25、僕のものだったのに
太陽がまだ高い青空に君臨していた時間帯。雨水家の下級あやかし族と人間の使用人たちは、おろおろと妖狐の坊ちゃんの顔色を気にしていた。
「くそっ、桜子がいないと調子が出ない……ストレスが溜まる――おい、料理長を呼べ。最近、料理がまずいぞ」
雨水羅道にとって桜子は、自分が好き勝手弄んでいい所有物で、お気に入りの玩具だった。
いつも手の届く場所にいて、髪をひっぱったり手をつねったりして、可愛がっていたのだ。
「僕のものだったのに」
いなくなってしまった。取られて、どこかへ行ってしまった。いつも隣に侍らせているのが当たり前だったのに、もう呼んでも来ないし、学校にも来ない。
寂しいとは意地でも言いたくない。だが、心の中にはビュウヒュウと吹きすさぶ寒々とした隙間風があって、その隙間が誰と話していても、なにをしていても、埋まらない。
(ああ、むしゃくしゃする)
「坊ちゃん! 許してください、慈悲を、アッツ! アッツ! 坊ちゃん、アッ、アァアアアッ‼」
「フンッ、聞き苦しい悲鳴だな」
欲求不満状態を解消すべく料理長を火だるまにして踏みつけた羅道の耳に、望まぬ不幸の知らせがもたらされた。
「お父さまが捕まったって!? そんなばかな」
なんと、実の父である雨水宵史郎が捕まったというのだ。
羅道が偉そうにしていられるのは、家柄や父親という存在あってのことだ。
華族の頂点に君臨し、国を支配するあやかし族。
妖狐族は、その中でも高い地位にあった。妖術に秀でており、容姿に優れ、知能も高い――皇族である天狗族に次ぐ権勢を誇る一族なのだ。
そんな妖狐族の中で、父である宵史郎は『千里を見通す眼を持っている』と言われ、政敵の後ろ暗いことを明かしたり、誰も知らない真実を言い当てたりしてあやかし界で一目置かれていた。
羅道は父のことを頼もしく思っていた。
自慢の父だった。父がいるのだから、自分はなにも恐れることはないと思っていた。
――それなのに。
「羅道、お母さまと逃げましょう」
母、知豆子が血走った眼で言って、羅道を車に押し込める。
父は取り調べを受けていて、どうやら有罪が確定しそうだというのだ。罪人の家族にも刑罰が科されるかどうかは未定だというが。
「捕まるのはイヤッ、捕まらなくても世間から白い目で見られて肩身の狭い思いをするのは耐えられませんわっ! 遠くに逃げましょう」
「お、お母さまっ⁉︎」
知豆子がヒステリックに叫ぶではないか!
「いっそ入水してこんな現実とお別れしましょう、羅道はお母様が好きよね? 一緒に死にましょう」
「ええっ……い、いやだよ、死にたくないよ!」
ぎゅうっと力いっぱい羅道を抱きしめる知豆子に、羅道はジタバタと抗った。
このままでは心中に巻き込まれてしまう、と顔色を失った羅道の視界が、次の瞬間ぐらぐらっと揺れる。
何事か、と思っていると、エンジンをかけて走り出そうとしていた車体がピタリと動かなくなる。止められたのだ。
「一家の主が拘束されているというのに、お二人はどこへ行こうというのでしょうか」
外を見れば、車はすっかり包囲されていた。
……妖狐族の者たちだ。
「宵史郎どのの過ちにより、我ら妖狐一族の忠誠心が疑われている状況です。お二人には今後、自由はございませんよ」
「イヤーッ! 放して‼」
と暴れる知豆子が取り押さえられる。羅道は暴れる気力もなく、妖狐たちに連れて行かれた。
* * *
「本日より、妖狐一族は天水家が当主家となります」
天水家は、雨水家と同格に力のあった妖狐族の家だ。
令息を代々の皇族の学友や侍童にしている皇族の覚えがめでたい家柄で、今代も令息たちを皇居に送り、皇族殿下のそば仕えにしていた。
一族の間で「皇族のお気に入り」として誇らしく話題に上がることの多い、羅道が嫌いな天水家の犬彦が上座にいる。天水家の当主に許可をもらって口を開く声は、勝ち誇るようだった。
「やあやあ。次の妖狐族の頭領を目指しております、犬彦でございます。ほぼボクで確定といっていいでしょうっ。雨水家の方々におかれましては、普段からボクたちをたいそう気にかけてくださっていらしたようで。よく心温まる罵倒をしておられたと、噂をばっちり耳に入れております」
「げっ」
犬彦は愛らしく微笑んだ。なにも気にしていませんよ、という友好的な笑顔だ。だが、目が笑っていない。
「魔祓い承仕師の東海林家令嬢に対する非道徳的な扱いの数々も、調べさせていただきました。あと、ボクの友だちであり京也様のお使いをしたミケちゃんをいじめたりもしましたね? 雨水家は、我々天水家の監督下におかせていただきます。反省していただき、罪をしっかりと償ってもらいます」
「くそっ、くそっ、くそっ……」
羅道は、甘やかされて育った坊ちゃんだ。
自分の人生は恵まれており、常に勝ち組だと思っていた。なのに、今の状況はなんだ。
「さあさあ、過ごしやすい座敷牢を用意しました! そちらで大人しく今後の沙汰を待っていただいて。悪いようにしますから!」
「お、お前! こういうときは『悪いようにしない』だろうが!」
「は? 甘ったれるんじゃございませんよ」
愛らしい犬彦の声は、氷柱のように冷たく鋭い。
「これ犬彦。あまり苛めすぎてはいけない」
「ですが父上。ここはガツンと……」
――これから、自分たちはどうなるのだろう。
考えるとゾッとする。母、知豆子が心中したがるのもわかる。
転落人生だ。一生、世間から後ろ指を差されるのだ。
「どうしてこんなことに……! 僕は人生において勝ち組だったはずなのに……っ!」
激しく叫びながら、羅道は自問自答する。
怒りに身を焦がす気持ちが続く中、過去を振り返り始める。
(桜子、桜子……)
こんなとき、あの娘がそばにいたら。
お前のせいだ、お前が悪い、と無抵抗のあの娘を好き放題なじって、いじめて、ストレス解消できたのに。
自分は、落ちぶれた。
そして、自分が虐げていた桜子は、自分のものだと思っていた彼女は、この国でもっとも尊い天狗の皇族一族にもらわれて、幸せになってしまう。そこに羅道の居場所はなくて――もしかしたら、羅道のことなんて、すでに忘れているかもしれない!
(僕のものだったのに)
――後悔しても、もう遅いのだ。現実はどうにもできない状態になってしまった。羅道は涙目になって屈辱に全身を震わせた。
握りしめた拳と拗らせた執着をどこにも向けることができないまま、羅道は牢へと追いやられた。
太陽がまだ高い青空に君臨していた時間帯。雨水家の下級あやかし族と人間の使用人たちは、おろおろと妖狐の坊ちゃんの顔色を気にしていた。
「くそっ、桜子がいないと調子が出ない……ストレスが溜まる――おい、料理長を呼べ。最近、料理がまずいぞ」
雨水羅道にとって桜子は、自分が好き勝手弄んでいい所有物で、お気に入りの玩具だった。
いつも手の届く場所にいて、髪をひっぱったり手をつねったりして、可愛がっていたのだ。
「僕のものだったのに」
いなくなってしまった。取られて、どこかへ行ってしまった。いつも隣に侍らせているのが当たり前だったのに、もう呼んでも来ないし、学校にも来ない。
寂しいとは意地でも言いたくない。だが、心の中にはビュウヒュウと吹きすさぶ寒々とした隙間風があって、その隙間が誰と話していても、なにをしていても、埋まらない。
(ああ、むしゃくしゃする)
「坊ちゃん! 許してください、慈悲を、アッツ! アッツ! 坊ちゃん、アッ、アァアアアッ‼」
「フンッ、聞き苦しい悲鳴だな」
欲求不満状態を解消すべく料理長を火だるまにして踏みつけた羅道の耳に、望まぬ不幸の知らせがもたらされた。
「お父さまが捕まったって!? そんなばかな」
なんと、実の父である雨水宵史郎が捕まったというのだ。
羅道が偉そうにしていられるのは、家柄や父親という存在あってのことだ。
華族の頂点に君臨し、国を支配するあやかし族。
妖狐族は、その中でも高い地位にあった。妖術に秀でており、容姿に優れ、知能も高い――皇族である天狗族に次ぐ権勢を誇る一族なのだ。
そんな妖狐族の中で、父である宵史郎は『千里を見通す眼を持っている』と言われ、政敵の後ろ暗いことを明かしたり、誰も知らない真実を言い当てたりしてあやかし界で一目置かれていた。
羅道は父のことを頼もしく思っていた。
自慢の父だった。父がいるのだから、自分はなにも恐れることはないと思っていた。
――それなのに。
「羅道、お母さまと逃げましょう」
母、知豆子が血走った眼で言って、羅道を車に押し込める。
父は取り調べを受けていて、どうやら有罪が確定しそうだというのだ。罪人の家族にも刑罰が科されるかどうかは未定だというが。
「捕まるのはイヤッ、捕まらなくても世間から白い目で見られて肩身の狭い思いをするのは耐えられませんわっ! 遠くに逃げましょう」
「お、お母さまっ⁉︎」
知豆子がヒステリックに叫ぶではないか!
「いっそ入水してこんな現実とお別れしましょう、羅道はお母様が好きよね? 一緒に死にましょう」
「ええっ……い、いやだよ、死にたくないよ!」
ぎゅうっと力いっぱい羅道を抱きしめる知豆子に、羅道はジタバタと抗った。
このままでは心中に巻き込まれてしまう、と顔色を失った羅道の視界が、次の瞬間ぐらぐらっと揺れる。
何事か、と思っていると、エンジンをかけて走り出そうとしていた車体がピタリと動かなくなる。止められたのだ。
「一家の主が拘束されているというのに、お二人はどこへ行こうというのでしょうか」
外を見れば、車はすっかり包囲されていた。
……妖狐族の者たちだ。
「宵史郎どのの過ちにより、我ら妖狐一族の忠誠心が疑われている状況です。お二人には今後、自由はございませんよ」
「イヤーッ! 放して‼」
と暴れる知豆子が取り押さえられる。羅道は暴れる気力もなく、妖狐たちに連れて行かれた。
* * *
「本日より、妖狐一族は天水家が当主家となります」
天水家は、雨水家と同格に力のあった妖狐族の家だ。
令息を代々の皇族の学友や侍童にしている皇族の覚えがめでたい家柄で、今代も令息たちを皇居に送り、皇族殿下のそば仕えにしていた。
一族の間で「皇族のお気に入り」として誇らしく話題に上がることの多い、羅道が嫌いな天水家の犬彦が上座にいる。天水家の当主に許可をもらって口を開く声は、勝ち誇るようだった。
「やあやあ。次の妖狐族の頭領を目指しております、犬彦でございます。ほぼボクで確定といっていいでしょうっ。雨水家の方々におかれましては、普段からボクたちをたいそう気にかけてくださっていらしたようで。よく心温まる罵倒をしておられたと、噂をばっちり耳に入れております」
「げっ」
犬彦は愛らしく微笑んだ。なにも気にしていませんよ、という友好的な笑顔だ。だが、目が笑っていない。
「魔祓い承仕師の東海林家令嬢に対する非道徳的な扱いの数々も、調べさせていただきました。あと、ボクの友だちであり京也様のお使いをしたミケちゃんをいじめたりもしましたね? 雨水家は、我々天水家の監督下におかせていただきます。反省していただき、罪をしっかりと償ってもらいます」
「くそっ、くそっ、くそっ……」
羅道は、甘やかされて育った坊ちゃんだ。
自分の人生は恵まれており、常に勝ち組だと思っていた。なのに、今の状況はなんだ。
「さあさあ、過ごしやすい座敷牢を用意しました! そちらで大人しく今後の沙汰を待っていただいて。悪いようにしますから!」
「お、お前! こういうときは『悪いようにしない』だろうが!」
「は? 甘ったれるんじゃございませんよ」
愛らしい犬彦の声は、氷柱のように冷たく鋭い。
「これ犬彦。あまり苛めすぎてはいけない」
「ですが父上。ここはガツンと……」
――これから、自分たちはどうなるのだろう。
考えるとゾッとする。母、知豆子が心中したがるのもわかる。
転落人生だ。一生、世間から後ろ指を差されるのだ。
「どうしてこんなことに……! 僕は人生において勝ち組だったはずなのに……っ!」
激しく叫びながら、羅道は自問自答する。
怒りに身を焦がす気持ちが続く中、過去を振り返り始める。
(桜子、桜子……)
こんなとき、あの娘がそばにいたら。
お前のせいだ、お前が悪い、と無抵抗のあの娘を好き放題なじって、いじめて、ストレス解消できたのに。
自分は、落ちぶれた。
そして、自分が虐げていた桜子は、自分のものだと思っていた彼女は、この国でもっとも尊い天狗の皇族一族にもらわれて、幸せになってしまう。そこに羅道の居場所はなくて――もしかしたら、羅道のことなんて、すでに忘れているかもしれない!
(僕のものだったのに)
――後悔しても、もう遅いのだ。現実はどうにもできない状態になってしまった。羅道は涙目になって屈辱に全身を震わせた。
握りしめた拳と拗らせた執着をどこにも向けることができないまま、羅道は牢へと追いやられた。