シュゼットは王妃だ。
 エリックの手を取れば、アンドレを裏切ることになる。

 国王を謀るのはこの国では重罪だ。
 明るみになれば、シュゼットだけでなくエリックも処罰されてしまう。

 才能ある美しいエリック・ダーエという小説家が悪の道に落ちる。
 それはシュゼットにとって、籠の鳥のように自由のない宮殿にとどまって、アンドレに愛されず、ミランダにいびられ続けることよりも恐ろしかった。

「……ありがたいお申し出ですが、離婚はできません」

 シュゼットは腕を下ろして、硬い口調で言い放った。

「俺が嫌いなのか?」

 受け入れられると思っていたエリックは狼狽した。
 それすらも愛おしくて、シュゼットの目じりに涙が浮かぶ。

「いいえ。ダーエ先生が大好きだからです。あなたは私の心の支えだったんです。先生の小説から大切なことをたくさん教えてもらいました」

 胸をときめかせる恋も。
 身を滅ぼすほどの愛も。
 自由のための戦いも。
 命の儚さも。

 エリックの目を通すと、世界はあんなにも美しいのだろう。
 生まれてこの方、虐げられて歪に育ったシュゼットがそばにいたら、彼の心まで汚してしまう。

「先生にはこのままでいてほしいんです。私には手の届かないところで、輝いていてほしいんです……」

 顔を背けると、エリックは体を起こした。

「俺は、諦めない」

 頑なな調子でそう言って、エリックは雨粒のついた鞄を漁った。
 取り出されたのは分厚い紙袋だ。

「それは何ですか?」
「今書いている作品の原稿だ。普段は、完成するまで誰にも見せない。だが、君になら見せられる」

 これがエリックの誠意だと気づいたシュゼットは、両手で受け取って胸に抱いた。

「ありがとうございます。読んだらすぐにお返しします。宮廷録も早く見つけられるように祈っていてください」

 もう一度だけなら会ってもいい。
 そう思っての返事に、エリックはほっとした顔で微笑んだ。

「ありがとう、シシィ」

 自分ではない名前を呼んでくれたエリックに、シュゼットは微笑む。

 この人と愛し合えたら、どれだけ幸せなのだろうと考えながら。