにダッと駆け出し、一目散にその場から逃げた。
投げたままにしたスクールバッグのことは考えなかった。
とにかく息が切れても走り続けた。
 
いじめっ子達は私を追いかけてきていたが、人通りの多い道まで出ると、人目を気にしたのか追いかけてこなくなった。

私は彼らの姿が見えなくなっても走り続けた。今さらのように、じわじわと恐怖を感じていた。

やってしまった。
やってしまった。
明日からどうしよう。
学校に行けばいじめっ子らと会う。
明日、私は彼らにひどい目にあわされやしないだろうか。
だけど、何を考えても、すべては今さらだ。

それに、私はああするしかなかったのだ。
だって、私は夏川くんが傷つくことが、どうしても嫌だったのだ。自分が傷つく以上に、どうしても。

殴られて血を流した頬を思い出して、また胸が痛くなるのを感じた。
怪我をしてまで助けてくれなくてもよかったのに……。
私は泣き出したかった。
他人のことでこんなに悲しくなったのは初めてだった。

そして、同時に、私のために勇ましく土手を駆け下りてきてくれた夏川くんを思い出すと、胸が熱くなった。
この気持ちは、いったいなんだろう。

それらの気持ちは、私の胸の中で膨らんだり、胸を苦しくさせたりした。
途中で通り抜けた公園の遊歩道には、新芽が芽吹いた桜の木が立っていた。
木は枝を伸ばし、道の上で重なっている。
まるで新緑に彩られたトンネルみたいだった。私は息を切らして走りながら、それを見上げた。

新しい季節の香りがした。
胸の中でうごめく気持ちは、まるで新芽のように私の中に息づいていた。
私は、高鳴る胸に手を当て、新緑のトンネルの下を走り抜けた。

      • • •

次の日、私は恐々登校した。

学校までの道中で、いじめっ子らが待ち伏せしていないかとか、
下駄箱に足を踏み入れた途端に腕をつかまれて、校舎裏に引っ張っていかれるんじゃないかとか、
いろいろ考えて震えながら登校したが、なんにも起こらなかった。

下駄箱で上履きにはきかえる。
ワックスのかかった床に、上履きのゴム底が触れるキュッキュッという感触を感じながら、階段を上った。
階段には新年度らしく、部活勧誘の張り紙が貼られていた。

廊下を抜け、ガラリとドアを開く。
朝の清潔な空気が香る教室がそこにあった。
すでに何人かの生徒がそこにいて、ニ、三人ずつ固まって話をしていた。

教室をゆっくりと見渡し、後ろの方の席を見てピタリと目を止めた。
視線の先に、夏川くんの姿があった。少し腫れた左頬にガーゼが貼ってあったが、友達と笑いながらしゃべる様子は、いつも通りの夏川くんだった。

まるで何事もなかったみたいだ。
夏川くんは本当に変わっている。
昨日あんなことがあったのに、いじめっ子からの復讐が怖くないのだろうか。
いつも通りの笑顔で友達と笑っている夏川くんは、悠然として見えた。

私は横目で夏川くんを見ながら、自分の席に向かった。
気持ちがそちらばかりに向かっていたので、自分の机の上に何かが置かれていることに気が付かなかった。
机の真ん前まで来て、初めて机の上にスクールバッグがあることに気がついた。
開けてみると、私の名前の書かれた教科書やノートが入っていた。間違いなく私のものだ。

私はしげしげとバッグを眺めた。
昨日、このバッグは、いじめっ子に足蹴にされて靴跡だらけになっていた。なのに、靴跡が一つ残らず拭き取られていた。  

夏川くんが拭いてくれたんだろうか。
そして、わざわざ学校まで持ってきてくれたんだろうか。
私は驚いて、自分の席から夏川くんをじっと見つめてみたが、夏川くんとは視線が合わなかった。視界には入っているはずなのに、まるで、わざと知らんぷりをしているみたいに見えた。

私は話しかけようか迷って夏川くんをしばらく見つめていたが、一向に視線が合わないのであきらめてストンと椅子に腰掛けた。
その時、スクールバッグと机の間に二つ折りにされた紙が挟まっているのが見えた。

その紙を手に取って開くと、そこにはこう書いてあった。

〝強がらなくていいよ。
人の心配より、自分の心配をしろよな〟

ハッとして、再び夏川くんを見た。
すると、今度はバッチリと視線が合った。

夏川くんは、私に向かって微笑んだ。
見惚れるくらいのきれいな笑顔だった。
夏川くんの背後には、春の薄水色の空が見えていた。飛行機雲が空をななめに横切っている。雲の先を見ると、飛行機が羽を広げて悠々と飛んでいくのが見えた。
私は、夏川くんとその景色から目が離せなかった。
なぜか、胸の奥がじりじり焼かれるように熱かった。

そんな私に、夏川くんが口の動きだけで、
「おはよう」
と伝えてきた。
いつもの、変わらない温度の「おはよう」だった。
私は飛行機になったみたいに、自分の心がふわりと軽くなった。春の空に舞い上がりそうだった。

夏川くんの「おはよう」は、
私を存在ごとすっぽりと抱き止めてくれる。

「おはよう」じゃなくて、「ありがとう」と口パクで返すと、
夏川くんが「なんだ、それ」と言いたげな顔をして笑った。

続く~