そこにいたのは、山中部長補佐だった。

遠目に彼を見かけることはあったが、これほど近い距離で顔を合わせたのはバーでのあの夜以来だ。

「急遽アポが取れたから、それでね。――それはもしかして、決算用の資料?大変だろうけど、まぁそれも大事な仕事だからな」

「はい」

補佐は私に気がついていた。宍戸と言葉を交わした後、その穏やかな表情を崩すことなく私に向かって軽く頭を下げた。

私と補佐は他部署である上に、直属の上司、そして部下でもない間柄だ。だから、さらりとした態度は別におかしくはない。分かってはいたが胸の奥がひりひりと痛んだ。

「それじゃあ、これで」

「お気をつけて」

宍戸の声に補佐はくるりと背中を見せると、きびきびとした足取りで去って行った。

その後ろ姿をぼんやりと見送っていた私を、宍戸の声が促す。

「岡野、戻るぞ」

「う、うん」

私は我に返ると、すでに何歩か歩き出していた宍戸の後を追った。

自分の席に戻り、早速仕事に取り掛かる。

決算用資料を整えるという作業は、一日で終わるようなものではない。しかしこの日、私たち事務方は久しぶりに早く帰れることになった。ひとまずめどが立ったから、という上司の嬉しい一言のおかげだ。ここ最近、みんながそれぞれに残業続きだったから、早く帰りたい気持ちは同じだったようだ。誰もがいそいそと帰り支度をして、次々と席を離れて行った。

みんなよりひと足遅れて入ったロッカールームは、しんとしていた。備え付けの鏡で簡単にメイクを直してから、私はぼそっとつぶやいた。

「どうしようかな」

今日はこのまま帰りたくない気分だった。ロッカールームを出ると、手の中で携帯をもてあそびながらゆっくりと歩く。

誰か友達にでも連絡してみようかとも思ったが、週末だからきっとみんな、すでに約束があって私の入り込む余地はないかもしれない。