桜の嫁入り 〜大正あやかし溺愛奇譚

20、あしがながーいおじさん

 朝食を終えた二人は、馬車でにゃんこ甘味店(かんみてん)に出かけた。
 
 帝都では、紅葉と桜が同時に葉と花びらを舞わせている。季節感が混乱しそうな風景だが、都民はすっかり慣れた様子だった。
 
 京也は洋風帽子とマフラーと色付き眼鏡のお忍び書生姿で、煙管(キセル)をくるくると手で弄んでいる。
 桜子は蝶々と御所車の模様が華やかな着物に女袴姿に編みあげブーツ姿だ。大きなえんじ色のリボンには式神のもみじが留まっている。
 
「リボンとマフラーが同じ色だろう? こういうのをペアルックというのだ」
 とは、京也の主張であった。

 馬車は途中で停まり、「ここからは歩いていこうか」と手を差し出される。
 
「お……恐れ多いです」
「俺にきみをエスコオトさせてくれたまえ。手繋ぎしよう、そうしよう! さあ、さあ」
 
 おずおずと手を取ると、京也は繋いだ手を嬉しそうに揺らした。

「見てごらん、アリさんがいるよ」
「あ、アリさん……ですか。はい、いますね」

 京也は道端で地面を示して、上機嫌に言った。
 
「あのアリさんは、今自分が世界でいちばん特別で、強くて、幸せだと思っているのだ。そして、それは俺も同じなのである。きみは、夜空にかがやくお月さま。俺のことは、愚かなアリさんだと思ってくれたまえよ」
 
 桜子は真剣に返答に困った。「わかりました、私はお月さまであなたはアリさんです」なんて返事はできるはずがない。
 
「わ、わ、……わかりま、せん……」
「ははっ、そうか。わからないことを言って困らせる俺は、悪い男だな! あははっ、すまん、すまん」

 日本橋川に架けられた石造りの橋を渡る二人の横を、自転車が走っていく。

「今日はにゃんこ甘味店に行くとして、次は大型百貨店で買い物しようか。活動写真や歌舞伎鑑賞もいい。落語も楽しいかもしれないな。きみが楽しそうにしている顔を見たいんだ」

 夢見るように言う京也が自然な仕草で桜子の手を引き、前から歩いてきてすれ違い、去って行こうとしたカンカン帽子の男に足をかけた。
「ぎゃっ」
 男が転び、その手からワニ皮の紙入れが転がる。

 と、その男が来た方向から、下駄を鳴らして駆けてきた男が声をあげた。

「追いついたぞ、この泥棒め!」
 どうやらスリだったらしい。
 どやどやと騒がしさを増す現場を後ろに、京也は何事もなかったように「音楽鑑賞もいいね」とつぶやいた。

 桜子は目を瞬かせて、素直な感想を口にした。
 
「すごいですね」
「うん?」
「私には、スリだとわかりませんでした」
「ああ。悪党は全身から澱んだ気配を垂れ流していることが多いから」
「そうなのですか」
「桜子さんは澄んだ気配をしていて、一緒にいると清々しい気分になる」

 澱んだ気配。澄んだ気配。それはどんなものだろう――桜子には、よくわからないが、一緒にいてよい気分になるという言葉は嬉しかった。

 橋を渡った先は、小さな店や屋台が並んでいた。
 赤や紺の幟が道の両側で風に揺れている。

「こうして手をつないで歩いているだけで、俺は幸せなんだ。ほんとうだよ。きみには、隣にいるだけで俺を幸せでいっぱいにする力がある……」
 京也の言葉がくすぐったくて、桜子ははにかんだ。
「なんだか、私にはもったいないお言葉ばかり。私、術者の家に生まれたのに、術も使えなくて――どうお返事したらよいのか……」

 もじもじしていると、京也は蕩けそうな顔をした。
「ああっ、その慎まやかな笑顔――眩しい! 日傘だ。日傘を差そう。守らねば、この笑顔」

 太鼓をたたき、旗を持って歩く楽隊が宣伝活動をしながら歩く中、商品を陳列した棚を担いだ物売りのおじさんが動く屋台みたいに歩いている。京也はそのおじさんの棚に絹張りの洋風日傘があるのを見つけて、いそいそと買い付けた。

「俺の差す日傘が日差しからきみを守るんだ。これってすごく光栄なことだね」
「こ、光栄なのはこちらの方です」

 白い日傘を差して上機嫌の京也に、桜子はかしこまり、深々とお辞儀をした。

「なにからなにまで、ほんとうにありがとうございます、京也さま」
「くっ……なんて美しいお辞儀だろう」

 しばらく歩くと、目的の店が見えてくる。

「そうだ。これを渡さないとな」
 
 京也は店に入る直前で、桜子に鏡を持たせてくれた。
 
「……お父さまの鏡……!?」
 
 父親の形見で、宵史郎(よいしろう)に『譲った』東海林家の家宝だ。
 
「取り戻してくださったのですか……? ――ありがとうございます……」
 
 桜子が驚いていると、京也は肩をすくめた。
 
「俺は『嫁入り道具に家宝を持たせよ』と言っただけだ」
 
 にゃんこ甘味店の扉をあけると、入店を知らせる鐘音と来客を歓迎する声がする。
 
「いらっしゃいませえ」
 頭を下げて中へと入る京也と桜子の後ろに、賑やかな声が続く。

「ボクたちもいらっしゃいましたー‼」
「空気のように目立たずお邪魔いたしますッ」
 
 犬彦とうしまるが元気いっぱいに挨拶している。犬彦はきつね耳と尻尾をみせているし、うしまるは肌を露出した赤いふんどし姿なので、とても目立っている。注目の(まと)だ。距離をあけているので、同じグループとは思われていない様子だが。

「ふふ、桜子さん。あの二人、目立つだろう」
「すごく目立ちますね」
 
 京也は楽しそうに色付き眼鏡を下にずらして美しい瞳でウインクし、「あいつらは『忍べ』と言ってもああなのだが、ああやって二人が目立つことで俺が忍びやすくなるのだ」と笑った。 
 
 店内には、看板猫のミケもいる。ミケは観葉植物の近くにある丸い籠の中で丸くなっていた。猫がすやすや眠っている姿は、平和の象徴みたいだ、と桜子は思った。
 
「おんやぁ、桜子ちゃん。お休みの連絡がきていて、心配していたのよ。春告(はるつげ)さんと一緒なのねえ。学校はどうしたの」
 
 時間はまだ午後になったばかり。普段は学校の時間だ。中田のお母さんは目を丸くしながら栗餡の饅頭をくれた。 

 店に来る前に聞いた話によると、皇宮の外で書生姿をしているときは、基本的に京也は身分を隠しているらしい。
 
 天狗の一族――皇族には、苗字がない。

 京也の「春告宮(はるつげのみや)」――「宮」というのは皇族の称号で、苗字ではないのである。
 そんな皇族は、市井では「宮」をはずして「春告」と苗字のように名乗ることもあり、京也もお忍び中に名前を聞かれた際は「春告(はるつげ)京也(きょうや)」と名乗っているのだ、という。

(春告宮京也様がご本名でしょう? 宮の一文字があるかないかの違いしかないけど、ばれないのね)
 
 と、桜子は思ったのだが、考えてみれば、あまり皇族の情報は人間に出回っていないのだ。
   
 桜子が視線を向けると、帽子とマフラーと色付き眼鏡の書生姿の京也は「中田のお母さん、『あしがながーいおじさん』って話をご存じですか?」と謎の話をしている。
 そして、いつもの席に座り、メニューも見ずにコーヒーとワッフルと茶碗蒸しセットを注文した。

「あっ、私、お運びします……」
「あら桜子ちゃん、お仕事の時間じゃないのだから、のんびりしていいのよ」
 
 待っているのが申し訳なくなって、桜子は注文料理を席まで運ぶのを手伝った。するとなぜか京也まで席を立ち、客なのに自分の料理を自分の席まで運ぶではないか。
 
 中田のお父さんが「なにをやってるんだ」と困惑していると、京也は着座し、眠たげな眼でコーヒーをすすって。
 
「男子たるもの、どっしりと腰を落ち着けて構えるのも大事だが、労働力を活かして社会貢献する事も大事だと俺は思うのです」と言う。
 
「お手伝いは助かるけど、びっくりしちゃう。『あしがながーいおじさん』は有名なお話だから知っていますよう。正体を隠して経済的に支援してくれた資産家のダーリンと結婚するという夢のあるお話ねえ」
 
 中田のお母さんが言えば、京也は「俺たちはまさにそんなカップルなんです」と肩をそびやかす。

「……そうでしたっけ?」
「いや、違うと思いますがな?」

 離れた席の犬彦とうしまるがヒソヒソ言っている。
  
 お忍びだからという理由もあるかもしれないが、京也は中田夫婦に敬意を感じさせる態度だった。話し方も偉そうではなく、年長者を敬うような気配がある。
  
 飲食店を利用する際、サービスを提供する店員に横柄に接する者はかなりいる。接客仕事を経験している桜子は、京也の態度を好ましく思っていた。
  
「ふたりが、『あしがながーいおじさん』。へええ?」
 
 心配そうな視線が中田夫婦から注がれるので、桜子はどんな表情を返せばいいのかわからなくなって頬を染めた。
 
21、なぜなら、俺が幸せにするから

「桜子ちゃんの事情はあまり知らなかったけど、訳ありなんだろうねと私らも話してたところだったのよ。お給金を弾んでやれたらよかったのだけど、うちもお金は余裕がなくてねえ……」

 中田のお母さんの声は、優しかった。
 
「この前、古い友人の連帯保証人になったら、その友人が逃げちゃったのよ。でも、この春告さんが『あしがながーいおじさん』って言われると……だ、大丈夫なのかい」
 
 大丈夫じゃないです、と言ったら無理してでも助けようとしてくれそうだ。
 そんな良い人だから、桜子は中田夫婦に「自分がつらい」とか「困っている」などと相談しようとは思わなかった。
 いつも「ごはん食べてるのかい、顔色が悪いよ」とか「なにか困っているのか」と聞かれるたび、「大丈夫です」と言ってきたのだ。
 
「案ずることはない。俺と結婚すると、桜子さんは幸せになる」
「えっ」
「なぜなら、俺が幸せにするから」

 自信満々だ。中田夫婦が口をはさんでくる。
 
「桜子ちゃん、大丈夫かい。なんか騙されたりしていないかい」
「簡単に男を信じちゃだめだぞ」
「だ……大丈夫です」
 
 桜子はおずおずと頭を下げた。信用がない京也本人は「はっはっは。それほどでも」と笑って、料理の皿を桜子の前にずらした。
 
「召し上がってはどうだろうか」
「……もしかして、私のために注文してくださったのですか? ありがとうございます……」
「正確には、俺がきみに『あーん』をして幸せになるためだ」

 真面目に言って、京也はワッフルを一切れ、差し出してくる。
 
「恋人同士がこうやってイチャイチャするシーンを書くたび、自分でもやってみたいと思っていたのだよ。さあ、その愛らしいお口で俺を幸せにしておくれ」
 
 そう言ってうっとりと頬を染める京也を、中田のお父さんは不機嫌に睨んでいる。

「やらんでいいぞ、桜子ちゃん」
  
 そんな店内に、からんからんという入店の鐘音が鳴る。
 
「いらっしゃいませ……」
 
 入ってきた三つ揃いのスーツ姿の男を見て、中田夫妻は表情を曇らせた。男は客ではないようで、店内を見渡して皮靴でがつんと近くにあった椅子を蹴り転がした。

「中田さん、あんたたちの借金はもう返済期限ぎりぎりだ! 今日中に金を払わないと、大変なことになるぞ!」
 怒鳴り声は恐ろしく、桜子はびくりとして京也に身を寄せた。
 
「……‼ なんと、桜子さんの側から俺にくっついてくるとは⁉︎」
 
 京也はスプーンを置いて、桜子の肩を抱き寄せた。嬉しそうに緩む口元をマフラーに顔の下半分を埋めるようにして隠そうとしているが、誰が見ても喜びを隠せていない。
 
「やはり暴漢は引き立て役にとてもいい! きみ、今どきどきしているね? 吊り橋というのを知っているかい」
「そ、そんな場合ではないのでは……これは、お芝居ではないのですよね?」
 
 桜子が言えば、京也は「大丈夫」と言って犬彦とうしまるに視線を向けた。
22、智に働けば頭角をあらわし、情に棹させるには流し目ひとつで事足りる

「なんということでしょう、長年支え合って生きてきた老夫婦二人が今まさに危機を迎えているのですぅ!」
「な、なんだって。ひどい奴がいるのだなあッ」
 
 窓の外から謎の呼び込み声二人分が聞こえるようになったのは、それからすぐのことだった。
 
「どうぞどうぞ、おいでになって、この見世物をご堪能くださいませ。借金のしつこい催促、お得意のごねっぷり、そして喧嘩っ早い口論の数々。うわあ、最悪だあ」
「まだ時間があるというのに営業妨害ッ! 迷惑極まりありませんなッ」
 
 元気いっぱいで、やんちゃな少年の声。そして、野太い男の声。
 
「さあさあ、どうぞ寄ってらっしゃい、見せてらっしゃい、このお店でございます!」
「なんとこのお店、甘味がうまぁいッ! そして安ぅいッ!」
 
 犬彦(いぬひこ)とうしまるだ。

「この肉体美も見ていってくだされッ」
「ボクの尻尾のもふもふ具合もごらんくださいまし!」
 
 二人の声が場違いに明るい。楽しそうだ。生き生きしている……。

「ほーら、シャボン玉も飛ばしましょう、きれいでございますね~! 楽しいですねー!」
「はははッ、こちらは紙吹雪で対抗ですッ!」

 ……二人して、外で一体なにをしているのか!
 
 桜子は京也の横顔を見た。ちゃっかり桜子の肩を抱き寄せてご満悦顔の京也は、従者二人に呼び込みをさせて自分は中田夫妻と取り立て屋のやり取りを見物している。
 
「い、今は店が営業時間なので、終わってから……」
「ここ数日の客入りを見てたが、この店はぜんぜん儲かってないんじゃないか? 今日一日営業したって、支払いができるようには思えないな。なら、待つだけ無駄じゃねえか」
「お願いです、もう少し時間をください」
「あんたたちのの~んびりした感覚に付き合ってたら、こっちまでじじいになっちまう。なにより、じじいになる前に上に怒られるっ」
「ああ、取り立て屋さんも上と下に挟まれてご苦労なさってるんだねえ」
「そうそう、わかってくれて嬉しい……って和みそうになっちまったじゃねえか!」
 
 中田夫妻の嘆願にも関わらず、取り立て屋は声を荒げていく。そして、そんな店内へと呼び込みに誘われた野次馬が入ってくる。
 
「ほんとうだ。やってらあ」
「これはショーなのですか? ほんもの……?」
 
 人が集まったところで、京也は桜子の注意を引くように髪を撫でた。
 
「ではそろそろ」
「……?」
 
 桜子が首をかしげる中、京也は名残惜しそうに手を放して立ち上がった。
 
「俺の花嫁さま、俺の愛しいお姫さま。あの引き立て役を今から追い出すゆえ、格好良かったら褒美にキスしてくれたまえ」
「ええっ?」

 桜子は驚いてばかりであった。「自分はさては驚くためだけに生まれてきたのか」と思い始めた桜子の目の前で、京也は帽子を脱いで取り立て屋の後頭部に投げつけた。

「えいえい」
 掛け声はイタズラでやんちゃな子どものようである。
「あいたっ、なんだ!?」
 取り立て屋が振り返る。そして、ぽかんとした。京也の背に、翼が出されている。
 
「そこの男、営業妨害をするのはやめたまえよ。そんな暇があるなら、この『あやしさ満載』とよく言われる書生姿の俺を見るがいい。仕事中の夫婦に絡むぐらいなら、俺に絡め! 絡まぬなら俺から絡む!」
 
 京也は格好つけて煙管(キセル)を吹かし、「こほっ、こほっ」とむせた。しかし、言葉は止まらない。
 
「こほっ、時間があって退屈なら、妄想もよいだろう。妄想はいいぞ、自分を強くする! ……強くなったような気がするのだ。実際は強くなっていないが」
 
 喋る、喋る。
 誰も口を挟めない。
 スイッチが入ったように、京也は(まく)し立てた。
 
「そして恋愛もよいものである。恋愛はすさまじい幸福感と苦しさの嵐を呼ぶ強欲である! 罪深い俺には自覚がある――この煙管も、不埒(ふらち)に想い人の肩を抱きたがる我が手をあやすために持ってきただけなのだ。あまり効果はなかった! はぁっ、智に働けば頭角をあらわし、情に(ほだ)させるには流し目ひとつで事足りる……」

「はあ!? な……なんて? 妄想? は、羽――天狗……?」
 
 よかった。取り立て屋も他の人たちも驚くだけになっている。
 
(そのお気持ち、わかります。全員きっと同じ気持ちですよね)
 
 桜子は不思議な安堵をおぼえた。自分と他人が同じ、という安心感である。

 周囲をひたすら呆然とさせた京也は、おまけとばかりに人差し指の先に小さな天狗火を(とも)し、威圧した。
 
「中田夫婦の逃げた友人はあとで探すとして。金は俺が払うゆえ、取り立て屋くんは俺に従いたまえ。かつ丼を(おご)ってやってもいい!」
 
 問題の解決方法は金であった。
 取り立て屋の男は京也の天狗火に「ひっ」と怯えた声をあげ、よろめいて京也の座っていた席のテーブルにぶつかった。テーブルが揺れて、置かれていた原稿が落ちる。

 原稿を拾おうとした桜子は妙なことに気づいた。
「あ……れ?」
 父の形見、『遠見(とおみ)の鏡』が淡い光を帯びている。

「お嬢ちゃん、なんだその鏡……?」
 
 近くにいた人がびっくりして声を上げる中、鏡は光を強めて、店内の壁に映像を映し出した。

「壁になにか映ったぞ」
「人……? これは、家だなぁ」
 
 映像の中の人物は振り返り、顔が明らかになり――その顔を見て、中田のお父さんが叫んだ。
 
「こりゃ、借金を踏み倒して逃げた友人だ!」

 この場所はどこだ、日時はいつだ、キネマ(映画)のようだが、現実なのか? 新聞を持っていて、日付が今日だぞ……とみんなが騒ぎだす。取り立て屋は京也と映像の中の『借金を踏み倒して逃げた友人』を見比べた。

「ふむ。本人が捕まえられるなら本人に責任を取らせたほうがよいのではないか」
「おっしゃるとおりでございますっ!」

 取り立て屋は床に頭が突きそうなほど大袈裟にお辞儀して、びゅっと店を出て行った。
 
 中田夫妻はお金を払わなくてもよくなるのだろうか、と安堵した桜子の視界が、ぐらりと傾く。
 
「……桜子さん」
「あっ」
 
 呼ばれて気付けば、鏡は光を消していて、壁の映像もなくなっていた。そして、桜子は京也に支えられるように抱き留められていた。軽く眩暈を起こしたらしい。密着する距離に、どきりとする。

「あの家は知っている。あいつがいた場所がわかったぞ」
 取り立て屋が「こうしちゃいられない」と店を出て行く。
 
「桜子さんには術の才能があるようだな……今、暴走気味になっていたようだが。大丈夫か?」

 京也は帽子をかぶり、心配そうに眉尻を下げた。

「自分で制御できないまま無意識に術が使えてしまうのは危険なので、術を使う訓練をしたほうがよいかもしれない」
 
 そして、原稿用紙の端部分を破り、文字を書きつけて鏡に貼った。

「暴走防止の呪符を貼っておくから、俺がよいと言うまで鏡を使わないように」

「私に術の才能が……? お父さんみたいに、いろんな映像を誰かに見せたりできる……?」
「訓練すれば、できるようになるかもしれない」
 
 それはすごいことなのではないだろうか――桜子は信じられない思いで、壁と鏡を見比べた。
23、だから、いっぱいほめてあげる

「中田様、お客様も呼び込みましたし、本日はボクたちがお店をお手伝いいたしますっ」
 
 取り立て屋が去ったあと、犬彦は人懐こい笑顔で中田夫妻を安心させた。

「なんと、天狗皇族の春告宮殿下でいらしたとは……って、ええ? ほ、ほんとうに……?」
「し、信じられない……ありがとうございます、ありがとうございます」
 
 中田夫妻は京也に手を合わせている。神様、仏様、京也様だ。 

「うんうん、あ、膝は付かなくていい。普段通りでいいんだ。(かしこ)まりすぎなくていいぞ」

 京也は羽を仕舞い、中田夫妻の肩を支えて、頭を上げさせている。

「だがこれで、俺が桜子さんとちゃんと幸せにできるという説得力が増したであろう!」

 京也が笑う声に、中田夫妻は頷いた。
 店内の客たちは、そんな中田夫妻に「よかったなあ」と声をかけたり、「天狗皇族様ばんざい!」と京也を(たた)えたりと、賑やかだ。
 
「取り立て屋が出て行ったぞ。落ち着いたようでよかった、よかった」
「この店はなんなんだ……? あやかし族が呼び込みしていて、天狗の方がいて、壁でキネマ(映画)が上演されて」
「さっきの壁の映像はキネマじゃないだろ? あれ、あやかし族の術なのかな。初めて見たよ」
 
 呼び込みで入店した人々は、騒動が落ち着いたことで帰っていく者もいるが、店内にそのまま残って目撃した事件についての感想を語り合う者も多い。

「オムレツおひとつくださいなぁ」
「ライスカレーたのむ!」 

「はーい、ただいまお持ちしますぅ!」
「承知ッ」
 
 お揃いのフリルエプロンをつけた犬彦とうしまるが大きな声で返事をして、それぞれのテーブルへと向かう。

「借金もなんとかなりそうで、お客さんがこんなにいっぱいで、あやかしの方々が手伝ってくださって……ありがとう存じます……」
 
 中田のお母さんが拝むように手を合わせ。
 
「こうしちゃいられない、料理をつくらんと」
 
 中田のお父さんは驚きつつ、大慌て。
 
「お店、頑張りましょう、お父さん」
「うん、頑張ろう、お母さん」
 
 ぺこり、ぺこりと店内のあちらこちらで見守っている面々に頭を下げ、お店のお仕事を始める中田夫妻。
 その姿を見て、店内の客は「大変そうだったが、もう大丈夫なのかい?」と好意的な雰囲気になっている。
 
「いい雰囲気のお店じゃないか。料理も美味いし。ところで、さっきの羽見たか?」
「あやかし族が店員なんだぜ、そりゃあ良い店に決まってる……ああ、あの兄ちゃん……いや、天狗皇族様……?」

 ちらり、ちらりと客が京也を見る。とんでもない存在ではないか、と。

「ふむ。もみじ、()み消してくれ。客の記憶だけでよい」
 京也はそんな客たちに肩をすくめて、もみじに命令を下した。

「あ~いっ! おまかせ~!」
 もみじはすぐに行動した。ひらりと飛んで、店内のあちらこちらをひゅーん、ふわふわ、と飛び回る。

「おやあ、あの葉っぱもあやかしかな」
「赤い蝶々みたいでかわいいなあ……」

 店内の人々は、その姿をぼんやりと目で追いかけた。

 一周ぐるりと店内をまわって、もみじが桜子の肩に戻るころ。
 人々は、天狗皇族のことを忘れていた。
 
「妖狐さまが給仕してるんだ、味が悪くても悪いとは言いにくいわな」
「それはそうだ! あははっ」
 
 新しく来た客たちは「天狗皇族様の噂は、さすがに()っていたか~」と言いながら、犬彦のきつね耳や尻尾や、うしまるの筋肉に視線を向ける。
 
「尻尾がふわっふわ」
「筋肉がすごい」
 
 もみじが平たい葉っぱのからだを揺らして、「きょうやさまがてんぐなきおく、けしましたの」と報告している。

「あるじさま、ほめてほめて」
「もみじちゃん、すごい」
「わあい! わあい! ほめられたぁ!」
 
 もみじは無邪気に喜んで、あどけない声で「あるじさまも、かがみつかって、すごーい!」と言ってくれた。

「あるじさま、もみじ、ほめられるとうれしいの。だから、もみじもいっぱいほめてあげる」
「ありがとう、もみじちゃん」

 桜子は指先でもみじを撫でた。
 葉っぱの体はぺらぺらで、撫でられて喜ぶ姿は無邪気だ。嬉しくてたまらない、という気持ちが伝わってくる。
 
「ご注文うけたまわりましてございますっ。ハットケヱキ、ビーフコロッケ、オムレツ、ベイクドマカロニ……」
 
 犬彦が次々と注文を唱える。店内は、大盛況だ。
 
「わ、私も手伝います……!」
 
 給仕用エプロンをつけた桜子の腕を後ろから(つか)み、引き留めるのは京也だ。
 
「桜子さん。術を使ってふらふらしていたじゃないか。体が弱っているのだし、労働は家臣に任せて休んでいたまえよ。きみは奉仕する側ではなく、奉仕される側の人間なのだ」

 心配してくれる情が伝わり、くすぐったい気持ちが桜子の胸に湧く。甘えたくなる。けれど、桜子は首を横に振った。
 
「さっきは少し眩暈がしましたけど、もう大丈夫です。美味しいお食事とたっぷりの睡眠のおかげで、体調は今までになく良いくらいなんです」
 
(むしろ、京也様の方がお疲れなのでは?)
 桜子は眉を寄せた。
 
「京也様こそ、ご無理をなさらずに休んでください」
「ん……そうだ、コーヒーを頼みたいな」 
「淹れてまいります」
 
 使用人のように言う、という苦笑が京也から零れる。
 だって、自分は使用人だったのだ――桜子はそんな言葉を飲み下しながら、京也の腕から離れた。
 
「桜子ちゃんも手伝ってくれるのかい、ありがとうねえ。会話が聞こえたし、コーヒー淹れておいたよ。持っていってあげて」 
 
 中田夫妻は「春告(はるつげ)さまにはびっくりしたよ……」と言いながら忙しそうにフライパンを振ったり注文を確認したりしている。
 京也のテーブルにコーヒーを届けてから、桜子は他のテーブルに急いで向かった。客は待っている間に足を揺らし、時計を見る仕草をしている。
 
「野次馬根性で覗いたまではいいが、こう混んでちゃあ……動物型の最中(もなか)セットをくれるかい」
「はいっ、ただちにお持ちいたします……!」
「こっちも急いでほしいんだけど~」
「はい! お待たせして申し訳ございません」

 ……大忙し!
 うしまるも料理皿を両腕の上に大量に並べ、頭の角と角の間にも挟み、器用にテーブルに配っていく。

「よく落とさないなー!」
「筋肉もすごい」
 客たちは笑いながら、「あやかしだけど、怖くないな」「まったく!」と言葉を交わしていた。

「聞いたよ。この店に天狗皇族の方がいるって?」 
 
 食事を終えて会計を済ませ、店の外に出て行った客たちが外で噂をしたらしい。噂に誘われて客が増えるが、店内にいた客は記憶を消されているので、否定してくれる。
 
「いや、妖狐と牛男はいるけど天狗皇族の方はいないぞ」
「なーんだ。いないのか。まあ、そうだよな」
「いるわけないじゃないか、そんな雲の上の高貴な方……」
「だよなぁ」 
 
24、ミケの恩返し

 賑やかな店の奥で、京也は時計を気にしていた。
 
二世乃(にせの)さん、来ないな。なにかあったのだろうか。彼女、感情的というか、迂闊(うかつ)なところがあるからな。どこかで誰かと揉めていたりしなければいいが」
 
 京也はそわそわと周囲を見て、折り鶴を懐から取り出して、仕舞った。


 そこへ、店内に入ってきた客の声がする。
「外にすごい人だかりがあってさ。二世乃(にせの)咲花(さっか)がいたんだ」

 二世乃咲花。それは、京也が仕事を受けている作家の名前だ。京也がすぐに立ち上がり、「ちょっと出てくるよ」と言って外に出て行く。

「二世乃咲花は目も覚めるようなハイカラ美人だったよ。ちょっと変人だったけど」
「変人?」
「もともと金持ちの令嬢だけど、本が売れて大金持ちになったってんで、『これはあたくしが稼いだお金ですわ~~!』って、なんか札束を扇みたいにしてたぞ」
 
 噂話を聞きながら給仕をしていると、京也は「ちょっと」の言葉通り、すぐに帰ってきた。
 しかし。

「あっ、京也様。ま、マフラーに口紅がついてますって」
 狐彦があわてて駆け寄り、マフラーを没収するのを桜子は見てしまった。
「ああ、二世乃さんかな」
「いけません、いけません。最悪です。なんで口紅をつけていらっしゃるんです! おばか!」
 
 うしまるがアタフタと桜子の耳を塞ごうとする。手遅れだ。バッチリ聞いてしまった。
 ぱちりと目が合った京也は、すこし気まずそうだった。
 
「転びかけたのを助けただけだ……」

 言い訳するように言われて、桜子は首を振った。

「お仕事は済んだのでしょうか? お疲れ様です」
「ああ、いや。今から帰ってまた書き直すことになったんだ」
「そうなのですか? 大変ですね」
「よくあることさ。二世乃さんの好みがあるから」
  
(……好み)

「それなりに長い付き合いなのに、彼女の好みに合わせられない俺がいけない」
  
 真面目な顔で言う京也を見て、なぜか桜子の胸がずきりと痛んだ。

 * * *
 
「にゃあん」
 
 店から去ろうとすると、後ろから猫の鳴き声がした。
 振り返ると、看板猫のミケが寄ってくるのが見える。

「ミケ、またね」
 
(お別れをしてくれるのね、可愛い)
 そう思ってミケに笑顔を向けた桜子は、「ん?」と首をかしげた。
 
「みゃあう」
 
 ミケは口により紐をくわえていた。赤い紐と白い紐がねじられながら一本になっている紐だ。なんだろう。くれるらしい――受け取ると、ミケは喉をごろごろ鳴らして店の奥に去って行った。

 京也は馬車にエスコートしてくれて、走り出す馬車の中であくびを噛み殺すようにしながら手元を覗き込んできた。
 
「桜子さん、ミケになにをもらったんだい?」
「なんでしょうこれ――あっ?」
 
 二人して見つめていると、紐は生き物のように動き出した。

「うひゃあっ? うごいてるぅっ?」

 ああ、我ながら、品のない悲鳴――桜子が驚きつつも自分の悲鳴を残念に思う中、京也は「びっくりしている桜子さんも可愛い」と言いながら鏡に手を伸ばした。 

「害はない様子だが」
  
 紐は『遠見の鏡』に絡みつき、京也が貼り付けた札を剥がそうともぞもぞしている。
   
「ああ、あの化け猫の術か。店を助けたから、恩返しになにか見せてくれるらしい。どれどれ」
 
 京也がつぶやいて鏡を取り札を剥がすと、紐は鏡を撫でるような動きを見せた。

「この紐にこめた霊力と記憶が鏡に移動されているようだね」
 
 鏡にどこかの風景が映るのをみて、京也は首をかしげた。
 
「さて、この映像はなんだろう?」

 鏡の中に、ミケがいる。
 
 ミケは雨水家の庭木の枝にいて、窓から家の中をみていた。
 
 家の中には雨水(うすい)宵史郎(よいしろう)がいて、鏡を見ている。
 ……という風景が、ミケの眼に見えている。

「むう。この鏡め、最近は過去ばかり映すではないか……」
 鏡の中の宵史郎がつぶやいた。
「あの娘が無意識に親を恋しがって鏡に影響を及ぼしているのだろうか。だとすれば、邪魔すぎる存在だ」 
  
 京也と桜子は顔を合わせ、「ミケが見てる風景ですね」「だな」と確かめ合った。
 鏡の映像は宵史郎の近くに寄ったように、彼の手元にある鏡を大きく見せる。
 
「これは――」

 桜子は息を呑んだ。 
 
 宵史郎が見ていた鏡の映像は、懐かしき東海林家(しょうじけ)だったのだ。
 
「わ、私の家です。あっ、……おとう、さま……っ!」
 桜子の声が震える。
 これは、過去だ。父がいる。
 ……とすると、宵史郎は鏡で過去を見ている?

 過去の映像の中で、桜子の父と過去の宵史郎は、口喧嘩を始めた。
 
東海林(しょうじ)。お前が持っている鏡を渡せ。情報は力だ。私が鏡を活用して古今東西の情報を手にすれば、今以上に有能者として名を馳せることができる。やりようによっては天狗皇族を陥れ、私が帝になるのも夢ではない」
「雨水、なんて恐ろしいことを言うんだ。そんな企みを聞いて鏡を渡せるはずがない……!」
 
 桜子の父が拒否すると、宵史郎はすさまじい狐火を起こし、父と術をぶつけあい……。

 燃える、燃える。
 父が、母が、家が――妖狐の狐火に、燃やされていく。

「おかあさま、……おかあさまぁっ……」
「桜子、お逃げ。お母様は、動けないの……ああ、お願い、連れて行って」
 
 女中に抱えられる幼い桜子の泣き声が、遠く儚く炎に巻かれて――聞こえなくなる。

 
 * * *
 
「こ、これは――これは」

 桜子は恐ろしい光景に震えた。

 胸が(えぐ)られたように、痛い。
 得体の知れない感情が、心の中を吹きすさぶ。

 悲しみ? 怒り? 憎しみ? 恨み?
 ――いろんな感情がぐちゃぐちゃになって、どうにかなってしまいそう。
 
 ……雨水(うすい)宵史郎(よいしろう)は、東海林家(しょうじけ)に火を放ち、桜子の家族を殺したのだ!

 と、激情に(たかぶ)っていた桜子の耳に、京也の声が聞こえた。

「ほう。これはこれは」

 獲物を見つけた捕食者のような声は、いつもの優しく穏やかな京也とは明らかに違っていた。背筋がゾッと凍り付いて、カッとなっていた頭も一瞬で冷えるような、怖い気配だ。

(京也、様)

 桜子が普段との差に驚いていると、京也は馬車を停めて配下を呼んだ。

雨水(うすい)宵史郎(よいしろう)をひっ捕らえよ!」

 王者の声で命令が下されて、その夜のうちに雨水(うすい)宵史郎(よいしろう)は国家反逆罪で捕らえられたのだった。

 * * *

「……桜子さんは……怒っているだろうか? 憎んでいるだろうか? 恨んでいるだろうか? 奴を……」

 命令を下したあとの京也は、桜子と同じくらい傷付いた顔をしていた。
 桜子はその顔を見て、息を呑んだ。
 
「きみの心があやかし族のせいでそんな感情に彩られてしまうのが、悔しい。――俺は、きみにそんな苦しい顔をさせたくなくて……でも、間に合わなかったんだ。俺が知らないきみは、俺の手の届かないところで……」

 それが悲しくて仕方ないのだ、と顔を歪めて京也が力いっぱい桜子を抱きしめるから、桜子はなにも言えなくなった。

 ぎゅっと京也を抱きしめ返したあとで、恐れ多いことを平気でするようになったものだと自分に驚く。

 けれど、けれど。
 この美しいあやかしが心を痛めている。
 過去にぐちゃぐちゃに情緒を乱された自分は、この優しいあやかしが同情する姿に、どうしようもなく心が揺れて、惹かれて、止まらないのだ。
 
 だからこの夜は、体温を寄り添わせて、ぎゅうっと身体をひっつける。
 そんな自分を、許したいのだ。
25、僕のものだったのに


 太陽がまだ高い青空に君臨していた時間帯。雨水家の下級あやかし族と人間の使用人たちは、おろおろと妖狐の坊ちゃんの顔色を気にしていた。

「くそっ、桜子がいないと調子が出ない……ストレスが溜まる――おい、料理長を呼べ。最近、料理がまずいぞ」
 
 雨水(うすい)羅道(らどう)にとって桜子は、自分が好き勝手弄んでいい所有物で、お気に入りの玩具だった。
 いつも手の届く場所にいて、髪をひっぱったり手をつねったりして、可愛がっていたのだ。
 
「僕のものだったのに」
 
 いなくなってしまった。取られて、どこかへ行ってしまった。いつも隣に(はべ)らせているのが当たり前だったのに、もう呼んでも来ないし、学校にも来ない。
 
 寂しいとは意地でも言いたくない。だが、心の中にはビュウヒュウと吹きすさぶ寒々とした隙間風があって、その隙間が誰と話していても、なにをしていても、埋まらない。

(ああ、むしゃくしゃする)

「坊ちゃん! 許してください、慈悲を、アッツ! アッツ! 坊ちゃん、アッ、アァアアアッ‼」  
「フンッ、聞き苦しい悲鳴だな」
 
 欲求不満状態を解消すべく料理長を火だるまにして踏みつけた羅道の耳に、望まぬ不幸の知らせがもたらされた。
 
「お父さまが捕まったって!? そんなばかな」
 
 なんと、実の父である雨水(うすい)宵史郎(よいしろう)が捕まったというのだ。
 
 羅道が偉そうにしていられるのは、家柄や父親という存在あってのことだ。
 
 華族の頂点に君臨し、国を支配するあやかし族。
 妖狐族は、その中でも高い地位にあった。妖術に秀でており、容姿に優れ、知能も高い――皇族である天狗族に次ぐ権勢を誇る一族なのだ。

 そんな妖狐族の中で、父である宵史郎は『千里を見通す眼を持っている』と言われ、政敵の後ろ暗いことを明かしたり、誰も知らない真実を言い当てたりしてあやかし界で一目置かれていた。
 
 羅道は父のことを頼もしく思っていた。
 自慢の父だった。父がいるのだから、自分はなにも恐れることはないと思っていた。
 
 ――それなのに。

「羅道、お母さまと逃げましょう」
 
 母、知豆子(しずこ)が血走った眼で言って、羅道を車に押し込める。
 父は取り調べを受けていて、どうやら有罪が確定しそうだというのだ。罪人の家族にも刑罰が()されるかどうかは未定だというが。
 
「捕まるのはイヤッ、捕まらなくても世間から白い目で見られて肩身の狭い思いをするのは耐えられませんわっ! 遠くに逃げましょう」
「お、お母さまっ⁉︎」
 
 知豆子がヒステリックに叫ぶではないか!
 
「いっそ入水してこんな現実とお別れしましょう、羅道はお母様が好きよね? 一緒に死にましょう」
「ええっ……い、いやだよ、死にたくないよ!」
 
 ぎゅうっと力いっぱい羅道を抱きしめる知豆子に、羅道はジタバタと抗った。
 このままでは心中に巻き込まれてしまう、と顔色を失った羅道の視界が、次の瞬間ぐらぐらっと揺れる。
 何事か、と思っていると、エンジンをかけて走り出そうとしていた車体がピタリと動かなくなる。止められたのだ。

「一家の主が拘束されているというのに、お二人はどこへ行こうというのでしょうか」
 
 外を見れば、車はすっかり包囲されていた。
 ……妖狐族の者たちだ。
 
「宵史郎どのの過ちにより、我ら妖狐一族の忠誠心が疑われている状況です。お二人には今後、自由はございませんよ」
 
「イヤーッ! 放して‼」
 と暴れる知豆子が取り押さえられる。羅道は暴れる気力もなく、妖狐たちに連れて行かれた。

 * * *
 
「本日より、妖狐一族は天水家(てんすいけ)が当主家となります」
 
 天水家は、雨水家と同格に力のあった妖狐族の家だ。
 令息を代々の皇族の学友や侍童にしている皇族の覚えがめでたい家柄で、今代も令息たちを皇居に送り、皇族殿下のそば仕えにしていた。

 一族の間で「皇族のお気に入り」として誇らしく話題に上がることの多い、羅道が嫌いな天水家の犬彦が上座にいる。天水家の当主に許可をもらって口を開く声は、勝ち誇るようだった。

「やあやあ。次の妖狐族の頭領を目指しております、犬彦でございます。ほぼボクで確定といっていいでしょうっ。雨水家の方々におかれましては、普段からボクたちをたいそう気にかけてくださっていらしたようで。よく心温まる罵倒をしておられたと、噂をばっちり耳に入れております」
「げっ」
 
 犬彦は愛らしく微笑んだ。なにも気にしていませんよ、という友好的な笑顔だ。だが、目が笑っていない。

「魔祓い承仕師の東海林家令嬢に対する非道徳的な扱いの数々も、調べさせていただきました。あと、ボクの友だちであり京也様のお使いをしたミケちゃんをいじめたりもしましたね? 雨水家は、我々天水家の監督下におかせていただきます。反省していただき、罪をしっかりと償ってもらいます」
 
「くそっ、くそっ、くそっ……」
 
 羅道は、甘やかされて育った坊ちゃんだ。
 自分の人生は恵まれており、常に勝ち組だと思っていた。なのに、今の状況はなんだ。

「さあさあ、過ごしやすい座敷牢を用意しました! そちらで大人しく今後の沙汰を待っていただいて。悪いようにしますから!」
「お、お前! こういうときは『悪いようにしない』だろうが!」
「は? 甘ったれるんじゃございませんよ」

 愛らしい犬彦の声は、氷柱(つらら)のように冷たく鋭い。

「これ犬彦。あまり(いじ)めすぎてはいけない」
「ですが父上。ここはガツンと……」 
 
 ――これから、自分たちはどうなるのだろう。
 考えるとゾッとする。母、知豆子が心中したがるのもわかる。
 転落人生だ。一生、世間から後ろ指を差されるのだ。

「どうしてこんなことに……! 僕は人生において勝ち組だったはずなのに……っ!」
 
 激しく叫びながら、羅道は自問自答する。
 怒りに身を焦がす気持ちが続く中、過去を振り返り始める。

(桜子、桜子……)
  
 こんなとき、あの娘がそばにいたら。
 お前のせいだ、お前が悪い、と無抵抗のあの娘を好き放題なじって、いじめて、ストレス解消できたのに。

 自分は、落ちぶれた。
 そして、自分が虐げていた桜子は、自分のものだと思っていた彼女は、この国でもっとも尊い天狗の皇族一族にもらわれて、幸せになってしまう。そこに羅道(らどう)の居場所はなくて――もしかしたら、羅道(らどう)のことなんて、すでに忘れているかもしれない!

(僕のものだったのに)
 
 ――後悔しても、もう遅いのだ。現実はどうにもできない状態になってしまった。羅道は涙目になって屈辱に全身を震わせた。

 握りしめた拳と拗らせた執着をどこにも向けることができないまま、羅道は牢へと追いやられた。

 

26、ボクがエスコオトいたしますので

 にゃんこ甘味店を救い、真実を知った日。

「ご褒美をもらい損ねた……いや、それどころでもないか」

 皇宮に着いた京也は桜子を撫でて、「おやすみ」と挨拶をした。

「今日は一緒に出かけることができて嬉しかった。きみが嫌でなければ、また出かけよう」

 赤い欄干の橋を並んで渡って、月を背負うようにして京也が微笑む。

「俺は数日取り込むが、桜子さんは自由に過ごしてほしい」

 その言葉通り、そのあと数日間、桜子は京也と会うことはなかった。

 * * *

 何回聞いたかわからないくらい、同じ言葉を聞かされる。毎日、毎日。
 
「京也様はお仕事が忙しくて、寝食も忘れて励んでいらして。本日もお会いできないのだそうですよ」
「そう……」  
 
 ちょっと、寂しい。
 けれど、そんな風に思ってしまう自分への戸惑いもある。
 
 桜子はキヨに髪を結ってもらい、リボンをつけてもらいながら、なんとなく溜息をつきたい気分でいた。
 キヨが周囲をきょろきょろと見てから、声をひそめる。

「桜子様。ご存じですか? でも、本日は京也様はにゃんこ甘味店にお出かけのご予定なのですよ」
「そうなの?」
「ええ、ええ。あやかし族の車夫が予定を話して準備をしていましたからね」

 キヨはコソコソと提案してくれる。

「桜子様の行動は自由なのでしょう? ご一緒してはいかがですか」

 桜子はまじまじとキヨの顔を見た。キヨは、母親のような保護者感のある笑顔を浮かべている。

「キ、キヨさん」
「待っているだけではなく、ちょっとした好機を逃さずにお会いする……最近の女性は、私が若い頃よりも積極的だと聞いています。『命短し、想い人には強気で押しかけよ乙女!』という言葉もあるというじゃないですか」
「そ、そんな言葉ある?」 
 
 行き先は桜子様が働かれていたお店ですし、と言いながら、キヨは桜子に上品な緑色のワンピースを着せてくれた。やわらかい生地のベレー帽と革靴をあわせると、洗練されたモダンガールという印象だ。ふわふわの筆で頬に薄紅をさし、淡くて自然な口紅で唇を色づかせ、キヨは「とっても可愛いですよ」と鏡を見せてくれた。

 さあさあ、と背中を押されて部屋の外に出れば、犬彦がちょうど文箱を抱えて通りかかるところだった。

「あっ、桜子様。わぁ、洋装がとてもお似合いで! かわい……あ、あっ」
 
 頭を下げた拍子に、犬彦が持っていた文箱がぽろっと落ちて、紙がひらりと落ちる。

「犬彦さん、こんにちは。京也様がお店に出かけられると聞いたので、もしよかったらご一緒したいと思って……あら?」
 
 足元に落ちた紙を拾った桜子は、目を丸くした。

『名を惜しむ私は、今日もあなたのことを秘めていますの。自分の罪深さを嘆きつつひとり寝る夜の希望といえば、あなたの素晴らしく頼もしさ。次お会いする日を待ち焦がれていますから、次こそはどうぞ私を落胆させないで。必ずよ。それでは、例のお店で。咲花より』 
 
 咲花からの手紙だ。
 しかも、これは――

(こ、恋文……⁉︎)

「あわわ、それはお仕事のお手紙でございますからして、はい! 忘れてください! 忘れてくださぁい!」

 犬彦があわてて紙を取り上げ、駆けていく。
  
「……」

 桜子はその背中を見て、キヨに視線を移した。キヨは文面を見ていなかったようで、「どうしたんです? なにか不穏なことが書いてあったんですか?」と心配そうにしてくれる。

「ううん。なんでもないの」

 キヨに心配をかけてはいけない。桜子は首を振り、京也の部屋を訪ねた。いつも部屋に籠っているのに、京也はいなかった。もう出発したあとなのだ。

(京也様は、二世乃咲花先生に会いに行ったのよね?)

 お仕事だ。そう思う一方で、「単なるお仕事であんなお手紙を?」という思いも湧く。

(私、どうしちゃったんだろう。なんだか、……やだ)

 しょんぼりしている。そんな気持ちを抱えながら、桜子はとぼとぼと自分の部屋に戻ろうとした。すると、ひょっこりと犬彦が柱の影から顔を出す。

「さ、桜子様!」
「あ、犬彦さん」

 チョコレヱト色の髪を揺らして近寄ってきた犬彦は、服を着替えていた。それも、夜会にでも出かけるような西洋衣装だ。
 
 大きなリボンつきのドレスハットに、首元に大きなリボンと、白いジャボ。シックなベストに後ろが長いテールコート、膝の見える半ズボンに、リボンのついた編み上げブーツ。細身の杖をついていて、西洋人形や小さな貴公子といった雰囲気の、格好良さと可愛さが同居した姿だ。
 犬彦はちょっと必死過ぎる感じの真っ赤な顔をして、ぺこんと頭を下げた。
 
「さ、さ、さきほどは! ボクがやらかしました! 京也様とおでかけなさりたいとおっしゃっていたのに、逃げてしまって! ボクが『いけない』と気づいたときには時遅く、京也様は気づかずに外出なさっていまして」

「あ、いえいえ、あの、……み、見てはいけないものを見てしまって、すみません……っ!?」

 桜子がおろおろと言うと、犬彦はキッと涙目で見つめてきた。

「あれは、ただのお仕事のお手紙でございますから!」
「あっ、は、はい」
「代わりに、お店までボクがエスコオトいたしますので! まいりましょう!」

 犬彦はそう言って、桜子を外に誘った。
 外にはうしまるが人力車と一緒に待機している。白い前髪で目元は隠れているが、口元は笑顔だ。ニカッと笑った歯が白い。

 二人乗りの人力車に座って、赤いひざ掛けをかけてもらい、移り変わる景色を鑑賞していると、犬彦は「二世乃というお姉さんは、悪いお姉さんではないのですが、ちょっと調子に乗っているなとボクなどは思うのでございます」と小声で教えてくれた。

「そうなの」
「ええ、ええ。まあ、京也様も困った方ではございますが、あちらも濃ゆい性格のお姉さんで! 変人同士で気が合うのかもしれませんが、……あっ、色恋の意味ではないのですよ⁉︎」

 ぺらぺらとしゃべってから、犬彦はちょっと焦ったような照れたような顔をした。
 きつね耳がぴこぴこと落ち着きなく動いていて、可愛い。

「ボク、色恋はあまりまだわからないのでございます」

 恥ずかしがるように言って、犬彦は微妙な声色になった。

「でも、桜子様とおでかけしていると、デートってこんな感じかな、とも思ったり――アッ、これも失言でございますね⁉︎ い、今のは、内緒にしてくださいまし!」

 初々しい風情で照れたりあわてたりしている犬彦は可愛くて、桜子はそっと声をひそめた。

「もちろん、内緒にします。ええと……私も、色恋はあんまりわからないのです」

 秘密を共有する温度で視線を交わしたところで、人力車が停まる。
 目的地である『にゃんこ甘味店』に着いたのだ。
27、会いたくて、来ました

 入店の鐘音を鳴らしてお店に入れば、奥の席にいた京也はすぐに気づいたようだった。狐のお面に手をかけて、ちょっとずらしてびっくりした様子でいる。

「なんか華族様みたいな二人連れがいらしたなぁ」
「見覚えあるぞ、二人とも」

 客たちが桜子と犬彦を見てヒソヒソしている。京也の席に近付くと、京也は二人を見比べるようにして首をかしげた。

「桜子さん、犬彦。どうしたんだ?」
「京也様。それが……」

 桜子は言いかけて、「私はどうしたんだろう」と冷静になった。

(京也様はお仕事なのに。私……なんて言うつもりなの? 『最近お会いしていなかったので、好機と思って会いに来ました』とでも?)

 と、もじもじしていると。
「桜子様は、京也様とご一緒したくてお店にいらしたのです」
 犬彦があっさりとばらしてしまっている! 
 
(きゃああああっ)
 羞恥に頬を染める桜子だが、京也はほんわかと夢と現実の区別を失っていた。
 
「ほう。これが限界を迎えた睡眠不足がもたらす幸福な夢か。悪くない。本人の声でセリフを言って欲しいものだな。『京也様に会いたくて来ました』とかどうだろう。言ってほしい」
 
 はっきりとわかる、半分寝惚けているような声だ。

「……桜子様、おっしゃってあげてくださいまし。事実なのですし」

 犬彦は困り顔で上目に桜子を見上げて、拝むように両手を合わせた。忠義者の気配が健気だ。桜子はおろおろとした。
  
「あ……会いたくて、来ました……」
 
「なんてかわゆいんだ。俺は今、幸せな夢の中にいる……」
 
 小声で言えば、京也は壁に頭を押し付けるようにして悶絶した。  

「よかったですね、京也様。これは現実でございますよ、京也様」
「今、恋文を書くから待ってくれ。まだ覚めないでほしい」
「口で伝えましょう、京也様。これ、現実でございますから」

 犬彦が周囲をウロチョロしながら京也に声をかけている。
 桜子は「どうしたんだい」と顔を覗かせる中田夫妻に困り笑顔を返して、どう事情を説明したものか頭を悩ませた。 
 
 ――からん、からん。
 そんな店内に、新たな入店を知らせる鐘が鳴る。
 
「見ろよ! 二世乃(にせの)咲花(さっか)だ」
 
 客たちが著名(ペンネーム)を呼ぶ女性は、有名人だ。
 洋風帽子をかぶった頭は孔雀の羽模様の髪かんざしを挿して耳隠しの髪型にしていて、両耳と首元には大粒の真珠の耳飾りとネックレスをしている。
 苔のような渋い緑色の袴に洋風の白ブラウスをあわせていて、その上から和風の羽織りものを羽織っている。足元は真っ赤な牛革のブーツだ。

「おーっほほほ! は~い、帝都の有名人、才女と名高いあたくしですわぁ」

 高笑いしながら札束を扇のようにして顔の近くでパタパタさせる彼女は、二世乃(にせの)咲花(さきか)――文学賞を受賞した人気女流作家だ。
 
 彼女の著書、『おお、大帝都にあやかしの旗は燃えて』は、高等学校から読書感想文の指定図書にされるほど評価されている。店内にいた客はみんな、彼女に注目した。
28、きみが笑顔で着てくれるなら、それが一番

 咲花(さっか)のそばには、白い日傘を手にした眼鏡の青年執事が寄り添っている。

「京也さん」
 
 咲花は迷わず京也のテーブルに近付いて、知人の温度感で名前を呼んだ。
 
「原稿を受け取りにまいりました。まさか書けていないなどとおっしゃいませんでしょうね?」
「ああ、二世乃(にせの)さん。書けていますよ」
 
 咲花が京也の向かいの席に座ると、執事は椅子の後ろに直立した。

 客がひそひそと噂している。

「さっき見えたんだが、『おお、大帝都にあやかしの旗は燃えて』の続編っぽかったぞ」
「二世乃咲花がゴーストライターに小説書かせてるって噂、知ってるか?」
「自力で小説書けないって聞いたことがある……」

 桜子が見守っていると、京也はふわりと眠そうな声を出した。

「さ、確認してくれたまえ。俺は眠い。それに、今から恋文を書くので」
 
 京也はテーブルに置かれた原稿用紙の束を目で示して、別の原稿を広げた。そして、咲花と話すことはない、とばかりに万年筆でなにかを書き始めた。

 見守っていた桜子は、「うっ」と身を強張らせた。
 
『かわゆい。かわゆい。とりあえずかわゆい。よし、かわゆい。とてもかわゆい。やったぞ、かわゆい。はぁっ……結婚する』
 
「こちらですわね。どれどれ……なんですの、その怪文書……脳が蕩けてません? (こわ)……ま、まあ、そちらは仕事と関係ないですし、いいですわぁ……」
 咲花は軽く恐怖を覚えたような目で怪文書を見てから、テーブルに置かれた原稿を読み始めた。 
 
「桜子は薄紫色の着物を手に取り、豪華な刺繍と柔らかな絹地に驚きの表情を浮かべた。こんな贅沢なもの、本当にいいのかしら……」
 
 小声で読み上げる内容に、桜子はびくっとした。
(さ、桜子? まさか? その登場人物は……っ?)
 
「ま、待って……誰よこの女。前回お話したとき、変な登場人物を増やさないでと申しましたわよね?」 
 咲花の手が震えて、声が裏返る。
「あたくしの発注書には新しい登場人物、それも女の登場人物の予定なんてなかったですわよねっ?」

 店内の客たちは興味津々で耳を澄ませている。何人かが桜子に視線を向けたりもしている。

「あの娘さんも桜子さんって呼ばれてた」
「モデルだったりして」
 
(……わぁぁっ⁉︎) 
 桜子は穴があったら入りたい気分になった。京也はそんな周囲をまったく気にする様子なく、うっとりとした声だ。半分、夢の中にいる。

「可愛いだろう? 俺も桜子さんとデヱトがしたい。デヱトで俺は言うのだ。『桜子さん、きみが笑顔で着てくれるなら、それが一番の贅沢だよ。きみの笑顔が、どんな着物よりも輝いて見えるから』――と。すやぁ……」
「俺ってなによっ! あっ、ちょっと⁉︎ 寝ないでくださる~~っ⁉︎ 京也さーん!」
「うむ。俺は俺だが、なにか」
 
 京也は咲花の形相に気付いていないのか、それとも気付いていても気にしていないのか、満足そうな顔だ。
 
「咲花さん、どうだろう。俺の嫁、可愛くないか」
「お黙りッ」
「あっ」 
 
 我慢の限界を迎えたのだろう。 
 咲花は怒りに満ちた声をあげ、京也の頭にぱしゃりとコーヒーをかけた。帽子がコーヒーに濡れて、その下の髪と額に滴が垂れる。

「ひえぇ、なんてことを」 
 
 京也が天狗皇族だと知っている中田夫妻は真っ青な顔色になった。桜子もびっくりだ。
 素性を知らない客は単に「修羅場だー!」と声をあげ。
 忠実なる京也の従者のはずである犬彦は「京也様が悪いですね」と呆れた顔をした。
 
「なんですっ、この原稿⁉︎ あたくしが依頼したのと違う展開じゃないの! 桜子なんて登場する予定のない登場人物を勝手に生やして! あなたが登場人物を増やしたいと熱弁なさるから仕方なく『いいですわよ』と言いましたけど、あたくしは『増やすなら美男子にして』と頼みましたのよ!」
 
 全員が固唾を呑んで見守る中、京也は濡れた帽子を脱ぐことなくおおらかに微笑んでいた。
 
「登場人物が生えるという表現はいいね。桜子さんが地面から生えてくるところを想像すると大地がいとしくなる。よし、大地を讃頌(さんしょう)しよう」
「……おばかっ」

 咲花は立ち上がり、原稿を京也の前でびりびりと破いて床に捨てた。
 
「絶望しました。京也様。今後はあなたの仕事はありません! 契約違反に基づく補償と損害賠償請求をさせていただきますから、覚悟することね!」
 
 咲花が憤然と店を出て行く。その後ろを、執事があわてて後を追いかけていく。
 
「失礼いたします、お邪魔いたしました――お嬢様、お嬢様。お待ちください……」

 店内には微妙な空気が数秒訪れた。

(あ、あら? これって、京也様がピンチなのでは?)
 
 もちろん、京也は咲花から仕事を切られても、訴えられても痛くもかゆくもなさそうだ。なにせ、その正体は天狗皇族なのだから。
 そう思う一方で、目の前でコーヒーを滴らせる京也には人間らしい哀愁のようなものがあるように桜子には見えた。色眼鏡の奥の瞳は、間違いなく咲花の言葉を残念に感じているように見えたのだ。

(それに、本の続きは? 続きを待っているたくさんの人がいるのでしょうに)  

「京也様……!」
 桜子はハンカチを取り出し、京也の髪や額、帽子の水気(みずけ)を拭った。
 
「頭からコーヒーをいただくというのは、新鮮な体験であった。目が醒める心地がした……あれ? これは現実化?」
「熱くなかったですか? 帽子、脱いだほうが……」
「代わりに頭にマフラーを巻いてみようか。不審度が上がるぞ――ところで桜子さん、なぜここに。ここはどこだ? 俺は今起きているか?」
 
 京也はコーヒーをかけられて原稿を破いて捨てられても、あまり気にしていないようだった。と、いうか、夢と現実の境目にいる。

「これは現実です。京也様は原稿を渡しにお店に来られて、わ、私は、京也様のお供でお店にいます……」
「会いたくて来た、とは言ってくれないのか?」
「っ!」

 物欲しそうに言われて、桜子は赤くなった。京也はそんな桜子に「さっきのは結局、夢だったのだろうか」と首をひねりつつ、咲花が出て行った扉を見た。
 
「彼女、続編どうするのだろう。まあ、他にもゴーストライターがいる様子だし、なんとかなるのだろうか」
「ほ、他にもいらっしゃるのですか」
 
 京也は恐ろしいことを言いながら、「桜子はどう思う」と意見を求める。
 
(どう思う、とおっしゃられても……?)
 
 桜子は原稿を複雑な気分で拾い上げた。原稿は破かれて、ボロボロだ。

「あの……さきほどのお話ですと、ご依頼内容を無視してご自分の書きたいことを書いてしまったと……」
「まあ、そうなる」

 意見を求める視線に、桜子はどきどきした。
 これが羅道だったら、機嫌を悪くすることを恐れてなにも言えないところだ。
 けれど、京也は意見を言っても怒ったりしない。聞いてくれる。そんな確信が桜子にはあった。
 
「お仕事なのですし……お相手の方にお願いされた内容を書いたほうがよいのでは」
「そうだな。二世乃さんに頼まれた内容とは違うな、喜ばないであろうな、と頭の隅で理解していた気がする」
  
 事実を確認していくと、京也は決まり悪そうな顔になった。

「まあ、普段から好みの不一致みたいなところはあって、こういうのは今回が初めてでもないのだが……どちらが悪いかといえば、俺が悪い。うん……書き直すか」
 
 万年筆を執ると、京也は新しい原稿をテーブルに広げて手を動かし始めた。文字が原稿用紙を埋めていく。周囲には、「書き直すらしいぞ」と見世物のように見物する客たちが集まった。

「あ……私は、咲花様に事情をお話してみますね」
 
 桜子は捨てられた原稿を持ったまま、中田夫妻に断りをいれてから店の外に出た。

 京也は怒らなかった。ちゃんと聞いてくれた。
 それに、それに。

「二世乃さんは、なあ。悪い方ではないのだが、正直、合わないところがあるのだよなあ」
「あちらさまもそう思っていらっしゃると思いますよ、京也様。お互い様という言葉をご存じですか~?」
「犬彦はなぜそんなにめかし込んでいる?」
「あっ、これは……エスコオトするのにふさわしい衣装をと思い……」
「え、す、こ、お、と?」
 
 聞いている感じ、咲花とは特別な関係ではなさそうだ。
 
「あるじさま、おもったこといって、えらかった!」

「もみじちゃん、ありがとう」

 もみじの声に微笑み、桜子は心に誓った。

(京也様が書かれるなら、私はその原稿がちゃんと受け取ってもらえるように咲花さんを説得するわ)
 
 お世話になった恩返しのようなものだ。そう思えば、桜子の胸にはいくらでも勇気が出てくる気がした。