店を出ても空はまだ青かった。けれど陽気はやっと春だと思えるものになっていた。日陰に入ればもう暑くない。


「私、この後用事があるのでお暇します。」


店の前の行列がすっかり落ち着いて人気がなくなったのをいいことに、ひばりは店を出てすぐに常田を呼び止めてそう言った。昼食代はキッチリ別会計にしてもらった。もう常田と会う理由もない。
振り返った常田は無表情だった。さすがにその表情からは何も読み取れない。


「今日はありがとうございました。」


丁寧にお辞儀をして来た道とは反対方向に歩き出そうとする。デジャヴ。まるであの晩と同じ光景だ。


「俺、ひばりさんが好きだ。」


ひばりは踏み出そうとした足を止めた。今日は常田に「待って」と言われなかった。代わりにひばりが最も聞きたくなかった言葉が耳に入る。
常田の顔を見れなかった。目を見てしまったらもう無視する自信がなかった。どうしていいか分からなくてひばりは自分の腕を掴んだ。
そんなひばりの胸中を知ってか知らずか、常田は追い打ちをかけた。


「ほぼ一目惚れだと思う。でもそれだけじゃないんだ。ひばりさんの考え方とか、えっと、挙げたらキリがないんだけど、とにかく一緒にいてほしいんだ。」


--何だこの人。
それはひばりがあの晩常田に抱いた直球な感想そのままだった。お金の建て替えなんかの入れ知恵したのは、店をピックアップした同僚なのはもう分かっていた。だから常田が女性経験に乏しいことも会話の端々から分かっていた。
なのにさっきまで普通に話してたくせに、突然口下手になっちゃって。もう、めちゃくちゃだ。


「ごめんなさい。」


常田の顔を見ることもなく勢い良く頭を下げ、先程踏み出せなかった足を踏み出した。呼び止められるのが怖くてその場から走って逃げた。
すぐに角を曲がって、また角を曲がって、やっと走るのを止めた。それでも足は止めなかった。一刻も早くその場を離れたかった。


「ふっ……。」


噛み締めた唇から嗚咽が漏れた。瞬きもしていないのにボロボロと涙が零れて止まらない。ひばりはハンカチを口元に押し当てた。肩が震える。

常田さん。本当は私も一緒にいたいです。でも私には勇気がありません。武士に憧れることはあっても、武士の奥さんには憧れたことがないんです。だって今は戦時中じゃない。無事を祈らなくていいこの時代に、無事を祈りながら帰りを待つことなんて私にはできません。

ごめんなさい。


その日は2、3駅分歩き、常田とは決して会わないルートで帰宅した。少女漫画も美味しい物も実現できなかったが、常田の連絡先だけは電車の中ですぐに消した。