(……ここっ、皇太子様⁉︎)

 突然の後宮訪問に驚いた朱璃は、箒を塀に立てかけて拱手し、皇太子の伯蓮に向かって頭を下げる。
 こんな近距離に伯蓮の姿を見たのは初めてだったが、下女がジロジロと高貴な方を眺めるのは御法度。
 通り過ぎるまでは頭を下げる姿勢を崩してはいけないと、緊張が走る。
 すると風に乗って香の良い匂いが鼻をかすめ、朱璃はドキリと心臓を鳴らした。

(はぅ、素敵な蓮の香り……)

 さすが高貴な方は香りまでも格別。
 後宮に漂う、多種類の香が混ざり合った不快な匂い以外を久々に感じる。
 朱璃は地面に顔を向けながらも、うっとりした表情を浮かべていた。
 伯蓮が朱璃の前を通過して、後から宦官らが列を成して通過する。
 何事もなくホッと一安心した朱璃は、貂々の様子を確認しようと顔を上げた。
 すると、先ほどまでそこにいたはずの貂々の姿が見当たらない。
 あやかしだから、煙のように忽然と姿を消すこともあるのだろうか。
 そう考えた朱璃が、最後に一目見ようと伯蓮の向かった先に視線を移すと――。

(うわぁぁぁ! 貂々……⁉︎)

 なんと、伯蓮と宦官らの列の最後尾を、貂々が歩いていくのが見えた。
 定位置の木から動いたところを初めて見た朱璃は、感動を覚えつつも冷や汗が溢れてくる。
 通常の人には視えないあやかし。
 だけど、あやかしに触れられたり噛まれたりしたら、その人間もそれなりに感触は伝わるもの。
 視えない力が働くことで、それは怪奇現象と騒ぎとなる予感がした朱璃は、走って貂々を追いかけた。

 そんな問題が発生しているとも知らず、先を進む皇太子の伯蓮。
 その最後尾をついて歩き、何を企んでいるのかわからない貂々。
 朱璃は次の門をくぐる前に、貂々を背後から羽交締めにしようと考えていた。
 しかし直前で足を躓かせ、盛大に転倒してしまう。

「うわっ!」
 ドターーン!!

 大きな音が後ろから聞こえてきて一斉に振り向いた宦官らはもちろん、先頭を歩く伯蓮もすぐに事態に気がつく。
 そこには、貂々の羽交締めに成功した朱璃が地面に転がっていたのだが、
 あやかしが視えない人間にとっては、華応宮の下女が一人、何かを抱えるようにして地面に突っ伏している姿しか確認できない。