「よし。準備完了」

 そう言ってニコッと微笑まれるだけで心臓がまたひとつ跳ね上がるのだから、私は相当重症だ。
 だけどそれは私だけではなく、ここにいる女性客のほとんどが私と同じように彼に魅了されているだろう。

「よろしくお願いします」
「大丈夫。今日も超絶かわいく仕上げるからね」

 なにも心配などしていない。彼の手にかかれば地味な私でも魔法がかかったように変身できると知っているから。
 彼が私のセミロングの髪を小分けにしながら慣れた手つきでカラー剤を施していく。
 ていねいなのに速くて、いつもあっという間に完了してしまう。もっともっと間近で彼を見ていたいのに。

 カラー剤を塗布したまま時間を置いているあいだも、快永さんは私の二席隣にいる予約客の髪をカットしていた。
 多くの予約に対応するためには、そうやって少しの時間も無駄にせず詰めこまないといけないみたいだ。

 丸いスツールに腰をかけてテキパキとハサミを動かす手さばきが本当にカッコいい。
 ものすごい速さで切っているのに、女性客とのコミュニケーションも忘れずに会話を交わしつつ笑っている。
 女性のほうは当然のごとく恍惚とした表情になっていて、うれしそうにしているものだから妬けてくる。
 
和住(わずみ)さん」

 快永さんが少し離れた場所にいたスタッフを小さな声で呼び寄せて指示を出した。
 どうやらあのハイトーンピンクの女性は“和住”という名字らしい。
 実は今の現象は非常に珍しいと私は知っている。彼は必要ではない限り、誰かを名前で呼ぶことは極力しない人なのだ。
 たとえ相手が常連客であっても。きっと意図的にそうしているのだと思う。