「お待たせ!悪いな、ちょっと遅れた」


 ジャージ姿から制服へと着替えた椿が、慌てたようにやってきた。


「ううん!大丈夫だよ。今日は来てくれてありがとう」


「こちらこそ、特等席で聴かせてくれてありがと」


 椿は手近な椅子を引き寄せると、ピアノから少し離れたところに腰を下ろした。それを見届けた愛華は、椅子に座り直してこほんと咳払いをする。


(…ああ、もうこれで終わりなんだ…)


 自分で決めたことだというのに、簡単に決意が揺らぎそうになる。


(本当はずっとこのままでいたい。ずっと椿くんと話をしていたい。彼の近くで、同じものを見たい)


 けれどそれは決して叶うことのない願いなのだ。だからこそ、愛華はこの道を選んだ。


「では、…弾きます」


 椿は嬉しそうにぱちぱちと手を叩き合わせる。


 椿の楽しそうな顔を見るだけで、力が湧いてくるようだった。


 拍手が終わって、愛華は深く呼吸を繰り返す。


(私の今できる、精一杯の演奏を)


 椿に届きますようにと願いながら、愛華はゆっくりと音楽を奏で始めた。


 最初はこの前のコンクールでボロボロだった「愛の夢 第三番」を。そして次の課題曲である、「悲愴」を。


 ここ数か月の愛華のありったけの気持ちを演奏に込めた。