「なっ……」
 
 冬夜くんの頬に汗が流れるのが見えた。
 人の賑やかな声はどこにも聞こえず、代わりにオケラの鳴き声だけが響く。
 コンクリートや建物にはひびが入り、そこから草木が生えていた。
 提灯は破れていて、看板はすっかり錆びつき、電気がついていても点滅している。
 一瞬で時間が経過したよう。まるで、竜宮城から帰った浦島太郎のようだ。

「これ、演出……だよな? 小野」

 冬夜くんの問いに、私はすぐに答えられなかった。
 なぜなら、さっきまでなかった妖気や霊気が漂っていたからだ。
 下から流れる冷気が、肌を撫でるように流れてくる。これはエアコンの冷気ではなく――異界に流れる空気だ。

「……とにかく、行ってみようか」

 私がそう言うと、冬夜くんは握っていた手を、さっきより力を込めた。
 商店街の通りを歩く。
 ショーウインドウを日差しから守るテントが、ところどころ破れている。
 何か、糸の束のようなものが、頬を触った。
 なんだろう?
 顔を上げた時。

 穴の空いたテントの上に器用に乗って、私たちを見下ろす、巨大な顔があった。

 虎のように目を剥いた目が、私たちを見下ろす。
 大きな口からはベロンと伸びた舌と、上に伸びた牙が生えていた。
 何より特徴的なのは、顔を覆うほど伸びた黒い髪だ。
 その髪は、テントの下を通っていた私たちに届くほど長く、さっき頬を触ったのはその髪であることに気づく。
 わすがな光を反射する眼球も、滑らかに動く舌の動きも、息遣いも、作り物のそれではない。何より髪の毛の質感が、ポリエステルのようなものではなく、本物の人毛であることに気づく。
 何より、その巨大な顔からは、妖気が漂っていた。

「……っ!」

 叫び声もあけず、冬夜くんが私の手を引っ張って走る。
 だけど、さっきの道を辿っても、入口に通じる扉が見つからない。

「なんでっ……」

 冬夜くんの切羽詰まった声とともに、スマホから通知音が鳴った。
 トーク画面を見ると、

 帰ルニハ、供エ物ヲ捧ゲヨ。

 と書かれている。

「もしかして、さっきスマホを見つけたように、またお店の中に入って、供え物を探さないといけないんじゃないかな」
「あの中をか!? っていうか、さっきの妖怪、妖怪だよな!?」

 冬夜くんがパニックになって尋ねてきた。
 そう、妖怪だ。本物の妖怪。
 メガネを掛けた冬夜くんなら、あの巨大な顔から発せられた妖気も感じ取れただろう。
 目に見えるもの、聴こえるものだけではなく、肌で感じる、例えようのない感覚、言語化できない恐怖。『妖怪食堂』では大分ごまかされているが、それが本来、妖怪と遭遇した時に感じるものだ。
 私は、少し考えて――後ろめたさを感じつつも、言うことにした。

「もし怖くて無理だと思ったら、そのメガネを外すことを薦めるよ。多分、なくても見えるし、ここ」

 私の様子に気づいたのか、少しばかり冬夜くんが落ち着きを取り戻し始めた。

「……もしかしてここ、『妖怪食堂』のような場所なのか?」

 やっぱり、冬夜くんも気づいたか。




 最初に入った居酒屋さんに入ると、そこにお客さんを模した人形はいなかった。
 代わりに、おかみ――の姿がある。

「あら……いらっしゃい。お客さん、また来てくれたの?」

 おかみから、声がした。
 それはスピーカーを通したものでも、機械で作られたものでもない。肉体から発せられた、女の声だ。
 よく見ると、おかみは少し体を動かしている。人形ではなく、その動きはロボットとも思えない。
 私たちが入口で立ちすくんでいると、おかみは続ける。

「そんなところに立ってないで、どうぞ、席に。さあ……」

 さあ、と言った瞬間。
 着物を着たおかみの顔が、ポトン、とカウンター席に落ちた。
 コロン、と横になった首が、こちらを見る。
 目を見開いたまま、紅を引いた赤い唇が、ほつれた髪を咥えて動いている。
 首が胴体から離れている。いや正確には――首が伸びている。
 明らかに人間では無い。けれど、そのなめらかな動きは、機械でもない。
 
 私は思わず、素で突っ込んだ。

「何してるんですか、吉子さん」
「スタッフの名前を言うのやめなさいよ」

 
 せっかくのお化け屋敷が、興ざめじゃない。
 呆れるように言いながら、胴体はそのままに、ろくろ首の吉子さんが私たちの方に来た。