「場所、変えようか」
そう言って傘を広げる彼の後ろを私はただついていった。
今日、お店に来ることは店長から聞いていて、ずっと私が出てくるのを待っていたらしかった。少し前に、私と話がしたいからと会うチャンスを作るために協力してほしいと申し出ていたと知った。
雨はしとしとと静かに降り注ぐ。
傘に跳ね返る雨音に混ざって、隣を歩く彼の声はしっかりと耳に届いていた。
これで店長の不自然な行動が腑に落ちる。いつもより少し帰りが早かったから、彼とすれ違ってしまわないように引き取めようとしてくれていたんだと気づいた。
「正直、なにから話せばいいか混乱してる」
無理矢理笑った横顔がとても苦しそうに見えた。
たのしんで、なんてあんまりだ。親指で文字をなぞりながら、今の私には眩しくてさりげなくカップを回して遠ざけた。
緊張する。たまに口をつけたいつものコーヒーさえ、なんの味もしなかった。
「先輩って呼んだの、人違いじゃなかったんだよね」
忘れてしまったことへの後ろめたさなのか、半歩先をいく彼は振り向きもせずそう言った。
「たくさんいた後輩のひとりですし、忘れてても仕方ないです」
精一杯の強がりだった。
でも心の中ではつらくてたまらない。あれほど一緒にいた時間があったのに、忘れてほしくなんてなかった。
そのとき、突然高科さんが足を止めた。つられて立ち止まった私もすぐには反応できなくて、半歩詰まって彼の隣に並ぶ。
「記憶がないんだ」
彼が急に声を落として言った。
耳を疑い、顔をあげたら、
「高校を卒業してすぐ事故に遭って、一年間くらいの記憶がまったくない」
真っ直ぐ悲しそうな瞳で告げられた。
声にならない声が唇から微かに漏れ出した。