12、うれしさをお返ししたい
朝になって、桜子は可愛い部屋の天蓋付き洋風ベッドで目を覚ました。
「働かざるもの食うべからず、何もしなくても時間は過ぎる、お腹は空く。ご飯は無料ではありません、起きなきゃ。寝てはだめ。起きなきゃ――あれっ? ここはどこ? ……あ~~っ!」
目を覚ましてから、昨夜の出来事を思い出す。
「い、今、私は現実の中にいるの? これ、夢じゃないの?」
桜子は冬眠明けのクマのように部屋を徘徊した。
部屋は、「いそいで年頃の女の子が好みそうなものをかき集めて飾りました」という雰囲気だ。広い。とにかく広い。そして、明るくて、華やか。
フリルやレースを贅沢にあしらった花柄のカーテン、クッション、ベッドカバーは明るい色合い。絨毯は厚くて、毛足が長くて、ふかふか!
文机には乙女心をキュンとさせるデザインの便箋や、筆記用具が甘美されている。
壁際には巨大なクマのぬいぐるみがドンッと置かれていて、鏡台には化粧道具が並んでいる。
資生堂の七色粉白粉に、輸入品のメイベリンのマスカラ、アイシャドウ。
青い小瓶は桃谷順天館の美顔水、天野源七商店のヘチマコロン、『資生堂の赤い水』と呼ばれる高等化粧品のオイデルミンに、天仁堂のウテナクリーム、オペラ口紅もある――世の中にあるもの全部集めました、と言われても信じてしまいそうなくらい、充実している。
「およめさま、さくらこさま、あるじさま。おきた~! わぁ、わぁ、わーい」
可愛らしい声で、一生懸命に礼儀正しく挨拶してくれるのは、もみじだ。
ひらたい葉っぱの体で、目と口をにこにこさせている。可愛い――桜子はつられて頬をゆるめた。
「もみじちゃん、……おはようございます」
「おはようございま~す! じょちゅうさん、よびますの~」
ひらりと戸口のほうに飛んで行ったもみじは、「おきました、おきました~!」と外に桜子の起床を伝えた。少しすると、うさぎ耳のあやかし女中さん、ウサ子がやってくる。
「本日は、学校はお休みの連絡を入れております。このあとのご予定といたしましては、お食事のあとで体調を医師に診察していただくことになっています」
ウサ子は銘仙着物の袖をひるがえして深々とお辞儀し、部屋について説明してくれた。
「雨水家について確認いたしましたところ、西洋風のお屋敷にお住まいのご様子でした。ならば、桜子様は洋風のお部屋に慣れておられるのかと思いまして、和洋室を整えましたしだいでございます。お好みに合いましたでしょうか」
「は、はい。素敵なお部屋で、私にはもったいないくらいで……」
ウサ子は続けようとした言葉をとめるように自分の人差し指をたて、桜子の唇にあててみせた。
「っ?」
「桜子様によくお似合いのお部屋です」
もみじが可愛らしい声で「もったいなくないの」と言ってくる。
「あ……ごめんなさい」
「謝る必要はございません。ベッドも布団も用意しておりますゆえ、本日以降はお好きな方をお選びいただき、ごゆっくりお休みください。桜子様は、京也様の大切な客人でございますから」
ウサ子はそう言って、着替えを手伝ってくれた。良家のお嬢様が身にまとうような上質な花車柄の友禅着物だ。髪も、丁寧に櫛で梳いてくれる。他人に世話されるのに慣れてなくて、桜子はもじもじした。
「本日は半結びにしましょうか? 三つ編みおさげにしましょうか? マガレイト、耳隠し、ラジオ巻き……流行りの束髪はひととおり、心得ておりますよ」
京也といい、ウサ子といい、「どうしましょうか?」と桜子の意思を尋ねてくれる。
「あの……半結びでおねがいします」
「はい、かしこまりました。半結びにいたします」
ウサ子は優しく髪を整え、大きなリボンを飾ってくれた。白い蝶々の模様が入った萌黄色の大きなリボンの上に赤いリボンが重ねてある、可愛らしいデザインだ。
もみじがひらりと飛んで、リボンの上にちょこんと乗ると、髪飾りの一部になったみたい。
鏡で後ろ姿を見せてもらって、桜子は髪飾りの可愛らしさにキュンとした。同時に、どこか特別な場所に出かけるわけでもなく、食事をして医者に診てもらうためだけなのに、こんなに上等な衣装でおしゃれをさせてくれることに、びっくり。恐れ多い感じがする。
「朝食をお持ちします。そのあと、医師がまいります」
「は、はい」
「必要なことがあれば、なんでもお申し付けくださいませね」
ウサ子はうさぎ耳をぴょこりとさせた。目はきらきらとしていて、「手伝いをしたくて仕方がない」って顔だ。
部屋の隅にある大きな金魚鉢の中で、金魚がスイスイと泳いでいる。その泳ぐ姿がとてものびのびしていて、桜子は癒された。
食事のあと、診てくれたのは三つ目のあやかし女医だった。
「慢性的な栄養失調ですね。睡眠不足と過労でもあります」
女医は健康状態や治療方法について丁寧に説明し、栄養補助食品と睡眠導入剤を処方してくれた。また、栄養士の指導に基づき、今後の栄養バランスの良い食事プランも立ててくれるという。
「栄養をしっかり摂って、本日は一日お休みください……」
女医の診察のあと、説明をきいたウサ子は「おいたわしいことです」と同情的に言って、寝支度を手伝ってくれた。
「薬湯風呂も沸かしております。おやすみ前に漬かっていただくのがよろしいかと思ったのですが、いかがでしょうか?」
また「いかがでしょうか?」だ。
桜子はだんだん、慣れてきた。
「はい。お風呂、はいりたいです」
年頃の乙女としては、やはり体を清潔にしていたい。恥じらいながら言えば、ウサ子は優しくお風呂のお世話をしてくれた。
旅館の大浴場みたいな巨大な湯舟にたっぷり揺れる薬湯風呂は、きれいな黄緑色の濁り湯だった。よい匂いがして、ぬるっとした触り心地だ。
人の手で体を洗ってもらうのは慣れなくて、恥ずかしい。
でも、全身をお湯につけると浮力を感じて、ゆらゆらと揺れる湯の中でもみじが可愛い声で歌を歌うのを聞いていると身も心もほどけていくみたい。
お風呂から上がると、清潔で肌触りのよい寝巻きに着替えさせてくれる。
処方されたお薬を飲んで、桜子はふかふかのベッドに横になった。
「ゆっくりお休みください、桜子様」
「おやすみ、さくらこさま」
ウサ子ともみじの声がきれいに揃う。
日が高いのに、果たして眠れるだろうか、と思ったが、寝心地のよいベッドのおかげで眠れそうな気がしてくる。
「……おやすみなさい。ありがとうございます」
長い年月でつちかわれた「自分が下等な存在」という意識が根深くて、お世話されたり優しくされるのが恐れ多い気がする。
「あの。お食事代。診療代。お薬代、お部屋代。衣装代も、なにから、なにまで……働いて、お返しします」
「あら、あら」
ウサ子が目をまんまるにしている。
「桜子様は、そんなご心配をせず、お健やかにおなりくださいまし」
声はやさしくて、桜子はそっと頷いた。
(こんな素敵なお部屋が私のお部屋なのですって。いっぱい食べて、眠るのですって)
『我ら天狗の一族が統治するこの帝国では、未成年者は大切にされるべき存在だ。大人たちに守られて、すこやかに成長する時期なんだ』
――京也の声が、脳裏によみがえる。
(お父さま、お母さま……桜子は、ゆっくり眠ってよいのだそうです……)
外で振り続ける雨音が、耳に心地よい。
疲労感が全身を浸してくる。
(ああ……これが長い夢なら、どうかずっと醒めないで)
これがもし長い夢で、目が醒めたとき、今度こそ見慣れた雨水家の天井だったら?
そう考えると、桜子は怖くなった。
けれど、もみじが愛らしい歌声で子守唄を歌ってくれているのがぼんやりと聞こえて、怖い気持ちが優しく追い払われていく。
(私、もしこれが夢じゃないなら。ただ守られて、甘やかされるだけではなく、ちゃんと感謝して、ご恩返しをして、私がもらった嬉しい気持ちと同じような嬉しさをお返ししたい……)
桜子は眠りの淵に意識を沈めていった。夢は、見なかった。