高架橋の下、雨足が強くなっていた。
近くに流れる側溝の水が溢れそうになっている。橋の上を電車が通り過ぎた。
トンネルの中は車両の音が大きく響いた。壁には澄矢の体がぴたりとくっついて、茉大が、澄矢の首を抑えていた。緊迫した空気が流れていた。澄矢は唾をごくりと飲み込んだ。
 差していた相合傘が地面に転がっている。どうしてこうなったのか。

 数時間前、水族館にデートしてから数か月後のことだった。
 お互いに日々の生活も慣れて、彼氏彼女として安心感がだんだんと濃くなる頃、澄矢は茉大を自分の住むアパートにおいでよと誘ったその日は、不安定の曇り空で突然夕立が降り、びしょぬれになった。これから、高架下のトンネルを通ろうとした。その瞬間、茉大の様子が急に変わった。1本の傘を2人で仲良くぴったりと肩を寄せた時に、パッと表情が切り替わった。ドンッと、澄矢の体を両手で押し、首元に両手をつかみ始めた。目がすわっていて、いつもの茉大に見えなかった。電灯も遠く、暗くてよくわからなかったが、明らかに茉大ではない人が目の前にいる。さっきまでお笑い芸人の話で盛り上がっていたのに、突然のこの姿。澄矢は勇気を出して、口を開いた。

「……雫羽?」

 雷鳴が響いた。また電車が橋の上を走り始めた。雨の降り方がさらに強くなり、風も吹きすさぶ。

 雷の光で茉大の顔が見えた。雫羽の表情が見える。
 言葉を発することができなくなったらしい。澄矢の首に手をやっていた茉大の体はそっとおろした。

「澄矢くん……もう私の知っている澄矢くんじゃない」

 エコーがかかったように雫羽の声が茉大の口から聞こえてくる。彼女の体に憑依しているようだ。澄矢は、冷静に対応する。

「雫羽……変わってないよ。前と変わらない。俺はそのままだよ」   
「嘘だよ。だって、茉大さんと一緒にいるとき、ものすごく幸せそうだもん。私といるときより、ずっとずっと笑顔で、どうして隣にいるのが私じゃないのかが悔しいよ!!」
 
 茉大の体を借りて、雫羽は澄矢の胸に何度もこぶしをぶつけて、八つ当たりをした。黙って受け止めた。

「うん。俺もなんで雫羽じゃないのか。悔しいよ。どうして、茉大なんだろうって思う時ある。でも、もう、雫羽はこの世界にいないんだよ。会いたいけど会えないんだ。今ここにいるのは雫羽じゃない。茉大の体を借りた雫羽だ。自分にはなれないんだよ」

 死んだことをしっかりと見届けた澄矢は現実を伝えた。雫羽は、大量の涙を流し続ける。

「私、神様に頼んで、夢の中で澄矢くんに会わせてくださいって願ったの。河川敷で会った私は本当は病室のベッドの中にいたんだよ。寿命が短いからせめて最後に願うならと七夕の短冊に書いたんだ。神社の絵馬にも書いた。澄矢くんとデートができますようにって、好きになってくれるようにって……。本当に願いが叶って嬉しかった。でも、せっかくデートできたのに、寿命が切れて、澄矢くんに会えなくなって、2人の幸せを願おうとしたけど、どうしてもだめだった。茉大さんと過ごす澄矢くんがすごく幸せそうで、そのポジションに行きたいって思っちゃった。だから、もう、一緒に天国に来てくれれば、ずっと一緒に過ごせるんだろうなって……」

 ペタンと座り、顔を伏せて、泣き崩れた。自分のやってしまったことに後悔する。澄矢は、そんなドロドロの感情の雫羽をじっと見つめ続けた。そっと腕を伸ばして、ヨシヨシと雫羽の頭をなでる。不意にその行動があまりにも優しくて、さらに涙が流れる。同じ目線にしゃがみ、ぎゅっと体を抱きしめた。

「今は、茉大の体になっているけど、俺は雫羽を一度も忘れたことないよ。ずっと俺の心の中にいるから。死んでからもずっと好きでいるよ。連れていきたいなら連れてっていいよ」
 
 さらにヨシヨシと後頭部をなでる。その触れる手が優しかった。浄化された雫羽は茉大の体から離れて、空中に浮かび上がった。力の抜けた茉大の体は地面にふと倒れていく。澄矢はそっと腕に抱えて、静かに茉大を横にした。


「澄矢くん。もう、澄矢くんを天国に連れてくのはやめておくよ」

「……うん」

「私は死ぬ前から澄矢くんから愛されていたんだね。今でもずっと、変わらず好きでいてくれるなら、もう安心。着いてくなんて言わないで。まだこっちの世界には来ないでね。私よりもずっとずっと幸せな時間過ごさないと許さないから。生まれ変わったら絶対また一緒に過ごすんだからね。それまで楽しみに待ってるから」

 泣きながら、今の澄矢の気持ちを聞いて落ち着いた雫羽は、空高く浮いていく。手を振って別れを告げた。本当は一緒にいたい人といられない。この想いは雫羽と同じ気持ちだった。澄矢は、現実を受け止めなければいけないんだなと感じた。
 雷鳴が遠くの方で鳴っていた。雨が土砂降りから徐々に小雨になっていた。
曇り空では光る星は全く見えない。

「澄矢、大丈夫?」

 高架下の少し砂が膝についていた。茉大が体を起こして、心配している。むしろ自分のことだろうとクスッと澄矢は笑った。

「茉大、ごめんね。俺、大事にするからさ」

 ぎゅっとハグをした。

「え? 何かあったの?」
「ううん。何もない。明日ってさ、お祭りあったよね。行く?」
「え、花火大会? 雨降らないといいね」
「確かに……」

 澄矢は地面に落ちた傘を拾って丁寧に巻いて片づけた。高架下の外、雨がようやくやんで、夜空に淡月《たんげつ》が輝いていた。