足早に厩へと向かい、愛馬に飛び乗った。
ヤケになって強く手綱を引けば美しい白馬は大きく嘶き、王都の街に続く山道を駆け出した。
——俺だってエリーを愛してる……! 誰よりも強く、心から。
夜風に変じた冷たい風がアレクシスの火照った頬を撫でる。
こんなに急がずとも良かった。だが言いようのない重みに胸が押しつぶされそうで、気を紛らわせようと必要以上に馬の足を早めてしまう。
胸に重くのしかかるのは、アレクシスが生まれて初めて感じた猛烈な嫉妬心であった。
——もしもあの男がエリーの異能を発現させたのだとすれば、俺のこれまでの苦悩は……何だった……?
ふれたいと思う愛しさも、ふれられたいという願いも全て押し殺してきた俺の苦悶は、いとも簡単に砕かれてしまったというのか。
ましてや相手は疑惑のかかる胡散な男だ。
このまま奴に関わっていればエリアーナの身に危険が及ばぬとも限らない。
宵闇に向かって馬を走らせながら、アレクシスは心の内で叫ぶ。
—— エリーを愛せるのは俺だけだ……!
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クロード。
エリーは旦那様を傷つけてしまいました。
悲しませてしまいました。
旦那様がお屋敷の改善の役目をくださり、無能嫁の私でもジークベルト家にいる意味を与えてくださったのに。
初めて優しい言葉と笑顔を向けてくださったのに。
旦那様を、ひどく失望させてしまいました。
エリーは「不貞」を犯しました……旦那様の激昂は当然です。
旦那様の顔が離れなくて、涙があふれてとまらないの。
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アレクシスは書卓に額がつくほど項垂れた。
朝陽が潜んだ山の端が明るみを帯び始めている。
明け方に届いた手紙には、四角く小さく切り取られた紙面を埋めるようにびっちりと文字が綴られていた。
こんな手紙が来ることは滅多にない。インクが滲んでいるところはエリアーナが溢した涙のあとなのだろう。
「泣いている」のだと書かれていたのも初めてだ。
真っ白な魔法鳩が丸い目でまばたきをしながら心配そうに眺めている。
足元に寝そべっていたドーベルマンのマルクスも、主人の異変に気付いてクゥン? と眠そうな顔を上げた。
「……やはり、そうか」
手紙にははっきりと「不貞を犯した」と書かれていた。
「エリーはあの男を……」
溢れんばかりの愛情をろくに示せぬまま、エリアーナを奪われた失望もさることながら。
何よりも案じるべくはエリアーナ自身も気付かぬところで『王の眼』の異能が発現している可能性についてだ。
——もしもそうなら、異能の発現をどこまで隠し通せる?
エリーを『王の眼』として王宮になど上げるものか……!
アビス一族の娘を娶ったアレクシスが妻の異能の発現を隠していたと発覚すれば、当然、重大事項の隠蔽と国王を欺瞞した罪を問われるだろう。
「だとしても、俺はどうなったっていい……エリーを守ると決めたのだ」
先ずは『王の眼』発現の事実の有無を確かめねばなるまい。
問題はどうやってそれを知るかだ——。
「随分と早起きね? また怖い顔をして、いったいどうしたの?」
起き抜けのアルマから香油が薫った。
エリアーナなら絶対に使わぬと思える、麝香の強い香りだ。
夜着を着崩したアルマは書卓を睨むアレクシスの背中に腕を回し、寄りかかるようにして背後から抱きしめた。
「なんなら、この身体で慰めてあげてもよくってよ? いくら私が治癒魔法を使えると言っても、治せるのは身体の傷だけですもの」
猫なで声で耳元に囁くアルマの腕を、アレクシスはゆっくりと引きはがす。
「よしてくれ。君とは《《そういう関係》》じゃないだろう」
「あら、そういう関係って、どういう関係? 私はれっきとしたアレクの《《愛人》》のつもりよ?」
「それは……ッ」
「エリアーナとかいうあの娘がお屋敷に来ると決まった日、『そういうことにして欲しい』って言ったのは、アレク、あなたでしょ?」
アルマが言ったことは正しい。
アレクシスは目を閉じて鼻で大きく息を吐いた。
結婚したにもかかわらず新妻と寝室を共にしない——エリアーナと両親を納得させるためには、情婦、つまりは「愛人」の存在が必要だった。
「私はっ、あなたが困っていたから助けてあげたの。あなたには父が亡くなってからもここに住まわせてもらっている恩がある。
あなたは今でも、目も合わせたくないほどあの娘を嫌悪してる……だから私を「愛人」に仕立てあげて、私を隠れ蓑にあの娘との関係を絶っているのでしょう? なにか違ってる?!」
「アルマ……。俺はどうやら、君に間違った理由を植え付けてしまったようだ。妻を避けているのは嫌っているからじゃない。別の……事情があるんだ。俺の身勝手に君を巻き込んでしまったのは、本当に申し訳ないと思ってる」
「嫌いじゃないのなら、どうして奥様を避けるの?! 事情ってなに? わけがわからない。私をここに置いてるのも、ただ「愛人」の存在が必要だったから? そうならそうと、はっきり言って頂戴……っ」
アレクシスは身体を回してアルマに向き合い、泣き出しそうになりながら俯くエメラルドの瞳を真摯に見つめた。
「そうじゃない。有能な医師である君は、この屋敷に必要な人だからだ」
「気休めはよして。……そうよね、私の父はアレクの命の恩人だものね? あなたが父の遺言を背負って苦しんでるのは知ってる。恩人の《《頼み》》を無碍にできない人だってことも。
でもその事と私の個人的な想いは別物なの……。私は聖人君主じゃないのよ? 嫉妬だってする。仕方がないじゃない、アレクのことが、好きなんだから」
「言ったはずだ。俺は君の気持ちには応えられない」
「どうして……? 奥様とはうまくいってないのでしょう? ねぇ……私じゃだめなの? 偽りの愛人でもいい。あなたのそばにいられるのなら」
アレクシスの青灰色の瞳が怜悧な光を宿す。嘘偽りのない真摯な眼差しをアルマに向けると、はっきりと明言するのだった。
「俺は妻を……、エリアーナを愛しているんだ」
*
夜の帷はすっかり降りて——。
窓際の書卓は青白い月明かりに照らされている。卓上に飾った薔薇の花びらが一枚、また落ちた。
「……ルル、ねぇ、ルルってば……どこにいるの。居たら声を聴かせて?」
エリアーナが窮地のさなかにいると言うのに、うさぎの縫いぐるみは揺すぶっても叩いてもピクリとも動かない。
守護妖精のルルは、ここ数日ずっと沈黙を保ったままだ。
「ルルは、今度も助けてくれないのね」
アンには申し訳ないと思ったが、どうしても学園に足が向かず、赤く腫らした目を氷嚢で冷やしながら一日中ベッドの上で過ごした。
半日経ってようやく戻った鳩便には、いつになく筆圧の弱い文字が並んでいた。
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君が悪いのではないよ、自分を責めないで。
エリーがどれほど誠実で真面目なのかを私は良く知っている。
君の夫が激昂するとしたら、そんなエリーを不貞にまで追い込んでしまった不甲斐ない自分に腹を立てているのだと思うよ。
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優しい言葉は、エリアーナを追い詰めないためのクロードの気遣いに違いない……そう思えば、ますます惨めで辛くなってしまう。
一方的にとはいえレオンにキスをされたのは、アレクシスから見れば立派な「不貞」であろう。
——手紙を読んで、クロードも私にがっかりしたでしょうね?
心臓をぎゅっと掴まれるような痛みを感じて、エリアーナの頬にまた涙が伝う。雨模様の心にたちこめた黒い霧はくすぶる疑問を浮き立たせた。
——「不貞」を犯した私を怒るのはわかります。
でも、あんなに悲しそうな顔をするなんて……。旦那様が愛しているのは、アルマ様のはずなのに。
指先をそっと唇にあてた。
アレクシスに今までまともに触れられたことはなかった。なのに突然——結局、《《未遂》》に終わったけれども。
「くちづけされるかと……っ」
唇と唇がふれあうほどに近づいた瞬間を思えば、腹の奥が甘くくすぐられる。
火照った頭を冷やそうと、エリアーナがバルコニーに出ようとしたその時だ。
「若奥様、ご就寝前に失礼いたします……!」
唐突に二度、部屋の扉を強く叩く音がする。
こんな時間にメイドが訪ねて来るのは始めてだ。
「若奥様っ、よろしいでしょうか……?」
「ええ、聞こえています」
戸惑いながら扉を開ければ、頬を紅潮させたメイドが息を切らしている。
「どうしたのですか?」
「それが……そのっ……。先ほどアレクシス様が本邸にいらっしゃって」
真っ赤な顔で胸の前で両手を組んだメイドは、伝える事さえ恥じらうように目を泳がせた。
「こんな時間に、旦那様が本邸に?」