しかしあやかしが視えない者は、その鳴き声を耳にすることもできず。
周囲の人間の目には、錯乱した下女が皇太子の初夜部屋に侵入し妨害したようにしか見えない状況。
「絶対に許さないわ。下女の分際で!」
「っ!!」
怒りが頂点に達した尚華は、懐に挿していた扇子を手に取り朱璃に向かって振り翳す。
飛んでくる!と思った朱璃は固く目を閉じたが、当たる感覚がすぐにはやってこない。
ゆっくり目を開けると、そこには尚華の腕を掴み、扇子が投げ飛ばされるのを阻止した伯蓮の姿。
その凛々しく綺麗な顔が、少し怒りを滲ませながらじっと妃を睨みつける。
「は、伯蓮様……!」
「少々感情的になりすぎだ。落ち着かれよ」
「ですが……!」
「それに自分の宮の下女ならば、皇太子に対しての無礼は妃にも責任があるのでは?」
「っ……!」
伯蓮の言葉に息を詰まらせた尚華の恨みは、ますます下女の朱璃に蓄積される。
確かに華応宮の下女として働いていた朱璃だが、尚華が自ら希望したわけではない。
それに面識もない下女のせいで、妃に責任が問われることも面白くなかったのだろう。
「こんな下女、わたくしは知りませんわ!」
そうして朱璃を見捨てる発言をした尚華は、腕を組んで顔を背けた。
ただ、そんな妃の対応に朱璃は今更がっかりはしない。
常日頃から、自分勝手で感情の起伏が激しい妃の素性は充分知っていたから。
(ああ、私の後宮人生、終わったぁ……)
借金を全て返済する前に、不自由な体になってしまう。
両親からもらった大事な体を、できればそのままの状態で故郷に帰りたかったけれど、叶いそうにない。
朱璃は生まれて初めて、何もかも捨ててしまいたい衝動に駆られた。
そして貂々の尻尾を掴んでいた手から、力が抜けてきたその時。
ヒョイ。
「……え?」
朱璃の目の前に屈んだ伯蓮が、他の者には視えないはずの貂々を躊躇なく抱き抱えたのだ。
呆然とする朱璃はもちろん、皇太子に突然抱っこされた貂々も、驚愕した表情で体を硬直させている。
そうして優しく背中を撫でられた貂々は、やがて落ち着きを取り戻し、先ほどまでの威嚇態勢が嘘のように平常時となった。