そのときだった。会議室のドアが開いた。清水秘書に案内され、三人の男女が入って来た。
大橋社長の顔色が変わる。帝国大学の南川学長。そして帝国大学古典文学研究所所長の大森京香教授。
さらに令和日報の村山社長が後に続く。
『一千年前の恋 源氏物語の世界展』の主催者の代表委員である。
南川学長、大森教授のふたりは、眼鏡ごしに厳しい表情を全員に向ける。村山社長はぶ然とした表情。大橋社長があわてて立ち上がる。
「大橋さん。皆さん、お揃いですか。それはちょうどよかった」
「畏れながら村山社長。今より人事についての重要な会議でして」
「だから来たのです」
大森教授が松山を見つけると、怒りに近い眼差しを向けた。書類の収められたクリアファイルを示す。
「御社が私たちに送ってきた企画書。あなたがこの企画書の作成者ですか?」
「ハイッ、私はあの有名なパリ経済研究センター』で一年間特別研修を受け、その経験を活かし……」
「あなたのいう『パリ経済研究センター』にこの企画書を分析してもらいました」
松山にとっては想定外の言葉だった。松山だけではない。大橋社長も及川部長も落ち着きなくあたりを見回す。
「日本語訳もついています。あなたなら確かに『パリ経済研究センター』の報告書だと分かる筈です」
松山にファイルが手渡される。
「声に出して読んでみたまえ」
松山のおびえた声が響き渡る。
〈……商品化やコラボなど目先の利益だけにとらわれ、肝心の源氏物語の魅力を表面しか伝えていない。全体的に貧弱な企画で、どうして、参加者が源氏物語のファンになってグッズを買い漁るプロセスとなるのか疑問……〉
松山の顔面は蒼白。そして……。
「あなたたちは、『一千年前の恋 源氏物語の世界展』をつぶすつもりですか?」
「逆に検討もされずボツにされた杉野主任の企画案こそ、『一千年前の恋 源氏物語の世界展』を大きな成功に結びつける企画とも報告されています」
「これは一体、どういうことなのか、私たちに分かるよう説明してもらいましょうか?」
松山は報告書を手にしたまま、ブルブルと震えている。
「そろそろ用意しなさい」
大森教授がドアの外に声をかける。
「私の孫です。中学から夏冬春休みを利用して『パリ経済研究センター』で学んでいます。現在『研究員補佐』の肩書を持っています。今回、彼が研究センターの代表理事に話をしてくれたのです」
「なお彼は母親の英才教育を受け、未成年ながら私たち帝国大学古典文学研究所の研究員を務めています。青陵高校にも特別講師として講義に行っています。これまで草壁剛のPNを使用していましたが、十八歳を機に本名を名乗ることになりました。元々、彼の推薦があったからこそ、御社に共同主催を依頼したのです。そのうえで、
『第一グループの杉野主任ならレベルの高い企画書が作成出来るはずだから是非応援したい』
と身分を隠し、御社にアルバイトとして入社したのです」
会議室の中に見覚えのある人間が入ってきた。緊張した様子でグレーのスーツを着ている。はにかんだ表情がトレードマークだった。そして隣には大橋会長。
彼がそっと恭子に目配せして微笑む。大橋会長の目が厳しく息子の社長をとらえる。
「吾郎! この方は私が推薦した人材だ。きちんと適材適所で働いてもらうのが社長としての任務ではないのか。お前には人を見る目が全くないようだな」
大橋社長は情けない表情で頭を下げた。
「お父様」
そのまま床にひざまずく。
「ごめんなさい」
大橋会長が一同を見回す。
「ご紹介する。草壁剛改め、帝国大学古典文学研究所の日下健士氏だ」
健士は深く頭を下げた。
「改めてご挨拶致します。日下健士です。杉野主任が僕へのセクハラ疑惑で自宅謹慎になったことを知りました。僕の口からハッキリ申し上げます。完全な誤解です。僕にとっては憧れの女性です」
健士の言葉。相変わらず小声で、よく言葉を詰まらせる。けれども恭子は今日、初めて嬉しさに泣いた。
「誰でも怒られるのはイヤだと思います。僕、学生ですからよく分かります。だけど人間として間違ったことを言われたことがあるか、どうか思い出して頂けないでしょうか? 僕は『ない』と……そう、信じています」
第一グループの女性社員全員が顔を見合わせ、やがてそっとうつむいた。
山崎は椅子から離れ、ドアの前まで下がって土下座した。もう逃げ場はない。退職しても、この不祥事が報告されれば、どこにも行き場はない。
松山主任は報告書を手にしたまま、その場にヘナヘナと失神していた。
大橋社長は涙ながらに訴えた。
「すみません、お父さま。そして日下先生、杉野さん。僕は本多常務や及川部長、松山主任に踊らされていたんです。本当です。僕はただの哀れな小物で、歯車のひとつに過ぎなかったんです。日下先生、杉野さん! どうか今後、『小物の吾朗』を厳しくご指導ご鞭撻願います」
何とまあ、今更……。
及川主任といえば、完全なパニック状態。
「ヒエーッ、私はですね。企画書の件も含め、完全に松山くんに騙されていたのです。私はですね。『正直ハンス』と呼ばれ、人を疑うことを知らない純真な人間なんです。杉野さん、あなたこそ、わが社の誇りです。私、杉野さんを心より尊敬しております」
聖書に云う。失神している人は幸せ者である。
松山主任は全ての責任が自分にかぶせられるのを知らないでいた。そして山崎はといえば、
「イケメンじゃない、アクメン」
「ヒール山崎」
女性社員から指をさされて罵倒され、ひたすに土下座して頭をこすりつけ、嵐の過ぎ去るのを待っていた。
「ウワーン、僕はアクメンでもヒールでもないんだ。みんなの友だちなんだよ〜」
だがまだまだ嵐は去らないだろう。
それからもうひとつ……。よく考えたら
「失神している人は幸せ者である」
は聖書の言葉ではなかった。
大橋社長の顔色が変わる。帝国大学の南川学長。そして帝国大学古典文学研究所所長の大森京香教授。
さらに令和日報の村山社長が後に続く。
『一千年前の恋 源氏物語の世界展』の主催者の代表委員である。
南川学長、大森教授のふたりは、眼鏡ごしに厳しい表情を全員に向ける。村山社長はぶ然とした表情。大橋社長があわてて立ち上がる。
「大橋さん。皆さん、お揃いですか。それはちょうどよかった」
「畏れながら村山社長。今より人事についての重要な会議でして」
「だから来たのです」
大森教授が松山を見つけると、怒りに近い眼差しを向けた。書類の収められたクリアファイルを示す。
「御社が私たちに送ってきた企画書。あなたがこの企画書の作成者ですか?」
「ハイッ、私はあの有名なパリ経済研究センター』で一年間特別研修を受け、その経験を活かし……」
「あなたのいう『パリ経済研究センター』にこの企画書を分析してもらいました」
松山にとっては想定外の言葉だった。松山だけではない。大橋社長も及川部長も落ち着きなくあたりを見回す。
「日本語訳もついています。あなたなら確かに『パリ経済研究センター』の報告書だと分かる筈です」
松山にファイルが手渡される。
「声に出して読んでみたまえ」
松山のおびえた声が響き渡る。
〈……商品化やコラボなど目先の利益だけにとらわれ、肝心の源氏物語の魅力を表面しか伝えていない。全体的に貧弱な企画で、どうして、参加者が源氏物語のファンになってグッズを買い漁るプロセスとなるのか疑問……〉
松山の顔面は蒼白。そして……。
「あなたたちは、『一千年前の恋 源氏物語の世界展』をつぶすつもりですか?」
「逆に検討もされずボツにされた杉野主任の企画案こそ、『一千年前の恋 源氏物語の世界展』を大きな成功に結びつける企画とも報告されています」
「これは一体、どういうことなのか、私たちに分かるよう説明してもらいましょうか?」
松山は報告書を手にしたまま、ブルブルと震えている。
「そろそろ用意しなさい」
大森教授がドアの外に声をかける。
「私の孫です。中学から夏冬春休みを利用して『パリ経済研究センター』で学んでいます。現在『研究員補佐』の肩書を持っています。今回、彼が研究センターの代表理事に話をしてくれたのです」
「なお彼は母親の英才教育を受け、未成年ながら私たち帝国大学古典文学研究所の研究員を務めています。青陵高校にも特別講師として講義に行っています。これまで草壁剛のPNを使用していましたが、十八歳を機に本名を名乗ることになりました。元々、彼の推薦があったからこそ、御社に共同主催を依頼したのです。そのうえで、
『第一グループの杉野主任ならレベルの高い企画書が作成出来るはずだから是非応援したい』
と身分を隠し、御社にアルバイトとして入社したのです」
会議室の中に見覚えのある人間が入ってきた。緊張した様子でグレーのスーツを着ている。はにかんだ表情がトレードマークだった。そして隣には大橋会長。
彼がそっと恭子に目配せして微笑む。大橋会長の目が厳しく息子の社長をとらえる。
「吾郎! この方は私が推薦した人材だ。きちんと適材適所で働いてもらうのが社長としての任務ではないのか。お前には人を見る目が全くないようだな」
大橋社長は情けない表情で頭を下げた。
「お父様」
そのまま床にひざまずく。
「ごめんなさい」
大橋会長が一同を見回す。
「ご紹介する。草壁剛改め、帝国大学古典文学研究所の日下健士氏だ」
健士は深く頭を下げた。
「改めてご挨拶致します。日下健士です。杉野主任が僕へのセクハラ疑惑で自宅謹慎になったことを知りました。僕の口からハッキリ申し上げます。完全な誤解です。僕にとっては憧れの女性です」
健士の言葉。相変わらず小声で、よく言葉を詰まらせる。けれども恭子は今日、初めて嬉しさに泣いた。
「誰でも怒られるのはイヤだと思います。僕、学生ですからよく分かります。だけど人間として間違ったことを言われたことがあるか、どうか思い出して頂けないでしょうか? 僕は『ない』と……そう、信じています」
第一グループの女性社員全員が顔を見合わせ、やがてそっとうつむいた。
山崎は椅子から離れ、ドアの前まで下がって土下座した。もう逃げ場はない。退職しても、この不祥事が報告されれば、どこにも行き場はない。
松山主任は報告書を手にしたまま、その場にヘナヘナと失神していた。
大橋社長は涙ながらに訴えた。
「すみません、お父さま。そして日下先生、杉野さん。僕は本多常務や及川部長、松山主任に踊らされていたんです。本当です。僕はただの哀れな小物で、歯車のひとつに過ぎなかったんです。日下先生、杉野さん! どうか今後、『小物の吾朗』を厳しくご指導ご鞭撻願います」
何とまあ、今更……。
及川主任といえば、完全なパニック状態。
「ヒエーッ、私はですね。企画書の件も含め、完全に松山くんに騙されていたのです。私はですね。『正直ハンス』と呼ばれ、人を疑うことを知らない純真な人間なんです。杉野さん、あなたこそ、わが社の誇りです。私、杉野さんを心より尊敬しております」
聖書に云う。失神している人は幸せ者である。
松山主任は全ての責任が自分にかぶせられるのを知らないでいた。そして山崎はといえば、
「イケメンじゃない、アクメン」
「ヒール山崎」
女性社員から指をさされて罵倒され、ひたすに土下座して頭をこすりつけ、嵐の過ぎ去るのを待っていた。
「ウワーン、僕はアクメンでもヒールでもないんだ。みんなの友だちなんだよ〜」
だがまだまだ嵐は去らないだろう。
それからもうひとつ……。よく考えたら
「失神している人は幸せ者である」
は聖書の言葉ではなかった。