きゅうじゅうなな、きゅうじゅうはち、きゅうじゅうきゅう……。
ひゃく、と冬夜《とうや》がくちのなかで呟くのと、竜胆《りんどう》が冬夜の胸から顔をあげるのはちょうど同時だった。
予想よりは短かかったが、一分と四十秒、しっかり冬夜の胸で号泣した竜胆のかおは、ありていに表現すれば、ぼろぼろだった。
「……ひっく。ううう。うええええ……」
しゃくりあげ、また、泣き出す。
冬夜は常に八枚ほど装備しているハンカチをとりだし、竜胆のほほにあてた。左の手で、彼女の前髪を撫で、耳の後ろに手櫛をとおす。竜胆は冬夜のそのしぐさが好きだった。
なんどか繰り返すと、ようやく、泣き止んだ。
「……なんで、受けてたっちゃったの……?」
冬夜があたまをぽんぽんしながら言うと、竜胆は、うう、というかおを冬夜に向けた。ほほが涙で、ぺたぺたになっている。
「だってえ……かなちゃん、とうやのこと、子分とかいうから……とうやはいいなづけだもん。子分じゃないもん。まちがったこと言ったら、ごめんなさいしなきゃいけないんだよお……」
「あのときそういえば、よかったのに……」
「……かなちゃんこわくて、なんかわかんなくなっちゃった……」
竜胆がまたかおをくしゃっとしたので、冬夜はもう一度抱き寄せる必要に迫られた。
小さな窓から入ってくるわずかな陽光が、殺風景な部屋を薄い橙色に染めている。
ここは、第十八体育準備室。
将来的に授業として導入予定のエクストリームスポーツ関係の設備が格納されている。が、いまはだれも利用せず、しかも校舎のひとめにつかない場所にある。
そこの鍵を、竜胆はいつも持ち歩いていた。ほかにも、彼女だけが出入りできる部屋がいくつかある。理由は不明だし、冬夜もきかないが、彼女の父親がこの学園の重要な出資者であることがなにか関係しているのかもしれない。
竜胆は、花奈に大見得をきった冬夜の腕をつかみ、弁当もそのままにして、この部屋に連行した。とちゅうで複数の生徒が、気の毒そうな顔をしてそれを見送った。冬夜への同情は、生徒たちの共通理解だった。
はいるなり、竜胆は冬夜にしがみつき、泣いて泣いて、いまにいたる。
「……そして僕も、なんで、あおっちゃうかなあ……」
竜胆を胸にかかえたまま、天井を見上げて嘆息する。
「……っぐ。ごめんね、ごめんね……」
「はいはい、お鼻かんで。そろそろ行くよ、もう着替えしないとでしょ?」
「……うん……くしゅっ」
体育は五限だが、水泳のため準備時間が設けられている。ただ、あと二十分ほどで着替え、準備を終えなければならない。
ふだんの部活のときには、冬夜は、女子更衣室ちかくで待機している。それだけを聞けば、たいへんあやしい男子ということになるが、荷物を手にやまのように持たされている状態で待つのだ。
クラスメイトたちの感想は、へんなひと、ではなく、かわいそう、となる。
そして着替えがおわったらいちど、手を握る。
みなの前でハグは難しいが、わずかであっても、その接触が大事なのだ。
別れると、冬夜はプールサイドに走る。
竜胆がプールのどこにいても見える位置に、陣取る。
授業のばあいは、この学校は大型のプールが二面あるため、男女がわかれてそれぞれのプールで練習となる。そのため、竜胆から冬夜はいつでもみられる場所にいる。冬夜も常に、できるだけ竜胆の視線からはずれないように気をつかう。
今日の五限も、そして対決のその瞬間も、冬夜は確実に、はっきりと、竜胆の視野のなかにいる必要がある。
女帝の維持には、たいへんな労力が必要とされるのだ。
「だれもいないよ」
竜胆が扉をあけ、左右を見回して振り返った。
「さきにいって。僕もすぐ着替えて待機してるから、すぐに来て」
「うん」
竜胆がてててっと走ってゆく。しばらく待って、冬夜も廊下に出た。
やれやれという顔をしながら更衣室に向かう途中で、おなじクラスの男子なんにんかに出会った。更衣室とはまったく違う方向だ。しかも、水泳の準備はしていない。全員、ジャージ姿。
「あれ、なんで着替えてないの?」
冬夜が聞くと、親しい男子がざんねんそうな顔を浮かべた。
「プール壊れたんだって。ひとつは使えるけど、準備に時間かかる女子に使わせるって。俺たち男子は、持久走だってさあ。久しぶりに泳げるとおもったのになあ」
「おまえ女子めあてだろ、この、おへんたい」
「なっ、ばか」
じゃれる男子たちを前に、冬夜は硬直していた。
持久走は、校庭のトラックで行われる。もちろん屋内プールの建物の、外だ。校庭からプールのなかは、見えない。プールからも同様である。
つまり、竜胆は、冬夜のすがたを見ることができない。
「……りん、ちゃん……」
遠くを見るようにして、冬夜はこぶしを握った。
そのころ、竜胆は着替えている。
更衣室は、当然のことながら、男子がたちいることはできない。冬夜ももちろん例外ではない。姿も見えない。だからこそ、入る直前のハグは必須であり、出たあとのタッチも欠かすことができない。
もっとも、いまのように、冬夜の成分がしっかり充電されているときの竜胆は、無敵である。
更衣室の照明は暗くはなく、室内はむしろ、清潔なあかるい白に満たされている。
が、竜胆は、みずから光をはっしている。
ロッカーの前で髪をまとめている彼女のまわりに、半径二メートルほどの空間ができている。
そのすがたを評して、プールの女神、と呼んだものもあるという。
とくだん特徴のないスクール水着。だが、彼女がまとうそれは、ギリシャ神話の海の女神、テティスがつかわしたものとみえた。
やや伏せた目に、深い自信と誇りを湛えた瞳がしずかにひかる。
遠巻きに囲む友人たちの、ため息。
「……りんどう姫、きょうもほんとうに、きれい」
「わたし、冬夜くんと替わってもいいかも」
タオルを手に取り、出口に向かってあるく竜胆。
と、ドアがひらき、水泳指導の教員が顔をみせた。
「えーと、今日はプールがひとつしか使えません。女子は第二プールじゃなくて第一プールを使いますので気をつけてくださいね」
「えっ、男子はどうするんですか」
誰かが聞くと、教員はグラウンドの方向を指差した。
「持久走だそうです」
竜胆のあしもとにタオルが落ちた。