この世界には数人、経済界の重鎮がいるが、その1人とたまたま会う席があり、君はこの本を読んだ事があるかと聞かれた。

昭和の時代の虎の巻だと言う小説を、読むべきだと言われたからには、探してみたが既に絶版になっていた。それでも諦めきれず秘書に頼み探したのだが、都内のどの古本屋にもなくお手上げ状態だった。

一か八かで図書館をあたってもらったが、まさかここに来て手に入りそうだと言う。

来月上旬にはまた、会う機会があるからそれまでには読んでおきたいと思うが…。そんな古本1冊を躍起になって探したところで何が変わるのかと…思う自分がいたりもする。

強き者に巻かれ、媚を売り気に入られたところで、どんなメリットがあるのか…そんな事に踊らされる自分を滑稽だとまで思ってしまう。

この世界は時に、儚く脆い絆で繋がれた者同士の小競り合いのようで、そこにしがみ付いたところで何が残るのか…流れゆく時代の波に取り残されるばかりで、自分自身を見失った男は、その立ち位置さえも分からぬまま流されている。

いつの頃からか、綺麗な風景を観ても、美味しいものを食べても、心が動かなくなった。
目に映る世界は全て色が無く、輝きを失ってしまった様に見える。

子供の頃に見た、あの綺麗な海をもう一度見る事が出来たなら、あの澄んだ空気をもう一度吸う事が叶うのならば…生き返る事が出来るだろうか…。

白井 李月 (しらい りつき)28歳
白建コーポレーションの次期跡取りとして生まれ、全ての期待を一手に担い大人になった。逆らう事も許されず、いつしか自分の為に生きる事を辞めた。

目を閉じれば、浮かんで来るのは子供の頃に見た景色。青い空に白い雲、どこまでも続く水平線に輝く水面が揺れている。1日中見ていても飽きなかったあの頃。
今思えば、1番自分らしく生きられた時間だった。

トルルル…トルルル…

内線が鳴り李月は現実に引き戻される。
「はい…。」

「恐れ入ります。受付に雨宮 優奈様が来られておりますが、どのように対処致しましょうか?」
雨宮 優奈…ああ、俺の婚約者か…面倒だなと、思いながら李月は重い腰を上げ、
「今からそっちに行来ます…待たせて置いて下さい。」
と告げる。

親が勝手に決めた婚約者。
惚れた腫れたなどでは無く、これぞ政略結婚だと言うような間柄だ。それでも週一回は夕食を共にし、差し障り無いたわいも無い話しをして時間を過ごす。

相手がどう思っていようが一向に構わないが、そこに心を動かすような事はまず無い。要は誰だって良いのだ。
それで父が満足して、煩く言われないのであればそれでいい。