私の好きな人には、好きな人がいます



 昨日のことがあったので、今朝はさすがに少し電車が怖く、一番前に並ぶようなことはしなかった。真ん中より後ろに並んで乗車した。


 辺りを見回してみたが、椿の姿はないようだった。陸上部の朝練があるのだろうか。もしくはもう少し早く、あるいは遅く登校するのかもしれない。いつ頃登校しているのかも、今度こっそりチェックしたいところである。


 A組の教室に到着すると早々に水原がやってきて、朝っぱらから威圧的な瞳でこちらを見下ろしてきた。


「おい、愛華。メッセージの返事くらいしろ」


「今日会うんだからいいでしょ」


 水原は愛華に気を遣うようなことは全くないので、愛華も彼に気を回すことは決してない。するだけ体力と精神力の無駄である。


「今日も放課後、音楽室で練習するから」


「え!?なんで!?今日はレッスンがあるでしょ?その時でいいじゃない」


 愛華の一人で集中する時間を、いや椿を観察して癒される時間を邪魔されてしまう。愛華はぶーぶーと不平を漏らす。


「うるさい。そういうわけだから」


 水原は愛華の言葉などまるで訊く気がないようで、さらっと一蹴すると言いたいことだけ言ってさっさと自分の席に戻って行ってしまった。


 頬を膨らませながらやり場のない不満に愛華が悶々としていると、廊下からとある声が聞こえてきた。


「つばきーー!!はよーっす!」


 椿なんて男子ではなかなか珍しい名前だ。愛華は反射的に席を立ち、廊下を覗く。


 すると声を掛けられていた相手は、やっぱり愛華の想い人である三浦 椿だった。


「おう!おはよ!」と言いながらD組の教室に入っていく。


(はー…朝から見られるなんて…至福…)


 愛華が満足して廊下に出していた首を引っ込めようとすると、「何してるんだお前」と程近いところで声がして愛華は飛び上がった。


 声の主は先程別れたばかりの水原だった。


「何でもないし」と、さっきの傍若無人っぷりにまだ怒ってますよーアピールで返せば、「あっそ」とこれまた冷たい返事が返ってきた。


(この人みたいに気楽にコミュニケーションが取りたいわ)


 と少し皮肉交じりに思いながらも、授業の準備を進めるのだった。



 放課後。音楽室でのピアノのレッスンを早めに切り上げた愛華と水原は、通っている高校から程近いピアノ教室へと一緒に向かった。


 案の定今日もほとんど休憩がなかったので、グラウンドを覗く余裕などなかった。


(水原くんのケチ)


 愛華の不満そうな表情に、隣を歩く水原は不思議そうに首を傾げる。


「愛華は何でいつもそう不機嫌なんだ?」


(水原くんがいつも強引だからでしょうがっ…)


 そう本人に伝えたい気持ちはあれど、これから発表会で共闘する連弾相手である。喧嘩になるようなことがあってはならない。それに水原も悪気があってのことではない。彼は純粋にピアノに向き合っているにすぎないのだ。


(ただほんの少しでもピアノ以外に興味を持ってくれるだけでいいんだけどな…)


 水原はこの性格故に話す相手は愛華くらいのものだ。愛華だって、たまたまピアノ教室もクラスも一緒で、今回の発表会でペアというだけ。本来ならまず話したりしなかっただろう。


「別に不機嫌じゃないよ」


「そうか。まぁ機嫌なんてくだらない感情に左右されて、しょうもない演奏するなよ」


 私がむむっと思っているのはそういう言い方だよ!とは口が裂けても言えないのだった。



 ピアノ教室で先生に見てもらいながら、愛華と水原はみっちりと発表会の練習をした。


 性格などこれっぽっちも合わない二人ではあるが、演奏となると息はぴったりで、かなり完成度の高いものができたのではないかと思う。


 愛華も小さい頃から色んなコンクールで賞を取ってきたが、水原も相当賞を取ってきたはずだ。コンクール会場で見かけることはよくあったし、ピアノ教室も曜日は違えど、一緒のところに通っていた。特に意識したことはないが幼なじみであると言えなくもない二人だった。


「あー疲れた~」


 集中しすぎて凝り固まった肩を解しながら、ピアノ教室を後にしようと教材を鞄にまとめる。


「じゃ、水原くん、また学校で」


「ああ、お疲れ。今日の演奏は、まぁ悪くなかった」


 水原にしては何だか柔らかい表情でそんなことを言うものだから、愛華は目を丸くして彼の顔を見てしまった。つい余計なことを言ってしまう。


「水原くんがそんな風に褒めてくれるなんて珍しい…」


「いつも褒めてるだろ」


「え?いつ?どこで?誰が??」


 水原に褒められたことなど全く記憶にない。


「お前を認めてなかったら、俺の連弾相手に選んでない」


「え?」


 どういうことだろうか。連弾相手を決めたのは先生ではなかったのだろうか。


「それって水原くんが私を、」


 そう愛華が水原に問い質そうと口を開いた時、トン、と誰かと肩がぶつかった。


「あ、ごめんね!愛華ちゃん」


「あ、麗良(れいら)ちゃん!」


 麗良は、同じピアノ教室に通う同い年の女の子だ。学校は違うが、時たま顔を合わせることがある。


「ううん、全然大丈夫!麗良ちゃんもお疲れ様」


「お疲れ様~、水原くんとお話があるんだけど、いいかな?」


「あ、うんもちろん!私、もう帰るから」


 水原とは明日また学校で話せばいいことだ。何やら急ぎらしい麗良に場所を譲って、愛華はそそくさと家路を急ぐ。


(早く帰ってこのうまくいった感じを手に覚えさせておきたい)


 普段よりも少し帰りが遅くなってしまったけれど、まだまだ帰宅ラッシュの時間帯だ。今日も駅のホームは混雑していた。


 あまりに電車が混んでいたので、愛華は一本見送ることにした。愛華の後ろに並んでいる人達までぱんぱんの電車に乗り込んでいくと、必然的に愛華が一番前に並ぶことになってしまう。昨日の今日で線路の目の前に立つのは、やはり少し怖かった。


(…後ろに並び直そう)


 そう思ったところで、後ろから腕を掴まれた。


「え…?」


 振り返るとそこには、切羽詰まったような表情の椿がいて、愛華は目を見張る。


「え、三浦くん?」


 少し肩が上下していて、走って来たのが窺えた。しかし何故走って愛華の元へとやって来たのだろうか。


「あー、勝手に腕掴んでごめん」


 椿は慌てたように手を離す。女の子に慣れていないのか、触れることに躊躇いを持っているのか、椿はすぐに愛華から離れてしまう。


「だ、大丈夫だよ。それよりどうしたの、そんなに慌てて」


 椿に会えたことに相当舞い上がっている愛華だが、彼が慌てて来てくれたことも気になる。何かあったのだろうか。


「あ、いや、昨日の今日で心配になったというか…」


「え…?」


「柏崎さんは怖くないの?平気?」


「えっと、怖くないと言えばちょっと嘘になるけど、平気!です!」


「そう…」


 椿はほっと胸を撫でおろしながらも、どこか辺りにきょろきょろと視線を走らせ、何かに警戒しているようだった。


「とにかく、一番前に並ぶのは危ないから、後ろに並ぼう」


「あ、うん」



 四、五人後ろに並び直して、愛華は真横に並ぶ椿をちらりと見やる。


(うわぁ~また三浦くんと話せるなんて!今日はついてる!)


「え、えっと、三浦くんは部活終わり?」


「そう。いつもはもっと早いんだけど、今日はちょっと遅くまで練習してて」


「そっか」


 椿の走る姿を思い出して、またきっと楽しそうに走っていたんだろうなぁ、と妄想する。


「柏崎さんっていつもこの時間なの?」


 ピアノのレッスンがある日はいつもこの時間だ。放課後音楽室で練習して帰る時はもう少し早めに帰宅している。


「今日は習い事があったから」


「…あのさ、もっと早く帰れない?えっと、女の子が一人で帰るのは危ないと思うし」


(なんて優しい人…!)


 愛華は椿の紳士的な発言に感動する。


 こんな風に心配してくれる同級生がいるだろうか。いや、きっといない!音楽室のベランダから遠目でしか見ていなかったけれど、間近で見てみるとかなり顔立ちは整っているし、THE運動部の爽やかさがある。ねちねちと欠点ばかりを指摘してくる仏頂面の水原とは大違いだ。まぁ、今日は珍しく褒めてくれてはいたが。


 愛華が感動しながら椿の顔を見つめていると、椿は居心地悪そうに視線を外した。


「まぁ、余計なお世話かもしれないけど…」


「ううん!そんなことない!心配してくれてありがとう」


 にこにこ笑う愛華をどう思ったのか、椿は少し照れくさそうに頬を掻いた。


「そうだ、お礼!」


 昨日の今日ですぐに会えると思っていなかったため、昨日助けてもらったお礼の品を、愛華はまだ用意していなかった。


「何か用意して、持って行くね」


「いやほんと気遣わなくていいから。柏崎さんが無事ならそれでいいんだしさ」


「ううん!命の恩人だもの!絶対に何か考えるから!」


 張り切る愛華に、少し困ったように「ありがと」と言って笑顔を見せる椿。その表情にまたきゅんとしてしまう。


(お礼の品どうしよう!何か喜んでもらえるものがいいな)


 愛華はまたうきうき気分で帰宅するのであった。



 あの日から数日経って、愛華は椿へのお礼のプレゼントを用意した。


 迷惑になっても申し訳ないので、実用性を重視してスポーツタオルを用意した。これなら部活動でも使えるし、気に入らなかったら雑巾にしてもらっても構わない。椿がそんなことをするとはもちろん思えないが、これなら迷惑にはならないのではないかと考えた。あとはおまけにちょっとしたお菓子も入れて、一緒に紙袋に詰めた。



 昼休みも少し経って、皆が昼食を終えゆっくりする頃。


 愛華は小さな紙袋を持ってD組に向かった。


 自分の教室以外に行くことは滅多になく、知っている友人もいないので何だか緊張する。どう声を掛けるべきなのだろうか。


 廊下からD組の教室を少し覗いてみると、窓際で楽しそうにお喋りをする椿の姿を見付けた。仲良しの男子グループだろうか、三、四人が集まっている。


(声を掛けたい!けど、今すごく盛り上がっていて楽しそう…)


 愛華が声を掛けるタイミングを見計らっていると、その男子グループに一人の女子生徒がやってきた。椿に声を掛けると、ノートを差し出す。椿は頭を下げながらノートを受け取っていた。申し訳なさそうにしているが、何だか嬉しそうでもある。


(あの子、誰だろう?)


 D組の子なのであろうが、やたらと椿と親しそうである。ふわふわの髪は胸元でくるんとなっていて、ベージュのカーディガンに膝より少し短めのスカート。愛華からすると、とても垢抜けている感じがした。


「誰かに用事か?」


 後ろから急に低い声がして、びっくりしながらも愛華は恐る恐る振り返る。


 そこには背の高い見たことのない男子生徒が立っていた。八クラスもあれば当然見たことのない人もいるだろうが、こんなに容姿が整っていて涼やかな目元をしているのだ、女子から相当モテそうなものだ。A組でも噂になっていてもおかしくないはずだが。


(あ、もしかして春に来た転入生の人かな)


 二年生に進級した頃、どこかのクラスに転入生が入ったと聞いたことがあった。もしかしたら彼が件の転入生なのかもしれない。


 愛華の視線の先を追った彼は、窓際にいる椿達を確認する。


「誰?佐藤?」


「え?」


 佐藤さんがどの方か全く存じ上げない。きょとんとしてしまった愛華に、彼は次の候補を挙げる。


「三浦か?」


 その名前にドキッとしてしまい、肩を揺らしてしまった愛華を彼は見逃さなかった。


「呼んでくるけど」


「あ!いえ!出直します!!」


 何故か渡す勇気が引っ込んでしまった愛華は、彼に一礼すると慌ててA組へと引き返した。



「はぁ、渡せなかった…」


 昼休みはよくなかった、とクラスに戻った愛華は反省する。


(三浦くん、絶対友達多そうだもん。周りに人がいるのを考えてなかった…)


 あの男子達の中に入っていって、「これ、この前のお礼です」なんて渡せる度胸は、愛華は持ち合わせていなかった。


 コンクールで大勢の前や審査員の前でピアノを弾くことには慣れてはいても、想いを寄せる男子のこととなると、こと愛華はただの女子高生である。恥ずかしいに決まっている。


(部活終わりとかどうかな、帰りに待ってたら会えるかな…)


 放課後、もう一度チャレンジしてみようと心に決め、お礼の品を廊下にある自分のロッカーにしまうことにした。


 ロッカーを閉め、鍵をしたところで、「おい」と声を掛けられる。


 顔を上げると、やっぱり仏頂面の水原が立っていた。


「水原くん。なに?」


「今日の放課後、レッスン室借りられることになったから、音楽室には行かない。個人課題の練習もそろそろ進めなくちゃいけないから」


「あ、うん、そうなんだ」


 愛華は心の中でガッツポーズをする。


(よっし!今日は放課後音楽室に一人だ!)


 元々音楽室のピアノを使っていたのは愛華だった。それをここ最近急に参加してきては、愛華のピアノにあれこれ勝手に言ってきたのは水原だ。愛華としては彼がいない方が練習に集中できるし、何より休憩中に陸上部の練習が見られる。嬉しい限りだった。


 そんな気持ちが表情にも出てしまっていたのか、水原は眉間に皺を寄せる。


「おい、俺がいなくて喜んでないか?」


「いやいやそんなことないよ?!」


「俺が見てないからって中途半端な練習してたら、」


「ちゃんと真面目に練習してるしっ」


「大体愛華は、」と水原のお小言が始まり少しうんざりしていると、廊下に賑やかな声が聞こえてきた。どうやらどこかのクラスが五限目は移動教室らしい。教科書やノートを持った生徒達が階段を降りて行く。


 水原のお小言を聞き流しながらそれをなんとはなしに眺めていると、先程D組に行った際に声を掛けてくれた転入生の男子生徒を見付けた。


(ということは、移動教室はD組かな!?)


 愛華は椿が通るのではないかと目を凝らす。


 そこに転入生の男子生徒に慌てて駆け寄る、一人の女子生徒がいた。それは先程椿に声を掛けていた髪がふわふわした女子生徒だった。


 二人が愛華達のすぐ傍の階段を降りて行く。


藤宮(ふじみや)くん、待って!私も行く!」


 転入生の男子生徒は藤宮という名前らしい。藤宮は女子生徒を一瞥し、そのまま階段を降りて行く。随分冷たい態度である。


 そこにようやく愛華の待ちわびた声が聞こえた。


「おーい!美音(みお)!藤宮!おいて行くなよー!」


(あ!三浦くんだ!)


 美音と呼ばれたふわふわの女子生徒は、椿を笑顔で待っている。


(めちゃめちゃ可愛い子だ…!)


 ちょうどこちらに顔が見えるように立ち止った美音からは、優しそうで天然そうなほわほわとした雰囲気を感じた。


「ごめんね、椿」と言いながら椿が横に並ぶのを待っている。


(お、お互い下の名前で呼ぶのね…!)


 今時下の名前で呼ぶことなど、男女関係なくしていることだとは思うが、愛華にとってはハードルが高く、特別な呼び方だと思っている。親しくないとまずできないだろう。


 美音の横に並んだ椿が、ふとこちらに視線を向けた。もしかしたら愛華がじーっと見ていたせいで視線を感じたのかもしれない。


「っ!」


 急に目が合って驚く愛華に、椿はにっと笑って手を振った。愛華もそれに倣って慌てて手を振り返す。


 それだけのことで、愛華の胸はいっぱいになる。


(これがきゅんとするってことなのね…!)


 愛華は心地よくとくとくと動く心臓に手を当てながら、手を振って笑ってくれた椿を脳内再生する。


(嬉しい、嬉しすぎる…午後も頑張れる…)


 しみじみと感動している横で、「おい、聞いているのか?」と不機嫌そうに尋ねてくる水原に愛華はくるっと向き直る。


「水原くん!私、今日めっちゃがんばる!!」


「え?あ、おう…いつもその調子で頼む…?」


 急にやる気を漲らせた愛華に拍子抜けする水原。愛華は放課後に向け、更に気合を入れるのだった。



 放課後のピアノ練習は、それはそれはもう捗った。


 昼休みの椿とのやり取りを思い出したり、適度に休憩を入れ、陸上部の椿の練習を見たり。やはり集中力の秘訣は適度な休憩と、好きな人の供給だと愛華は再確認した。


 連弾曲もそうだが、今日は自分のコンクール曲の練習にも熱が入った。もし椿が見に来てくれたら…そんな想像をしながら、会場にいる気持ちで演奏をする。


 愛華の課題曲は、フランツ・リスト作曲の「愛の夢 第三番」だ。もともと歌曲として作られた曲を、ピアノの独奏として編曲されたものである。ピアノの独奏はとてもしっとりとした調べであるが、なかなか情熱的な愛の歌詞が付いていたようだ。


 今の愛華にはとてもぴったりの曲だと思っている。


 恋をするとやはり演奏も変わるようで、ここのところレッスンでは先生に褒められることが多かった。


(私、いつからこんなに三浦くんのこと好きになっちゃったんだろう…?)


 始めはただ楽しそうに部活動をする姿が素敵だな、と思っただけだった。それがいつしか彼への興味に変わり、彼をもっと知りたい、彼に近付きたい、彼の見ている世界を一緒に見たいとまで思うようになってしまった。


(三浦くんが魅力的な人すぎるのがいけないんだよ)


 明るくていつも楽しそうで、見知らぬ愛華を助けてくれるほど勇敢で優しい。昨日だって椿は愛華のことを心配して声を掛けてくれた。先程も気が付いて手を振ってくれたのだ。


(こんなの誰だって好きになっちゃうよね!?)


 しばらく椿を想いながら真面目にピアノの練習をしていた愛華だったが、はっとして手を止めた。


「あ!今日は早めに終わらせて昇降口で待つつもりだったのに…!」


 時計を見て慌てて立ち上がった愛華は、勢いそのままにベランダに出る。どの部活動も片付けに入っていて、しかし陸上部の姿はもうないようだった。


「もう帰っちゃったかな…」


 はぁ、と重苦しいため息をついた愛華は、またピアノの前へと戻ってくる。


(お礼、また渡しそびれちゃった…)


 仕方ないまたにしようと、もう一曲弾いて帰ることにした。


 「愛の夢 第三番」のピアノの独奏は、この夕暮れに聴くのにとてもしっくりくるような気がする。そんなことを思いながら、夕焼けのオレンジが眩しく教室に反射する中、鍵盤から指を離した。


 するとどこからともなく拍手が聞こえてくる。


 愛華はびっくりしてピアノの影からドアの方へと顔を出した。


「柏崎さん、すげーな!ピアノ弾けるんだ」


「み、三浦くんっ!?」


 そこにいたのは制服姿の椿だった。部活を終え、ジャージから制服に着替えてきたのだろうが、どうしてこんなところにいるのだろうか。


「ど、どうしてここに?」


「部活終わりに教室に寄って、そしたらなんかピアノの音が聞こえてさ、それがあまりに綺麗だったから見に来てみた」


 「弾いてたの、柏崎さんだったんだな」と言って椿はいつものように笑顔を浮かべる。


(こ、こんな…最後の疲れた演奏を聴かせてしまったぁ…)


 愛華は恥ずかしさと照れがない交ぜになり、頬を赤く染めた。もちろん、椿が綺麗な音と言ってくれたことにも嬉しくて飛び上がりたい気持ちでもあった。


「習い事って、ピアノだったんだ?」


「う、うん!」


 この前習い事で帰りが遅くなったと話したことを、椿は覚えてくれていた。そんな些細なことが愛華には喜ばしい。


「あ、あ!三浦くん!」


 愛華は慌てて立ち上がり、ピアノの足元に置いていた小さな紙袋を手に取る。それを椿の目の前へと差し出した。


 椿はきょとんと不思議そうに首を傾ける。


「あ、ああのこれ!」


「ん?」


「この前、助けてくれたお礼!」


「え!気にしなくていいって言ったのに」


「迷惑だったら捨ててもいいので!!」


「そんなことしないって。わざわざありがとう、柏崎さん」


 椿に間近で笑顔を向けられ、「えへえへ」と奇妙な笑いを零してしまう愛華。


「開けていい?」と愛華に許可を取りつつ、すでに紙袋に手を突っ込む椿。


「あ、うん!もちろん」


 タオルを取り出した椿は、「おーめっちゃ部活で使えそう!俺、陸上部入っててさ、タオル結構使うんだ。すげー嬉しい!」と喜んでくれた。


 陸上部に所属してらっしゃることは存じております…と思いながらも微笑みを返す愛華。


 次いで一緒に入っていたお菓子も、椿は「腹減ってるから今食べちゃお」と言って美味しそうに頬張っていた。


(喜んでもらえてよかった!)


 お菓子を食べ終えた椿は、「あ、そうだ」と言って愛華に向き直った。


「俺もう帰るけど、柏崎さん一緒に帰る?」


「へ…?」


 椿からのお誘いに、愛華の思考は暫し停止してしまう。しかし思考が停止しているとて、口からは反射的に何の迷いもなくすらっと言葉が飛び出していた。


「一緒に帰ります!」



(男女が一緒に帰ることって、普通のことなの?そんな気軽に誘ってもらえるものなの?)


 隣を歩いている椿を横目でちらりと見ながら、愛華は推理をする探偵のように顎に手を当てて考えてみる。


(三浦くんはきっと男女共に友人が多い。だから友人が女子であろうが気兼ねなく誘える…もしくはかなり女の子慣れをしていて、女子と帰るのなんて当たり前、とか?)


 前者であってほしい。後者の椿など考えたくもないが、あり得る…だろうか…。


 愛華は高校二年生になるまで恋をしたことがなく、ずっとピアノ漬けの毎日だった。もちろん男子と遊んだことなど一度もない。水原のようにピアノ教室にも男子はいたから、特段苦手というわけではないが、ピアノの話題以外をほとんど話さないので、男子はどんな話をしたら楽しいのかはよく分からなかった。


(三浦くんって、どんなものが好きなんだろう。どんな話をしたら楽しんでくれるのかな)


 愛華が悩んでいるうちにも、椿が次々に話題を振ってくれる。


 音楽科ってどんな授業すんの?普通科と結構違うの?、ピアノ楽しい?いつから習ってるの?、数学の先生うちのクラスと一緒かな、あの先生さ、など、椿にとってはこの場繋ぎの他愛無い質問なのかもしれないが、愛華にとっては自分に興味を持ってくれているようですごく嬉しかった。仲良くなろうと思ってくれていたら更に嬉しい。


 愛華はふと、今日の昼休みの廊下での出来事を思い出した。


「あの、三浦くん」


「なに?柏崎さん」


 あの時椿は友人?の女の子のことを名前で呼んでいた。誰にだってそうかは分からないが、愛華はおずおずと切り出してみた。


「その、柏崎さん、って、ちょっと言いにくくない?もし三浦くんが抵抗ないなら、愛華って呼んでくれると嬉しいんだけど…」


「え…」


 椿は一瞬思案して、少し困ったように眉を下げる。やはり迷惑だったのだろうか。


「あ、ご、ごめん!無理にとは…」


 愛華が申し訳なく思っていると、「あんまり女の子のことは呼び捨てで呼んだりはしないんだけど…」と言って、少し照れくさそうに愛華を見る。


「愛華、…さん。でもいい?」


 愛華さん…愛華さん…愛華さん……。


 椿が呼んでくれた自分の名前を、愛華は噛みしめるように反芻する。


「ありがとう!ぜひそう呼んでください!」


 愛華の前のめりな反応にほっとした様子を見せた椿は、「俺のことも椿でいいから。みんなそう呼ぶし」と言ってくれた。


(つ、椿、くん…!)


 男子のことを下の名前で呼ぶなんて、初めてのことだった。


「うん!椿くん!」


 愛華は溢れんばかりの笑顔で椿の横を歩く。


(初めての恋は、すごく幸せな恋だ)


 そう愛華は温かい気持ちに包まれていた。