「それでも治まらぬというなら、そこにある(さかずき)神酒(みき)を注ぎ、呑めば気も休まるはずじゃ。
それは“忘却の盃”というてな。おぬしがこの世界で見聞きしたすべてを、忘れ去ることができる」
「……お前はっ……!」

淡々と自分との別れを進めようとする黒い神の獣。

百合子は、腹の底から猛烈にわき上がる悔しさに、言葉に詰まってしまった。
自分ひとりが彼との繋がりを無くすことを、惜しんでいる気がしたからだ。

(私は、なんのために──)

自分でも持て余すほどの怒りは急激に反転し、虚しさが胸のうちに広がった。

コクコの胸ぐらをつかんだ指先から、力が抜ける。
百合子を“陽ノ元”に繋ぎ止めた心残りの糸が、ぷつんと切れかかった、その時。
百合子の目に、コクコの着物の合わせからのぞいた傷痕が飛びこんできた。

『これが、わしの“役割”じゃ』

自分で自分に言い聞かしていた、哀しい瞳をした少年。
容易に消すことができる傷痕を、あえて残している意味───。

百合子は、自分を落ちつかせるように息をついた。

「……私は、すでにお前の“花嫁”なのだぞ」
「百合……?」