「当時、母は……おそらく、産後うつの傾向にあったのだと思います」

 メンタルも体調も最悪の状況で、父の裏切りともとれる行為に絶望したのだろう。
 私の出産という記憶をリセットすることで、母は自分を守ろうとしたのかもしれない。
 ただ名前が気に入らないだけなら、手続きをすれば改名はできたはずなのだから。

「母は、私をいないものとして扱いました。父方の祖父母が育児の手伝いに入っていたので、しばらくは問題なく過ごせていたようですが……」

 状況が悪くなったのは、私が三歳になった頃──弟が生まれたのがきっかけだった。
 母が、父方の曽祖母のみならず、祖父母や他の親戚が関わることまで激しく拒絶した結果、私は父以外のサポートを受けられなくなってしまう。
 なお、母方の祖父母は私の人生にはまったく関わっておらず、生きているのか死んでいるかすら知らない。
 とにかく、弟が生まれた後の私の命綱は父だけとなったわけだが……

「父は、私の名前のことで負い目があるでしょ? だから、母の味方だったんですよね」
「……なんてことだ」

 ミケの深いため息が、私のつむじをくすぐった。
 家族の中で孤立した私は、両親に愛される弟と、愛されない自分の格差に気づいていく。
 ネコが私の顎の下にスリスリと顔を擦り付けながら、ここでようやくため息交じりに口を開いた。

『珠子の人見知りは、その生い立ちが大きく関わっとるんじゃな。親から存在を否定されてきたから、自分に自信が持てなかったんじゃろうよ』
「うん……そうかも……」

 父が世間体を気にする人間だったおかげで、衣食住を取り上げられることはなかったし、高校にも短大にも行かせてもらえた。
 ただ、遠方の短大に合格して、私が家を出ると決まった時の父の顔は忘れられない。