私の好きな人には、好きな人がいます


 あの時たまたま椿が助けてくれただけ。椿のおかげで楽しい日々が送れたけれど、それはちょっとの神様の気まぐれだったのかもしれない。愛華の死は決まっていたのかもしれない。


 愛華は諦めに似た嘲笑を頬に浮かべて、静かに目を閉じた。


 電車が愛華に接触する、その寸前、愛華はまたお腹に衝撃を感じて後ろに引っ張られた。


 耳をつんざく様な警笛を鳴らしながら、目の前すれすれに電車が通過していく。


 いつか見た光景と全く同じ。過去に戻ったみたいだった。


「平気か!?」


 耳元に響く声に、愛華は泣きそうになった。


 聞き間違えるはずなんてない。ずっと好きで、ずっと聞きたいと思っていた声なのだから。


「…椿くん……」


 愛華の後ろには、愛華を支えたまま尻餅をついた椿がいて、その表情は心配というよりも、怒りの色に染まっているように見えた。


 震える声で「…平気だよ」と返事をすると、椿はいつかのように辺りをきょろきょろと確認して立ち上がった。そして椿からは聞いたこともない怒号のような声が響き渡る。


「おい!お前、自分が何をしたのか分かってんのか!?」


 椿は誰かに向かってそう怒鳴っていた。愛華もふらりと椿に駆け寄って、椿が腕を掴んでいる相手の顔を見た。


 それは愛華の良く知る女の子だった。


「麗良…ちゃん…?」


 そこにいたのは麗良だった。椿を睨みつけ、腕を振り解こうとしている。


「この子が愛華さんを突き飛ばしたんだ!この前も!」


「え…?」


「この前は俺の見間違いだと思って言わなかったけど、今回は絶対見間違いなんかじゃない。愛華さんを思いっきり突き飛ばしてたのを見たんだ」


 確かに今回は背中の真ん中に掌のような感触があった。やはりそれは愛華の勘違いではなかったのだ。


「離してっ!!!大事な腕なの!!!」


 麗良の声に、椿は思わず手を離してしまう。しかし麗良は逃げるようなことはせず、ただただ愛華を睨み付けていた。


「誰この人、超最悪。麗良の大切な腕なんだよ?ピアノ弾けなくなったらどうしてくれるわけ?」


 麗良の言葉に、椿の怒りはまた募ったようだった。


「あのなぁ!こっちは下手したら死んでたかもしれないんだぞ!?何考えてんだ!?」


「知らないし。邪魔なんだもん、愛華ちゃん。水原くんは相変わらず愛華ちゃんのことばっかり気にしてるし、愛華ちゃんなんて、いなくなっちゃえばよかったのに」


「麗良ちゃん…」


 麗良の気持ちは随分前に分かってはいたが、これほどまでに憎まれていたとは。


(麗良ちゃん…私が死んでもいいってくらい嫌いだったんだ……)


「愛華さん、警察に言った方がいいって」


 椿の言葉に、愛華はゆるゆると頭を振った。愛華はキッと麗良を見据えるとこう告げる。


「麗良ちゃん、ピアノで決着つけよう。次のコンクールで私が勝ったら、こういうことはもう止めて」


 愛華の提案に麗良はにっと笑った。


「いいよ?だって愛華ちゃん、絶対麗良には勝てないもん」


 麗良は余裕たっぷりの笑みを浮かべて去って行く。


 愛華はほっと息をつくと、緊張の糸が切れたように力が抜け、その場にぺたんと座り込んでしまう。


「愛華さん!?」


 椿が慌てて愛華を支えると、近くのホームベンチまで連れて行ってくれた。


「ありがとう、椿くん」


 隣に座った椿が不服そうに唇を尖らせる。


「いいのかよ、あの子放っておいて」


「うん…いいの。この決着は、自分でつけるから」


 愛華の強い眼差しに、椿は「…分かった」と渋々頷いてくれた。


 前回はボロボロで何もできなかったコンクール。今度は麗良に負けない演奏をしなくちゃいけない。


 愛華はそう、心に強く決めた。


「椿くん、また助けてもらっちゃったね」


「愛華さんが無事ならなんだっていいって」


 やっと張り詰めていた緊張が緩んだのか、椿もひと息をつきながら愛華の隣で伸びをした。


 その椿に向かって、愛華は言葉を選びながら真っ直ぐに彼の瞳を見つめた。


「椿くん、来週、音楽室に来てほしいの」


 瞬間きょとんとした椿は、「ああ!」と言って、ぽんと掌を打つ。


「俺がまた演奏聴かせて、って言ったやつ?」


「そう、来週来てもらえないかな?それまでに仕上げておくから」


「わかった、部活の後で少し遅くなっちゃうけど、寄れそうな日に連絡する」


「うん、待ってるね」


 愛華は決意を胸に秘める。この演奏が最後だ。椿と関わる最後の日になるのだ。


 愛華は失恋したその日から薄々考えていた。


 椿を好きな気持ちは変えられないし、きっとずっと彼を思い続けるだろう。


 けれど、椿と関わるのはもうやめよう、と。


(また遠くから眺めるだけの、憧れの人に戻るんだ)


 このまま一緒にいても辛いし、苦しくなるのだ。だったらまた以前の様に、こっそり椿を眺めて元気をもらう。彼と出会う前の関係に戻そうと思った。


 それが愛華の心にとっても、折り合いのつく丁度いい関係なのだ。


「…愛華さん、なんか変わった?」


「え?」


「なんつーか、雰囲気変わったような…?」


「そ、そうかな…」


 自分では全く分からない。けれど、そうかもしれない。


 椿を好きになって、この恋に未来はないと知って、友人関係も色々とあって。


 愛華は、ここ数か月、考え悩み抜いてきた。そして今、また前を向いて歩き出そうとしている。


(全部きっと椿くんのおかげなんだ。私は、あなたに恋してよかった)


 椿は不思議そうに首を傾げて、愛華の顔を見ていた。


 愛華は椿がいつもそうしているように、にっと笑いかけてみた。すると椿も同じように笑い返してくれる。


(この人の笑顔が、私の原動力だ)



 翌週の放課後。


 椿から、「今日、部活早く終われそうだから、終わったら音楽室行く!」とメッセージが届いた。メッセージを受け取った愛華は、OKのスタンプで返事をしてピアノの練習に励んだ。


 愛華なりにこの曲はもう自分のものにできている感覚があった。精度も十分に仕上げて来て、今日はそれを十二分に発揮するだけだ。



 最高の演奏をして、気持ちに一区切り付ける。


 そう決めてはいても、やはり寂しさは拭えない。


(椿くんと気軽に話せるのも、今日が最後なんだなぁ…)


 椿のことだから、廊下で擦れ違えば声を掛けてくれるかもしれない。もちろんそれには答えるつもりではあるが、彼の世界にはこれ以上踏み込むことは決してないだろう。


 二人きりで話すことも、今日がきっと最後だ。



 愛華は席を立ち、一階の昇降口前にある自動販売機まで緑茶を買いに行くことにした。


 少し行儀が悪いとは思いつつも、自動販売機の横で買ったばかりの緑茶に口を付ける。口の中も喉も、潤したそばから乾いていくようだった。


 そこにちょうど水原が通りかかる。


「あれ?水原くん、今帰り?珍しいね」


 水原は部活にも委員会にも所属しておらず、授業が終われば帰宅するかレッスン教室の空き教室に行くかの二択である。この時間まで学校に残っているのは珍しかった。


「進路の相談でちょっとな」


「あ、もうそういうの考えなきゃいけない時期か…」


 高校二年生ももうすぐ終わる。来月からは高校三年生。受験生になるのだ。今はまったくもって考えたくもないが。


「愛華はいつも通り音楽室で練習か?」


「うん」


「まあ、励めよ」


 水原は得意げに笑って、校舎を出て行く。


 今回のコンクールは彼に失望されることのないよう、もちろん彼より上を目指していくつもりだ。


「あ、愛華ちゃん!」


 水原と別れた直後、今度は美音と藤宮がやってきた。愛華は美音と藤宮の顔を交互に見てしまう。二人揃って下校するのだろうか。


「あ、美音ちゃん、バイバイ」と手を振る愛華に、美音はいつも通りの明るい笑顔で「バイバイ!」と手を振り返してくれた。藤宮は特に何も言わなかったが、彼はまあいつもそんな感じのようなので愛華は特段気にすることはなかった。


(美音ちゃんとは、ずっと友達でいたいなぁ)


 美音との関係は変わらずいられるだろうか。美音と椿が付き合うことになったとして、愛華の気持ちを知らない美音はきっと今までと変わらず接してくれるだろう。どちらかというと、それに愛華が耐えられるかどうか、なのかもしれない。


 緑茶をもう一口喉に流し込んで、愛華は音楽室へと戻った。



「お待たせ!悪いな、ちょっと遅れた」


 ジャージ姿から制服へと着替えた椿が、慌てたようにやってきた。


「ううん!大丈夫だよ。今日は来てくれてありがとう」


「こちらこそ、特等席で聴かせてくれてありがと」


 椿は手近な椅子を引き寄せると、ピアノから少し離れたところに腰を下ろした。それを見届けた愛華は、椅子に座り直してこほんと咳払いをする。


(…ああ、もうこれで終わりなんだ…)


 自分で決めたことだというのに、簡単に決意が揺らぎそうになる。


(本当はずっとこのままでいたい。ずっと椿くんと話をしていたい。彼の近くで、同じものを見たい)


 けれどそれは決して叶うことのない願いなのだ。だからこそ、愛華はこの道を選んだ。


「では、…弾きます」


 椿は嬉しそうにぱちぱちと手を叩き合わせる。


 椿の楽しそうな顔を見るだけで、力が湧いてくるようだった。


 拍手が終わって、愛華は深く呼吸を繰り返す。


(私の今できる、精一杯の演奏を)


 椿に届きますようにと願いながら、愛華はゆっくりと音楽を奏で始めた。


 最初はこの前のコンクールでボロボロだった「愛の夢 第三番」を。そして次の課題曲である、「悲愴」を。


 ここ数か月の愛華のありったけの気持ちを演奏に込めた。


(椿くんへの気持ちは、好きが大きい。でもそれだけじゃなくて、感謝の気持ちもたくさんある)


 助けてもらったこと。勇気付けてくれたこと。背中を押してくれたこと。


 一緒に過ごした日々は、愛華にとって宝物だった。


(恋をしてよかった。恋をしたのが、あなたでよかった。


 演奏が終わって、何もかもが終わったとしても。きっと私は前を向いて歩いていける。椿くんからもらった強さがあれば平気。進んでいける、絶対に)


 最後の一音が音楽室に響き渡って、愛華は椿へと顔を向ける。


 椿がまたぱちぱちと拍手をして、愛華のミニ演奏会の終わりを告げた。


「すげーかっこよかった!愛華さん、ほんとピアノ上手だなー」


 クラシックや音楽の知識のない椿は、きっとどんな演奏でも褒めてくれそうなものだが、その絶賛ぷりが愛華は少し照れくさい。


「聴いてくれて、ありがとう」


「こちらこそ、聴かせてくれてありがとな」


 にこっと笑う椿の顔はやっぱりいつも通りで、愛華が憧れ始めた時と変わらない、見ているこっちすら笑顔にしてしまうような明るさがあった。


 「この曲ってどんな曲なの?」と椿が訊いてきたので、曲の解釈やら、当時の情景やらを簡単に説明する。それから少しピアノについて話して、切りが良くなったところでまた椿が「あ、そうだ」と思い出したように話題を振る。


「愛華さん、これ」


 そう言って椿がブレザーのポケットから出してきたのは、抹茶味の小さな四角いチョコレートだった。


「あ、それ…」


 それは以前、定期テストの勉強でD組を訪れた時。椿の席を借り、こっそりと机の中に入れておいたお菓子だった。


「これめっちゃはまっちゃってさー、うまいなーこのチョコ」


 椿はそれを愛華に手渡しながら、自分も口に放り込む。


「愛華さんでしょ?俺の机の中に入れてくれたの。この前も生チョコくれてたし」


「あ、うん。勝手にごめんね…喜んでもらえたなら良かった」 


「抹茶味のお菓子ってあんまり食べたことなかったんだけど、美味しいなー。結構好きかも」


 もぐもぐと美味しそうにチョコを食べる椿を見ながら、愛華は思った。


(このまま私のことも、好きになってくれたらいいのに…)


 お菓子みたいにうまくいかないことくらい分かっていても、やっぱりそう思わずにはいられなかった。


(楽しい。この時間が好き。椿くんと他愛のないお喋りをして、なんでもないことで笑って。私、やっぱり、)


「椿くんが好き」


「え…?」


「え?」


 二人して同じようにきょとんとした顔で見つめ合う。


(え…私、今なんて言った?椿くんが好き、って声に出しちゃってた?!)


 いつも心の中で椿が好きだ好きだと思っていたので、不意に気持ちと一緒に言葉が溢れてしまった。


 愛華の顔がみるみる青ざめて行くのとは反対に、椿の顔は少し朱色に染まっていた。


「えっと、…聞き間違い?」


「き、聞き間違いで…」


 聞き間違いです!そう言いたかったけれど、愛華はもうこの際だと言わんばかりに開き直ってしまった。


「は、ないです!」


「え」


「私、ずっと椿くんのことが好きだったの」


 言うつもりなどなかった。椿にとっては迷惑になるだけなのだから。この気持ちは愛華の中で、ゆっくりと落ち着かせるはずだったのに。


 けれど、一度溢れてしまった気持ちはとめどなく溢れてくる。


「ずっと音楽室から見てた。グラウンドで走るあなたを。駅で助けてもらうよりも、ずっと前から…」


 椿にとって愛華を知るきっかけとなったのは、ホームから落ちそうになった愛華を助けた時だろう。しかし愛華はその前からずっと椿を知っていたし、ずっと彼の練習を見てきた。


「走る姿が素敵でずっと憧れてた。私もあんな風に楽しく頑張りたいって、ピアノでうまくいかない時があっても、いつも椿くんに励まされてたんだよ」


 愛華にとってそれは大きなことだった。ずっと孤独であった闘いが、椿と一緒なら頑張れるような気がしたから。


「これからも、ずっと好きです!」


 愛華はそうはっきりと口にした。してしまった。


(言うつもりなんてなかったのに…こんな、勢い任せに……)


 愛華は恐る恐る椿の顔色を窺う。心臓が飛び出しそうだった。椿にも聞こえているのではないかと思う程に胸は高鳴って、息も苦しい。


 椿は照れたように頬を掻きつつも、案の定少し困ったような顔をした。


(……ああ、きっと美音ちゃんの話をするんだろうな…)


 愛華は瞬時にそう思った。当然だ。椿は美音が好きなのだから。


 椿は拳をぎゅっと握りしめると、愛華の目をしっかりと見つめて言葉を紡ぐ。


「ありがとう、愛華さん。俺、女の子に告白されるのって初めてで、すげー嬉しかった」


「え!?嘘でしょ?!」


 椿の言葉があまりに衝撃的で、愛華はつい口を挟んでしまった。


「いや、嘘じゃないし」


「だって椿くんこんなにかっこよくて、優しいのに!モテまくりだと思ってたよ!?」


 愛華の言葉に、また椿は少し顔を赤くした。


「いやいや、別にそんなかっこいいことないだろ。モテまくりってなんだよ、一度もないわ」


「そんな、馬鹿な…」


 椿の発言の衝撃力が強く、愛華は目をぱちくりさせてしまう。


 愛華にとってはもちろん誰よりも椿がかっこいいし、優しくて素敵な男子なのである。


 でももしかして…と愛華ははたと思い当る。


(椿くんが美音ちゃんのことを好きなの、周りも気付いていたりする?だから誰も椿くんに告白しなかったのでは…?)


 少なくとも藤宮はとっくに気が付いていたようだし、素直すぎる椿のことだ、周りにバレバレだったのではないだろうか。


「いや、そんなことはどうでもいいんだけど…」と照れくさそうに話を戻す椿は愛華にとってはやっぱりかっこよかった。


「俺、好きな人がいてさ」


「あ、うん…」


 美音のことだ。その話は嫌というほど知っている。この耳で直接聞いたのだから。


「俺、ずっと幼なじみの美音のことが好きだったんだ」


「うん…」


「でも、…この前フラれた」


「え?」


「告白したんだ。バレンタインデーに。でも、フラれた。家族みたいにしか考えられないんだと」


「そ、そっか…」


 なんと言葉を掛けていいか分からなかった。


 椿も愛華と同じように、失恋して、その痛みを知っていたのだ。