「尚華様すみません、逃してしまいました……」
「……よくも恐れずにまた現れたわね、あの下女」

 華応宮の私室にて、朱色の鮮やかな牀の上に座りくつろいでいた尚華。
 お気に入りの香を焚き、茶を嗜みながら侍女の報告を受けて呆れていた。
 初夜を妨害してきた翌日も、中庭にいたという目撃情報があって駆けつけたが確認できず。
 しかし、こうも侍女が見かけているとなると、何か目的があってあの中庭に出没するのか。
 その目的を頭の中で探っていた時、尚華の顔が歪んでいった。

「わたくしを嘲笑いにきているのかしら……」

 皇太子の妃だというのに、宮への通いもなく初夜を見送られた尚華を一目見ようとやってきている。
 そう考えた途端、また一段と恨みの念が高まった尚華は、侍女らに指示を出す。

「次見かけたら声はかけるな」
「え? は、はい……」
「あの下女が何度も中庭にくるなら、それを利用して油断させるのよ」
「かしこまりました」

 拱手しながら頭を下げる侍女らが、連なって部屋を出ていく。
 すると、尚華が一番信頼している初老の侍女が何かを差し出してきた。

「お父上様からの文です」
「え……父上から?」

 尚華の父、すなわち宰相を務める、胡豪子からの文が届けられていた。
 正直に嫌な顔をした尚華は、初老の侍女から文を受け取ると乱暴に開いていく。
 そこには、昨日豪子のもとに伯蓮が謝罪にきたこと。
 そして、例の下女に特別な感情はないという報告が、書かれていた。

「父上もバカね、伯蓮様の言葉を真に受けたのかしら?」
「男は皆、色恋には鈍感な生き物ですから……」

 初老の侍女が、微笑みながら尚華の意見に賛同する。
 仮に伯蓮が本気でそう思いながら豪子に話していたとしても、あの夜現場にいた尚華は肌で感じていた。
 初夜を妨害した朱璃への心遣い、話し方、微笑みが、尚華を前にしている時とは違う。
 あの時の伯蓮は、確実に心を許しているような柔らかい雰囲気を纏っていた。
 思い出すと再び血圧が上昇しそうになり、そばにあった茶を飲み干して深呼吸する。
 しかし文はまだ終わっておらず、続きを目で追っていくと――。

「……なっ、これは……」

 口元を隠すほどに驚く尚華が、目を見開いたまま初老の侍女に視線を向けた。
 すると、胸元から鶸色(ひわいろ)の小さな巾着袋を取り出した初老の侍女は、妖しく口角を上げる。

「伯蓮様を手に入れられるのも、もうすぐですよ」
「……っ」

 豪子の策略、そして謎の巾着袋。
 尚華はこの時初めて、父親の豪子を心の底から恐ろしいと思った。