渋谷君が予約してくれていた店は元々古美術商をしていたオーナーが古民家を改装して始めたという懐石料理屋で、雰囲気のあるとても素敵なところだった。

 そして渋谷君の『浮かれてうっかり飲んでしまいました』という小芝居からの宿の手配のスムーズさには思わず笑ってしまった。

 こうして私と渋谷君は恋人の関係になったわけだが、これまでとの違いはそれ程ない。平日はこれまで通り上司と部下として仕事に追われる日々が続いているし、休日は元々ふたりで過ごすことも多かったのだ。

 それもあって、私達の関係を知っている人はほとんどいない。

 沙和ちゃんが卒業してからずっと渋谷君の恋を応援していたのには驚いたし、松本さんが事情を聞いていたのに素知らぬ顔で私と話していたのにも驚いた。ちなみに菊池君も知っていたらしいが、だからどうしたと言わんばかりの無関心さには脱帽した。

 まだ付き合い始めたばかりだし、私としてはこれくらいが丁度いい。

 渋谷君がこだわったのは呼び名の変更くらいなもので、それ以外は全て私のペースに合わせてくれている。

 私にとっては恋愛すること自体が想定外のできごとなのだ。今はまだ、純粋に渋谷君との時間を楽しみたい。

 渋谷君、両親、友人、同僚‥‥周囲の人に優しく支えられたお陰で、私は離婚のダメージからほぼ回復していた。

 渋谷君と弟の龍二さんが4月に昇進することが決定し、その準備は順調に進んでいる。そのすぐ後には松本さんも復帰する。その辺りでようやく余裕が出てくるだろう。

 紙ベースで管理していた古いデータをデジタル化することになり、最近はその作業で手一杯だった。4月までにこれを終わらせれば、龍二さんへの業務の引き継ぎが何倍も楽になる。今日は金曜日。土日を挟むので、きりのいいところまで入力作業を進めたい。

「みーどーりー」

 定時を過ぎて部屋にふたりきりなのをいいことに、渋谷君が後ろから抱きついてきた。

「まだ仕事中ですよ?」

「今日は金曜だよ?この後食事に行かない?」

「きりのいいとこまで終わらせたいんです。邪魔するくらいなら手伝ってくれませんか?」

「そんな上司に頼むみたいな感じじゃやる気がおきないなー」

 明らかに上司に頼む感じでもなかった気がするが‥‥しょうがない。

「龍一君、お願い、手伝って?」

 バツイチでアラサーの私がなんでこんなことを‥‥と思わなくもないが、日頃の感謝の気持ちを込めて、精一杯全力で可愛い子ぶりっ子をきめてやる。

「しょうがないなー、翠のために頑張るかー」

 渋谷君が喜んでるから良しとしよう。こんな感じも悪くない。私は今、凄く幸せだった。