反論しかけ、言葉を失う。
自分には確かに、婚約者がいた。

抜けた記憶のなかに、ぼんやりと男の顔が浮かぶが、目の前の少年かどうかは、やはり定かではない。

「おぬしの名を()いてなかったの。名は、なんと申すのじゃ?」

とまどっていると、明るい声で問いかけられた。

ひと昔前なら、当日まで顔も知らぬ相手と祝言を挙げる者がいたと聞く。
しかしまさか、名も知らぬ相手を嫁に迎える場合もあるのかと、内心あきれながら答える。

「……百合」

口にしたとたん、違和感があった。
自分の名前に、何か足りない気がした。

「百合……子?」

首を傾げながら、足りない文字を補ってみる。
すると、コクと名乗った少年が、大きくうなずいてみせた。

「そうか、百合子と申すか。美しいおぬしにぴったりの名じゃな。
百合。おぬしはわしの“花嫁”。不自由なことがあれば、遠慮なくわしに申してくれ」

疑問に思う『百合子』をよそに、満足げにコクは微笑んだ。