私の好きな人には、好きな人がいます


「だから、ごめん…。私、水原くんとは付き合えないの」


 覚悟を決めてきたはずなのに、どうしても胸が痛む。失恋の痛みは、愛華が一番よく分かっていたから。


 愛華の言葉に口を挟むことなく、水原は最後まで静かに聞いていた。


「愛華」


「うん」


「愛華のことだから、悩んでくれたのだろう。ありがとう」


「うん…」


「でも、その決断は愚かだと思う。どうせ叶いもしない恋にいつまでも執着しているなんて、馬鹿馬鹿しいと思う」


 水原の言葉はもっともだ。愛華だって本当は分かっている。それなのに、結局未練がましく椿を追いかけてしまう。


 水原は浅くため息をつく。


「ま、愛華は諦められないだろうと思っていたけどな」


「え…?」


「その椿とかいう男のことが相当に好きらしいことはよく分かっていた。だってある時から愛華の演奏は、見違える程に変わったのだから」


 水原の言葉に、愛華は目を瞬かせる。


「恋をして変わったんだろう。きっと、その恋は愛華にとっていいものだったんだ」


「水原くん…」


「ま、今度また恋愛云々で泣き喚いても、もう胸は貸さないからな。俺を振ったんだ。自分でなんとかしてくれ」


「うん、分かってる」


 水原はいつものように淡々としていたけれど、愛華には彼がどことなく悲しそうな笑みを浮かべているように感じた。


 水原から貰った温かい気持ちを、愛華は心に大事にしまった。


「次のコンクールこそ、愛華と競い合えるのを楽しみにしている」


「うん!絶対に負けないから」


 愛華と水原は笑い合った。


 きっとこれからも愛華と水原は、ライバルとして切磋琢磨していく。


 
 高校三年生に進級するまで、もうあと二か月を切っていた。


 高校三年生になったらきっと忙しい。愛華もいよいよ進路をしっかり決めなくてはならない。


 きっと恋に全力でぶつかれるのは、今だけだ。



 愛華はまたコンクールに向けた練習を本格的に進めていった。


 愛華はここ数か月で、少し強くなったのではないかと自負している。


 椿に頼りきりだった昔の自分とは違う。


 失恋の痛みも、友人を失った悲しみも。きっと愛華の演奏の引き出しになってくれるだろう。


 無駄な経験なんて一つもない。


 そう、愛華は思えるようになってきた。


 時間が経っても、失恋の痛みはなかなか消えてくれない。それはまだ、愛華が椿のことを好きだから。


 けれど愛華の心は、前を向いていた。


 椿にこの気持ちを伝えることはないだろう。


 椿は美音のことが好きなのだから、愛華が気持ちを伝えたところで、結局断られるのが関の山だ。結末は分かり切っている。


 いっそ気持ちを伝えてしまって、踏ん切りをつけようかとも考えたが、椿にとっては迷惑になるだけだろう。


 そう考えると、この気持ちは言葉にはせず、愛華の胸にしまっておくしかない。


 愛華は椿への想いを無理に消そうとはせず、ただ時に身を委ねることにした。


 好きの気持ちは消そうと思ってもそう簡単に消せるものではない。ならば思い続けてもいいのではないだろうか。彼の迷惑にならないよう、ひっそりと。


 そうしているうちにもしかしたら、気持ちの整理もつくのかもしれない。


 愛華はそう結論付けた。


(決して叶うことのない、片想いに戻るだけ…)



 放課後はいつものように音楽室でピアノの練習をする。


 高校に入学してからずっと変わらない放課後の使い方だ。愛華にとって一日の中で一番安らげる時間であり、心地良い時間だ。


 愛華はいつもように音楽室のベランダに出て、グラウンドを見渡す。


 そこには変わらず椿がいて、一生懸命に部活動に打ち込んでいる。何本も走ってタイムを測定している。彼はずっと前を向いて走り続けている。


 そんな姿に愛華は心奪われたのだ。


 自分も彼のように目標に真剣に向き合いたい。彼に負けないようにピアノを頑張りたい。


 そしていつか、愛華と彼の世界が交わったら。


 その時は、彼に胸を張れる自分でいたい。


 そんな風に思っていた。


 その想いは、彼に恋し、失恋してしまった今も変わらない。


 愛華はピアノを弾き続ける。


 彼に恥じない自分でいるために。



 ピアノ教室のレッスン帰り。その日もいつかのように遅くなって、駅に到着する頃にはもう辺りは真っ暗だった。ちょうど電車も遅延していて、椿が助けてくれたあの日みたいだ、と愛華は思った。


(椿くんは私のこと、どう思ってたかなぁ。友達だって、思ってくれてたのかなぁ)


 愛華が思う椿としては、一度話したらもう友達だろ!、などと口にしそうである。


(もし私のこの気持ちを伝えていたら、何か変わったりしたのかなぁ…)


 きっと変わりはしなかっただろうことは十分理解しているのだが、ついとりとめもないことを考えてしまう。


 友達でいられなくなったとしても、愛華はきっとしばらく椿を思い続けるだろう。この気持ちを諦めることなんて、考えられない。結局行きつく先は同じなのだ。


 愛華は駅のホームの先頭に立って、少し辺りを見回す。


(今日もしまたここで出会えたら、私の運命の人は椿くん)


 遅延した電車のせいでいつもよりも長く立って待ちながら、愛華はそんな無意味な願掛けのようなことを考える。


 自分が彼の運命の相手でないことは分かっているのに。


 それでも愛華は、愛華の運命の人は椿だと思いたい。


(なんてね、今日はレッスンかなり遅くなっちゃったし、きっと会えるはずないよ)


 それからまた十分ほど電車を待って、遅れた電車が駅に到着するアナウンスが流れ始めた。 


 混んでるだろうなぁ、乗れるかな…そんなことをぼうっと考えていると、大きな警笛を鳴らして電車が駅のホームへと滑り込んでくる。


 その瞬間、愛華は誰かに思い切り突き飛ばされた。


 それはもう完全に突き飛ばされたと、愛華にもはっきりと感じるものだった。


 この前みたいに肩に誰かがぶつかったのかな、という程度のものでは決してなく、背中のど真ん中を思い切り、手のひらで押されたのが分かるほどの力強さだった。


 完全なる悪意を感じた。愛華のことが嫌いでいなくなってほしいと、力強く願う手だった。


 当然愛華は振り返ることなんてできずに、バランスを崩して線路に前のめりになる。右手から電車がぐんぐんと迫ってくる。


(なんだ、結局私は、こうやって死ぬ運命だったんだ)


 あの時たまたま椿が助けてくれただけ。椿のおかげで楽しい日々が送れたけれど、それはちょっとの神様の気まぐれだったのかもしれない。愛華の死は決まっていたのかもしれない。


 愛華は諦めに似た嘲笑を頬に浮かべて、静かに目を閉じた。


 電車が愛華に接触する、その寸前、愛華はまたお腹に衝撃を感じて後ろに引っ張られた。


 耳をつんざく様な警笛を鳴らしながら、目の前すれすれに電車が通過していく。


 いつか見た光景と全く同じ。過去に戻ったみたいだった。


「平気か!?」


 耳元に響く声に、愛華は泣きそうになった。


 聞き間違えるはずなんてない。ずっと好きで、ずっと聞きたいと思っていた声なのだから。


「…椿くん……」


 愛華の後ろには、愛華を支えたまま尻餅をついた椿がいて、その表情は心配というよりも、怒りの色に染まっているように見えた。


 震える声で「…平気だよ」と返事をすると、椿はいつかのように辺りをきょろきょろと確認して立ち上がった。そして椿からは聞いたこともない怒号のような声が響き渡る。


「おい!お前、自分が何をしたのか分かってんのか!?」


 椿は誰かに向かってそう怒鳴っていた。愛華もふらりと椿に駆け寄って、椿が腕を掴んでいる相手の顔を見た。


 それは愛華の良く知る女の子だった。


「麗良…ちゃん…?」


 そこにいたのは麗良だった。椿を睨みつけ、腕を振り解こうとしている。


「この子が愛華さんを突き飛ばしたんだ!この前も!」


「え…?」


「この前は俺の見間違いだと思って言わなかったけど、今回は絶対見間違いなんかじゃない。愛華さんを思いっきり突き飛ばしてたのを見たんだ」


 確かに今回は背中の真ん中に掌のような感触があった。やはりそれは愛華の勘違いではなかったのだ。


「離してっ!!!大事な腕なの!!!」


 麗良の声に、椿は思わず手を離してしまう。しかし麗良は逃げるようなことはせず、ただただ愛華を睨み付けていた。


「誰この人、超最悪。麗良の大切な腕なんだよ?ピアノ弾けなくなったらどうしてくれるわけ?」


 麗良の言葉に、椿の怒りはまた募ったようだった。


「あのなぁ!こっちは下手したら死んでたかもしれないんだぞ!?何考えてんだ!?」


「知らないし。邪魔なんだもん、愛華ちゃん。水原くんは相変わらず愛華ちゃんのことばっかり気にしてるし、愛華ちゃんなんて、いなくなっちゃえばよかったのに」


「麗良ちゃん…」


 麗良の気持ちは随分前に分かってはいたが、これほどまでに憎まれていたとは。


(麗良ちゃん…私が死んでもいいってくらい嫌いだったんだ……)


「愛華さん、警察に言った方がいいって」


 椿の言葉に、愛華はゆるゆると頭を振った。愛華はキッと麗良を見据えるとこう告げる。


「麗良ちゃん、ピアノで決着つけよう。次のコンクールで私が勝ったら、こういうことはもう止めて」


 愛華の提案に麗良はにっと笑った。


「いいよ?だって愛華ちゃん、絶対麗良には勝てないもん」


 麗良は余裕たっぷりの笑みを浮かべて去って行く。


 愛華はほっと息をつくと、緊張の糸が切れたように力が抜け、その場にぺたんと座り込んでしまう。


「愛華さん!?」


 椿が慌てて愛華を支えると、近くのホームベンチまで連れて行ってくれた。


「ありがとう、椿くん」


 隣に座った椿が不服そうに唇を尖らせる。


「いいのかよ、あの子放っておいて」


「うん…いいの。この決着は、自分でつけるから」


 愛華の強い眼差しに、椿は「…分かった」と渋々頷いてくれた。


 前回はボロボロで何もできなかったコンクール。今度は麗良に負けない演奏をしなくちゃいけない。


 愛華はそう、心に強く決めた。


「椿くん、また助けてもらっちゃったね」


「愛華さんが無事ならなんだっていいって」


 やっと張り詰めていた緊張が緩んだのか、椿もひと息をつきながら愛華の隣で伸びをした。


 その椿に向かって、愛華は言葉を選びながら真っ直ぐに彼の瞳を見つめた。


「椿くん、来週、音楽室に来てほしいの」


 瞬間きょとんとした椿は、「ああ!」と言って、ぽんと掌を打つ。


「俺がまた演奏聴かせて、って言ったやつ?」


「そう、来週来てもらえないかな?それまでに仕上げておくから」


「わかった、部活の後で少し遅くなっちゃうけど、寄れそうな日に連絡する」


「うん、待ってるね」


 愛華は決意を胸に秘める。この演奏が最後だ。椿と関わる最後の日になるのだ。


 愛華は失恋したその日から薄々考えていた。


 椿を好きな気持ちは変えられないし、きっとずっと彼を思い続けるだろう。


 けれど、椿と関わるのはもうやめよう、と。


(また遠くから眺めるだけの、憧れの人に戻るんだ)


 このまま一緒にいても辛いし、苦しくなるのだ。だったらまた以前の様に、こっそり椿を眺めて元気をもらう。彼と出会う前の関係に戻そうと思った。


 それが愛華の心にとっても、折り合いのつく丁度いい関係なのだ。


「…愛華さん、なんか変わった?」


「え?」


「なんつーか、雰囲気変わったような…?」


「そ、そうかな…」


 自分では全く分からない。けれど、そうかもしれない。


 椿を好きになって、この恋に未来はないと知って、友人関係も色々とあって。


 愛華は、ここ数か月、考え悩み抜いてきた。そして今、また前を向いて歩き出そうとしている。


(全部きっと椿くんのおかげなんだ。私は、あなたに恋してよかった)


 椿は不思議そうに首を傾げて、愛華の顔を見ていた。


 愛華は椿がいつもそうしているように、にっと笑いかけてみた。すると椿も同じように笑い返してくれる。


(この人の笑顔が、私の原動力だ)



 翌週の放課後。


 椿から、「今日、部活早く終われそうだから、終わったら音楽室行く!」とメッセージが届いた。メッセージを受け取った愛華は、OKのスタンプで返事をしてピアノの練習に励んだ。


 愛華なりにこの曲はもう自分のものにできている感覚があった。精度も十分に仕上げて来て、今日はそれを十二分に発揮するだけだ。



 最高の演奏をして、気持ちに一区切り付ける。


 そう決めてはいても、やはり寂しさは拭えない。


(椿くんと気軽に話せるのも、今日が最後なんだなぁ…)


 椿のことだから、廊下で擦れ違えば声を掛けてくれるかもしれない。もちろんそれには答えるつもりではあるが、彼の世界にはこれ以上踏み込むことは決してないだろう。


 二人きりで話すことも、今日がきっと最後だ。



 愛華は席を立ち、一階の昇降口前にある自動販売機まで緑茶を買いに行くことにした。


 少し行儀が悪いとは思いつつも、自動販売機の横で買ったばかりの緑茶に口を付ける。口の中も喉も、潤したそばから乾いていくようだった。


 そこにちょうど水原が通りかかる。


「あれ?水原くん、今帰り?珍しいね」


 水原は部活にも委員会にも所属しておらず、授業が終われば帰宅するかレッスン教室の空き教室に行くかの二択である。この時間まで学校に残っているのは珍しかった。


「進路の相談でちょっとな」


「あ、もうそういうの考えなきゃいけない時期か…」


 高校二年生ももうすぐ終わる。来月からは高校三年生。受験生になるのだ。今はまったくもって考えたくもないが。


「愛華はいつも通り音楽室で練習か?」


「うん」


「まあ、励めよ」


 水原は得意げに笑って、校舎を出て行く。


 今回のコンクールは彼に失望されることのないよう、もちろん彼より上を目指していくつもりだ。


「あ、愛華ちゃん!」


 水原と別れた直後、今度は美音と藤宮がやってきた。愛華は美音と藤宮の顔を交互に見てしまう。二人揃って下校するのだろうか。


「あ、美音ちゃん、バイバイ」と手を振る愛華に、美音はいつも通りの明るい笑顔で「バイバイ!」と手を振り返してくれた。藤宮は特に何も言わなかったが、彼はまあいつもそんな感じのようなので愛華は特段気にすることはなかった。


(美音ちゃんとは、ずっと友達でいたいなぁ)


 美音との関係は変わらずいられるだろうか。美音と椿が付き合うことになったとして、愛華の気持ちを知らない美音はきっと今までと変わらず接してくれるだろう。どちらかというと、それに愛華が耐えられるかどうか、なのかもしれない。


 緑茶をもう一口喉に流し込んで、愛華は音楽室へと戻った。