彼は人の往来にぶつかっては”ああ、すみません””おお、ごめんなさい”と繰り返している。

 何だかそれが申し訳なくて、私は肩に掛けたトートバックからペンケースを取り出し、中からカッターを出した。

「切っちゃってください」

 その空色のカッターを彼に渡す。
 もう、いいんだ。
 こんな日にこんな目に遭っているのだから、髪の毛の一房二房、なくなっても……そんな気持ちでいた。

「あ、うん」
  
 相手は難なくカッターを受け取る。
 その口許に散らばる、小さなホクロを見て”あ、この人知ってる……”と私は認識した。


「切ったよ」
「すみませんでした」

 見れば、切られたのは私の髪の毛ではなく。彼のボタンの糸だった。

 ……何で?
 何で、自分のコートのボタン、切っちゃったの?

 その優しさに、凍える心は触れて。
 私は、とくとくと涙を流していた――。

「え? え? どうした?」
 彼は戸惑った様子で、私にずいずいと顔を近づけてくる。