15、庭の掃き方の才能があるといわれたのは、はじめて
地平線から太陽がのぞき、上を目指して空を明るく照らしていく。
「働かざるもの食うべからず、何もしなくても時間は過ぎる、お腹は空く。ご飯は無料ではありませ――――はっ……!」
桜子が目が醒めると、まだ早い時間だった。
目覚めた部屋が雨水家の部屋ではなかったので、桜子は心から安心した。
一日眠った体と頭はすっきりしていて、調子がよい。もみじが二度寝を勧めてくるが、桜子は落ち着かない気分で起き出した。
「あるじさま、あさ、いつもおなじこと言うのね!」
「あ、あはは……癖なの。あのう……なにか、お手伝いすることはありませんか」
朝のお決まりの一言は、自分を奮い立たせるために唱えているのだ。
雨水家では暇さえあればなにかしていた。なにもしないで贅沢を享受していい、と突然いわれても、心身がついていかない。
撫子柄の単衣に腕を通し、帯を締めてもらう。帯どめ飾りは、どんぐりの七宝焼きだ。
髪はおさげに結ってもらった。リボンには、ちりめん細工の花飾りと、薄紫の葡萄の房みたいなびいどろ飾りがついている。
まんまるの鞠みたいな和玉かんざしを挿してもらうと、もみじがかんざしの上にひらりと留まった。
「あるじさま、なーんにもしなくていいのよ」
「お庭を歩かれてみてはいかがですか」
もみじとウサ子が言うので、桜子は庭に出てみた。
庭師が竹箒で地面を掃いている。よく見ると竹箒には目がついている……。
「おはようございます。もしよろしければ、お手伝いしてもよろしいでしょうか」
桜子が言うと、庭師はぎょっとした顔をした。ウサ子は「身体を動かすのは健康にいいですからね」とくすくす笑って、「お手伝いしたい気持ちを無理に我慢するのもよくないでしょう」と言ってくれた。
「あーそこそこ。いいねえ。その掃き方。いいよ、才能があるね」
「ありがとうございます。竹箒に庭の掃き方の才能があるといわれたのは、初めて……」
竹箒はおしゃべりだった。
かさ、かさと耳に心地いい音を奏でて、紅葉と桜の花びらを一緒にまとめる。秋と春が一緒になったような、ふしぎな心地。
「あるじさま、おそうじすごい」
「ふしぎですね、あっという間にこんなに……」
もみじとウサ子が驚いた声を合わせるのは、あれよという間に庭がピカピカになったからだ。
「すごいなお嬢ちゃん。おれと一緒にあやかし界の庭掃除キングを名乗ろうぜ」
「なんですか、それは」
竹箒も大興奮だ。
そこに、ぱたぱたと折り鶴が飛んでくる。
「京也殿下が、食事を一緒にいかが、と仰せです。いかがなさいますか?」
折り鶴を指先に留めたウサ子が問いかけるので、桜子は頷いた。
「はい。ご一緒したいです」
ウサ子は「京也殿下がお喜びになります」と優しく微笑み、折り鶴を飛ばし返した。
自室に戻って待っていると、部屋に京也がやってくる。
どことなく眠たげだ。大柄な霧立涌模様の着流し姿で、手には原稿用紙を抱えていた。
「やあ。おはよう。体調はいかがかな」
「おはようございます、京也様。おかげさまで、とてもよいです。お仕事をくだされば、なんでも頑張ります」
「それはよかった。お仕事は俺の話し相手などがおすすめだよ。ところで、朝の挨拶をしてもいいだろうか」
「挨拶?」
それは今したではないか。意味を問おうとした桜子の顎に京也の手がそえられて、自然な所作で軽く上を向けられる。
なんだろう、と思って瞬きする間に、京也の整った顔が近づいていた。
まつげが長い。と思った直後に、吐息をかすめるようにして頬に口付けが落とされる。
「……!?」
「愛しい人へのおはようの挨拶だよ。俺は、これを毎朝したい……ふふ、顔が林檎のよう。食べてしまいたい」
ばさりと原稿用紙の束を床に落として、京也は可愛らしくてたまらないといった顔で桜子を抱きしめた。背中の羽がふぁさふぁさとはしゃいでいる。
「きょうやさま、たべちゃだめ~」
もみじがぷんぷんと抗議している。
あやかし族の「食べる」というのは、ごはんみたいにもぐもぐと栄養にされるのだろうか。それとも?
桜子が抱擁に動揺していると、視界の隅で初めて見る少年が原稿用紙を拾い上げ、京也にぺしんと投げつけるのが見えた。
「お食事するのではなかったのですか。あまりお相手のお気持ちを考えずにぐいぐい迫りすぎると、嫌われますよ」
「むっ」
少年は、きつね耳と尻尾をした妖狐だった。
チョコレヱト色の髪を揺らしてお辞儀する姿は、元気がよくて利発な印象。古風な水干に似た衣装を着ていて、頭を撫でたくなる雰囲気だ。
少年の遠慮のない物言いに、京也は無礼だと咎めることなく「嫌われるのはいやだ」と呟いて桜子を放した。
「桜子さん、この妖狐は俺の侍童で、天水犬彦という。きつねなのに犬彦という名前で、おかしいだろう。天水家の当主は名付けの感性が変わっているので有名でな」
「余計なお世話でございます。ボクは犬彦という名前が気に入っているのでございます」
「んっ、そうか。それは俺の失言だった。親からいただいた大切な名前をけなしてしまって、悪かったな」
「京也さまは偉いご身分なのですから、軽はずみに失言なさったり、謝ったりしてはなりません」
「うん、うん」
京也の声には弟を可愛がるような響きがあって、犬彦はお兄さんに反発する弟みたいにも見える。桜子は微笑ましく思った。
地平線から太陽がのぞき、上を目指して空を明るく照らしていく。
「働かざるもの食うべからず、何もしなくても時間は過ぎる、お腹は空く。ご飯は無料ではありませ――――はっ……!」
桜子が目が醒めると、まだ早い時間だった。
目覚めた部屋が雨水家の部屋ではなかったので、桜子は心から安心した。
一日眠った体と頭はすっきりしていて、調子がよい。もみじが二度寝を勧めてくるが、桜子は落ち着かない気分で起き出した。
「あるじさま、あさ、いつもおなじこと言うのね!」
「あ、あはは……癖なの。あのう……なにか、お手伝いすることはありませんか」
朝のお決まりの一言は、自分を奮い立たせるために唱えているのだ。
雨水家では暇さえあればなにかしていた。なにもしないで贅沢を享受していい、と突然いわれても、心身がついていかない。
撫子柄の単衣に腕を通し、帯を締めてもらう。帯どめ飾りは、どんぐりの七宝焼きだ。
髪はおさげに結ってもらった。リボンには、ちりめん細工の花飾りと、薄紫の葡萄の房みたいなびいどろ飾りがついている。
まんまるの鞠みたいな和玉かんざしを挿してもらうと、もみじがかんざしの上にひらりと留まった。
「あるじさま、なーんにもしなくていいのよ」
「お庭を歩かれてみてはいかがですか」
もみじとウサ子が言うので、桜子は庭に出てみた。
庭師が竹箒で地面を掃いている。よく見ると竹箒には目がついている……。
「おはようございます。もしよろしければ、お手伝いしてもよろしいでしょうか」
桜子が言うと、庭師はぎょっとした顔をした。ウサ子は「身体を動かすのは健康にいいですからね」とくすくす笑って、「お手伝いしたい気持ちを無理に我慢するのもよくないでしょう」と言ってくれた。
「あーそこそこ。いいねえ。その掃き方。いいよ、才能があるね」
「ありがとうございます。竹箒に庭の掃き方の才能があるといわれたのは、初めて……」
竹箒はおしゃべりだった。
かさ、かさと耳に心地いい音を奏でて、紅葉と桜の花びらを一緒にまとめる。秋と春が一緒になったような、ふしぎな心地。
「あるじさま、おそうじすごい」
「ふしぎですね、あっという間にこんなに……」
もみじとウサ子が驚いた声を合わせるのは、あれよという間に庭がピカピカになったからだ。
「すごいなお嬢ちゃん。おれと一緒にあやかし界の庭掃除キングを名乗ろうぜ」
「なんですか、それは」
竹箒も大興奮だ。
そこに、ぱたぱたと折り鶴が飛んでくる。
「京也殿下が、食事を一緒にいかが、と仰せです。いかがなさいますか?」
折り鶴を指先に留めたウサ子が問いかけるので、桜子は頷いた。
「はい。ご一緒したいです」
ウサ子は「京也殿下がお喜びになります」と優しく微笑み、折り鶴を飛ばし返した。
自室に戻って待っていると、部屋に京也がやってくる。
どことなく眠たげだ。大柄な霧立涌模様の着流し姿で、手には原稿用紙を抱えていた。
「やあ。おはよう。体調はいかがかな」
「おはようございます、京也様。おかげさまで、とてもよいです。お仕事をくだされば、なんでも頑張ります」
「それはよかった。お仕事は俺の話し相手などがおすすめだよ。ところで、朝の挨拶をしてもいいだろうか」
「挨拶?」
それは今したではないか。意味を問おうとした桜子の顎に京也の手がそえられて、自然な所作で軽く上を向けられる。
なんだろう、と思って瞬きする間に、京也の整った顔が近づいていた。
まつげが長い。と思った直後に、吐息をかすめるようにして頬に口付けが落とされる。
「……!?」
「愛しい人へのおはようの挨拶だよ。俺は、これを毎朝したい……ふふ、顔が林檎のよう。食べてしまいたい」
ばさりと原稿用紙の束を床に落として、京也は可愛らしくてたまらないといった顔で桜子を抱きしめた。背中の羽がふぁさふぁさとはしゃいでいる。
「きょうやさま、たべちゃだめ~」
もみじがぷんぷんと抗議している。
あやかし族の「食べる」というのは、ごはんみたいにもぐもぐと栄養にされるのだろうか。それとも?
桜子が抱擁に動揺していると、視界の隅で初めて見る少年が原稿用紙を拾い上げ、京也にぺしんと投げつけるのが見えた。
「お食事するのではなかったのですか。あまりお相手のお気持ちを考えずにぐいぐい迫りすぎると、嫌われますよ」
「むっ」
少年は、きつね耳と尻尾をした妖狐だった。
チョコレヱト色の髪を揺らしてお辞儀する姿は、元気がよくて利発な印象。古風な水干に似た衣装を着ていて、頭を撫でたくなる雰囲気だ。
少年の遠慮のない物言いに、京也は無礼だと咎めることなく「嫌われるのはいやだ」と呟いて桜子を放した。
「桜子さん、この妖狐は俺の侍童で、天水犬彦という。きつねなのに犬彦という名前で、おかしいだろう。天水家の当主は名付けの感性が変わっているので有名でな」
「余計なお世話でございます。ボクは犬彦という名前が気に入っているのでございます」
「んっ、そうか。それは俺の失言だった。親からいただいた大切な名前をけなしてしまって、悪かったな」
「京也さまは偉いご身分なのですから、軽はずみに失言なさったり、謝ったりしてはなりません」
「うん、うん」
京也の声には弟を可愛がるような響きがあって、犬彦はお兄さんに反発する弟みたいにも見える。桜子は微笑ましく思った。