「先ほど後宮を出る際、貂々を逃がしてしまったのだ」
「そうでしたか。でも大丈夫です。いつもの中庭の木に戻ったのだと思います」
「尚華妃の宮に居座るとは、貂々はそれほど妃を好いているのか?」
「ふふ、私も最初はそう思っていました。ですが――」

 普段は大人しく、一方的に語ってくる朱璃に対しても不快感を露わにしたことがない。
 なのに尚華妃の部屋に侵入した時の貂々は、明らかに敵意をむき出しにしていた。
 だから、尚華妃を推しているという考えはきっと間違いだと朱璃は気づく。
 前回も今回も、貂々が行動を起こす引き金となったのは、伯蓮の訪問。
 もしかすると、貂々には別の目的のようなものがあって、それを果たすために中庭の木に居続けているのかもしれない。
 朱璃はそう仮説を立て、難しい顔をした。

「貂々が心配か?」
「え……そ、そうですね」
「私も心配しているあやかしがいるから、朱璃の気持ちはよくわかる」
「伯蓮様にも?」

 言いながら、朱璃はなんとも不思議な感覚に包まれた。
 あやかしが視える者同士だからこそ分かり合える会話がそこにあって、非常に嬉しい反面。 
 相手は皇太子で高貴なお方なのに、こんなにも親近感を抱いてしまって大丈夫か?と不安も過ぎる。
 すると突然立ち上がった伯蓮が、朱璃の目の前まで距離を詰めた。
 そして懐からそっと取り出したのは、両手に収まるほど淡褐色をした小さなあやかし。

「わぁ、可愛い! 猫、だけど耳が兎みたいに長いあやかしなんですね」
「一年前から私の私室に棲みついていたのだ。この子には(せい)と名付けた」
「毛並みも綺麗、良い具合のもふもふ感……」

 伯蓮が可愛がっているあやかしを紹介されると、朱璃は目を輝かせてその手を出したり引いたりしていた。
 初めて見る種類のあやかしを是非この手で触りたいという気持ちと、皇太子の許可なしに触れるわけにはいかないという葛藤の表れ。
 その様子を見た伯蓮は、あまりに面白い朱璃の動きに耐えきれず、笑い声を漏らした。