――夜二十二時頃。
ぽつりぽつりと街灯の光を浴びながらバイト先から星河と一緒に帰宅していると、私は急にあることを思い出した。それが脳内に染み渡った瞬間、冷水でも浴びたかのようにサーッと血の気が引いていく。
「どどど、どうしよう……。すっかり忘れてたぁ!!」
「何だよ、いきなり」
「学校の机に明日提出の英語の宿題のプリントを入れっぱなしにしたままだった……」
「……またかよ。二日前の授業中に配布されたものだろ。もう、これで何度目?」
私は呆れ顔でそう言われるくらい忘れ物の常習犯だ。
宿題を忘れる度に星河の家にお邪魔して書き写させてもらっている。忘れた回数を手で数えると、片手の指がすべて折れるほど。しかも、今年だけで。危機感がないのは、星河が隣の家に住んでいるせいかもしれない。
「ねねっ! もうマンション前だし、星河の家に寄ってもいい?」
「はあぁっ?! 無理。今から学校に取りに行けよ」
「二十二時過ぎてるのに開いてるわけないでしょ! お願いっっ!! 問題だけでも書き写させて!」
宿題の提出期限は明日。つまり、今日中に仕上げなければならない。
だから、念の為に両手を合わせてお願いをした。特に英語のテストの点数はピンチだったから提出物で点数稼ぎをしたいところ。
しかし、彼は不服そうな目を向ける。
「あのさ……。いつも気軽に寄ってくけど間違ってない? 俺も一応男なんだけど」
「あははっ、やだぁ!! 急に男とか言っちゃって。私たちはただの幼なじみでしょ! お・さ・な・な・じ・み!」
「なんだよ、それ……」
「星河しか頼る人がいないの。だ〜か〜ら〜、お願いっっ!」
「絶対に無理」
「そこをどうにか!!」
私は両手を高々と上げて頭を下げると、彼は根負けしたのか口篭らせながら呟いた。
「ばーか。鈍感……」
「えっ、何か言った?」
「……別に。仕方ねぇな、二十分だけね」
星河はマンションのエントランスのインターフォンを押した後、スピーカー越しの母親に「まひろが寄ってくよ」と告げた。
彼の部屋は六畳で私の部屋と同じ作りになっている。
勉強机の隣には本棚があって、そこにはボロボロになったお菓子の本が詰め込まれている。小さい頃は小遣い代わりにお菓子の本を買ってもらっていたとか。
星河は背負っていた黒いリュックを床に下ろして机に向かうと、積み重ねてあるノートの隙間からクリアファイルを取り出して私にプリントを向けた。私は「ありがと」と言ってプリントを受け取って眺める。
「うわぁ、もう宿題終わってる! さっすがぁ!」
「当たり前だろ。だからって、ズルして答えを書き写すなよ」
「えっ、どうしてわかったの?」
「〜〜〜〜っっ!! やっぱりそのつもりだったか。ズルしたら自分の為にならないだろ。隣で見張ってるから問題だけ書けよ。問題だけ!! いいな! いま昨日焼いたマフィン持ってくるからさっさと終わらせろよ」
「うわぁ〜い! 久しぶりの手作りスイーツ嬉しい。最近全然持ってきてくれないんだもん」
「……食べたかったら自分で作れよ。机使ってていいから早く書き写して自分ちに帰れよ」
「はぁい」
机で黙々とプリントの内容をノートに書き写してから暫くすると、星河はマフィンと紅茶をトレーに乗せて部屋に戻ってきた。
「ちょっと休憩しない?」
「待ってましたぁ〜! 私、そのマフィン大好き」
「だと思って、お土産分を個包装にして紙袋に入れといたから」
「お土産まで嬉しい! ありがとう」
星河が床にトレーと紙袋を置いてから、私は回転椅子を降りて床に腰を下ろした。
早速お皿に乗ったマフィンを手にとって大きな口を開けて放り込む。「うわぁ、やっぱ最高だよね」と言いながらもぐもぐ食べていると、星河は私にスマホを向けてパシャっとシャッター音を鳴らした。
「あははっ、相変わらずすっげぇ食いっぷり」
「……ねぇ、どうして食べてる写真を撮るのよ。許可してないんだけど」
「だって美味そうに食ってたから」
「ダメダメ! その画像を今すぐ消して。もしかして、大口開けてるところをクラスの誰かに見せようとしてない? 笑い者になる気なんてないんだけど」
ムキになって星河のスマホを奪おうとして手を伸ばした。しかし、彼はスマホが届かぬように立ち上がってスマホを掲げると意地悪を言った。だから私も負けじと立ち上がって、星河の正面からスマホへと手を伸ばす。
「どうして? めっちゃいい顔してるよ」
「無理! どこが『めっちゃいい顔』よ。星河には女心ってもんがわからないの?」
「女心? この画像に女心が思いっきりにじみ出てるじゃん」
「バカバカ!! 何言ってるの? ホント無理なんだけど……」
私の手が届かないようにスマホを右に左にと大振りで揺する星河。歳を重ねる毎に意地悪になってる気がする。私も負けじと手をグイッと伸ばすと、ようやく星河の手のひらに指が届いた。
――しかし、最も顔が接近した瞬間……。
胸がドキンと音を立てた。
次に顔が熱くなっていくのがわかって、そのままくるりと背中を向けた。
「ふっ、ふざけないで! 早くその画像消してよ……」
最近、私は変だ。
手作りスイーツを貰えなくなってから星河の心境を知りたがっている。
それに加えて、不意に体の一部が触れたり、今みたいに小さなことでも過剰反応している。もしかしたら、星河に彼女が出来たことが原因なのかな。
すると、彼は背中越しに言った。
「もしかして、ドキドキしちゃった?」
「んな訳ないでしょ! あんたなんて意識してない。勘違いしないで」
「はぁあ? 俺だって意識してねぇし」
「当たり前でしょ!! あんたには櫻坂さんという彼女いるんだから……」
刺々しい態度でそう言うと、彼はドカッと床に腰を落としてベッドに背中をもたれかからせてスマホをいじりながら不機嫌に言った。
「そーそー……。俺にはかわいい彼女がいるの。だから最初に断ったのに。早く書き写して帰ってくれない?」
「わかってるよ。さっさと書き写しますよ。べーーっだ!!」
憎まれ口で返答すると、再び学習机のイスに腰を下ろして再びプリントの内容をノートへ書き写した。
私ったらかわいくないな。無理を言って家に上がり込んでプリントを書き写させてもらっている立場なのに。しかも、彼女を盾にするなんて卑怯だよね。
でも、久しぶりに顔を接近させたら、なんか調子が狂っちゃったよ。
――無言が続いた、十数分後。
私はシャープペンを置いて、腕をぐんと大きく上げて背伸びをした。
「はぁああ〜っ、ようやく完成!! 長かったぁ〜! ……ねぇ、星河。書き写し終わったよ。プリントありが……」
学習イスを回転させながら背後に目を向けると、先ほどまでスマホを操作していた星河はベッドサイドにクタッと頭を乗せたまま眠っていた。待ちくたびれてしまったのだろうか。
「ありゃりゃ、バイト後だから疲れちゃったのかな。……もう、しょうがないなぁ。寝顔だけはかわいいんだから」
ふぅとため息をついてから立ち上がって、ベッドの上から布団を取って体にかぶせた。すると、目をつぶったままの星河の口が動き始める。
「まひろ……」
「えっ、なぁに?」
よく聞こえなかったから耳を近づけた。しかし、返事は返ってこない。寝言だと思って離れてからカバンにノートと筆箱を入れてると、再び声がした。
「まひろ……、小さい頃からずっとす……」
「えっ? 『小さい頃からずっとす』?」
確認の為に聞き返してみたけど、次に聞こえてきたのはスースーという寝息。一瞬目が覚めたかなと思ったけど錯覚だったかな。
……でも、何て言おうとしてたんだろう。さっきはマフィンを持って来たから『小さい頃からずっとスイーツが好きだよな』とか?
随分久しぶりに星河の寝顔を見た。
長いまつ毛に無防備な体。最近、少し大人になった。学校では櫻坂さんがつきっきりだから、こんなに接近するのは本当に久しぶり。ぷっくりとしていたほっぺはどこへ行ったのかな。
「出会った頃はあんなに泣き虫だったのにね。今じゃ生意気な口しか叩かないんだから。……あれっ、前髪に糸くずがついてる」
私は右手を伸ばして前髪についている糸くずに触れると、彼は何かを感じ取ったのか、突然目を開けてパッと私の手首を掴んだ。
「ちょっ!! 何してんの……?」
「えっ!! ……ええぇっとぉ……、前髪についてる糸くずを取ろうとしてただけで」
何にもやましいことはしてないのに、しどろもどろな返事に加えて黒目が左右に揺れる。
それだけならまだしも、何故か心臓がバクバクと暴れている。さっき星河が変なことを言ったから意識しちゃったのかな。
「…………あの……さ、そんなに近づかれるとフツーに無理」
「へっ?!」
「……プリント書き写し終えたなら帰って」
「えっ、あっ、…………うん。じゃあ、帰るね。プリント見せてくれてありがとう」
星河はスクッと立ち上がってから背中を向けたけど、耳まで真っ赤になっている。その様子を見た途端、なぜか私まで恥ずかしくなった。
微妙な空気になってしまったので、荷物を手早くまとめて部屋を出た。
私達は幼なじみだから、恥ずかしくなる要素なんて一つもないはずなのにね……。