「では会議は終わり。日下くんは営業企画部第一グループの事務室に行って欲しい。杉野さん、日下くんの教育係を頼む」

 大橋社長の言葉に、

「ハイッ」

 健士が小さな声で返事をした。業務時間の間、恭子と健士の間には、私語は一切なかった。最初に恭子が健士を第一グループの社員に紹介したもものの、全く反応はなかった。山崎は恭子にあてつけるように、露骨に知らん顔をしていた。恭子は眉をひそめたが、健士の手前もあり、何も言わなかった。
 健士ったら小声で、しかも滑舌がよいとはいえない口調で、

「日下健士です。高校三年です。先輩のみなさん、どうかよろしくお願いします」

と挨拶し、しっかりと頭を下げた。口調はたどたどしくても、礼儀正しさがよく分かった。だが第一グループからは何の反応もない。やる気のないしらけた雰囲気が漂っている。

「何か手伝って欲しいことがあったら、まず私に報告してください。もちろんみなさんのことを信頼していますから、直接、日下くんにお願いしてもいいのではとも思います。ただとりあえずしばらくは私を通してください」

 山崎が立ち上がった。恭子の顔も見ずにドアに向かって歩き出す。

「コーヒー買ってきま~す」

 健士がハッとしたように恭子に話しかける。

「杉野主任、あの、よろしいでしょうか?」
「日下くん、どうしましたか?」
「あの、午後三時近くです。みなさんもお疲れかと思います。僕、みなさんにお茶をお出ししてもよろしいでしょうか?」
「ありがとう。よく気がついてくれましたね。それではお願いします」
「山崎さんでしたね。よかったら僕の淹れたお茶をどうぞ」

 あいかわらず滑舌が悪く、緊張すると言葉がつかえてしまうが、礼儀正しさは充分感じられた。山崎は不機嫌な表情で席に戻った。舌打ちが聞こえた。
 とはいえ、十八歳の少年が美味しいお茶なんか出せるとは恭子もも期待していなかった。用意されたお茶の葉だって老舗とは全く無縁。ディスカウントショップで買ってきた安物である。
 だが常識というのは、常に覆されるもの。しばらくして健がキッチンの台車に乗せて運んで来たお茶が、まさしくそうだった。湯呑に口をつけた社員たちは目を見張った。ほどよい熱さ、濃い緑色、そして甘みとかすかな苦味が見事に調和して、豊かなコクをもたせていた。清涼飲料水でもないのに、何杯も飲みたくなる美味しさだった。

「美味しい」
「こんな美味しいお茶、初めて」
「いつもの西野さんの淹れ方が悪いんじゃないの」
「そうっ、適当過ぎて」
「失礼ね。でも美味しい」

 山崎も一気に飲み干した。驚いた顔で湯呑み茶わんを見つめている。だがすぐに不機嫌な表情に戻り、湯呑み茶わんをデスクに置いた。大きな音がした。
 全員がお茶を飲み干すのを待って、恭子が会議の内容について業務報告をした。
 『一千年前の恋 源氏物語の世界展』の企画書作成については第一グループで総力を挙げて取り組むが、取り敢えず三人のプロジェクトメンバーを選抜して中心になって進めること。プロジェクトメンバーについては、企画書作成までこの業務に専念することとして、現在手がけている仕事についてはほかの社員に引き継ぐことが告げられた。
 プロジェクトのメンバーとして、山崎三郎と須藤理沙、三神優香が発表された。
 美味しいお茶の効果もあってか、特に意見や反論が出され、雰囲気が悪くなることもなかった。いつも一言多い山崎まで、腕を組んだまま、沈黙していた。
 午後六時の終業時間になると、ひとりふたりとタイムカードを切って事務室を出ていく。健士は業務時間内、様子を見ながら何度かお茶を出して社員たちのモチベーションに貢献し、一方で資料の整理やコンピュータへの入力、ゴミ出しと雑用も含め、様々なジャンルの仕事をこなした。スピードはハッキリいってスローである。だがどの仕事も丁寧にこなしていた。
 そして健士の終業時間である七時半が訪れたとき、第一グループ事務室には、恭子と健士しか残っていなかった。

「これで僕の仕事終わりですね。何か残ってたらおっしゃってください」
「もうありません」
「じゃあ、タイムカード切ります」

 恭子が続く。

「杉野さん、これでプライベートな話をしても構いませんか?」
「ええ、私も聞きたいの。一体、どういうこと?」