「レオン・ナイトレイとはどういう関係だ……! 一体いつから……ッ」
アレクシスの声色には、怒りの中にも押さえのきかぬもどかしさと悲しみが潜む。エリアーナと目を合わせる事さえ辛いと言わんばかりに視線を逸らせると、
「私の妻に馴れ馴れしくふれたばかりか、あろうことか……妻に、エリアーナに……ッ」
——レオンの抱擁をエリーが受け入れるのを見た。
異能を発現させたのか……?
奴に『愛され』、奴を『愛する』ことで——。
『まさかとは思うが、俺の預かり知らぬところでエリアーナの異能……「王の眼」が開花していたのではなかろうか——』
どういった経緯で入学に至ったのかはわからぬが、異能が発現したならば学園の生徒として問題なく、辻褄もあう。
レオンがエリアーナの額に口づけるのを見た時、二人の間に分け入ってレオンをぶん殴りたい衝動に駆られた。
だがアレクシスはその衝動を毒を飲む思いで抑え込んだ。
あの場で飛び出してしまえばレオンの動向を探るという任務を放棄する事になる。
どんなに口惜しくとも私情より己の責務を優先させるしかなかった。
「レオンを、愛して……いるのか?」
「ぇ…………?」
再び視線を合わせれば、アレクシスの失望と悲しみとが入り混じった声が耳朶を打つ。
——レオンといるところを、旦那様に見られていた……!?
「愛しているだなんて、どうしてそんなっ……誤解です、レオンはただのお友達で……」
「友達が軽々しく口づけるのを、君は許すと言うのか?」
「それはっ」
ぞわりと悪寒が走る、やはり書庫室での出来事を見られていたのだ。
アレクシスの瞳があまりにも哀しく揺れるものだから——エリアーナは返す言葉を見失ってしまう。
不本意でもなんでもレオンにキスされてしまったのは事実だ。
「……君は、俺の妻だ」
繊細な指先がエリアーナの顎を持ち上げる。
アレクシスの秀麗な面輪が大写しになり、わずかに開いた愛らしい薔薇の唇を求める。
唇と唇が重なる寸前、アレクシスは弾かれたように失いかけた理性を取り戻した。
緊迫がほどかれ、長い指先がすっと離れていく。
突然に距離を詰められたことで鼓動はとどろき、愛しさと切なさに息を詰めたエリアーナの想いなど知らずに。
——旦那、様……っ
「問い詰める気も失せた。今すぐ屋敷に帰れ」
覇気を失った声で呟いて、アレクシスはくるりと踵を返す。
「信じてください、私……レオンとは本当に……!」
失望を背負った大きな背中がだんだん小さくなっていく。
だけど引き止める言葉が見当たらない。アレクシスに今、どんな言い訳ができるだろう。
嗚咽を漏らしそうになって口元を両手で押さえた。力を失った両脚は土の上に膝をつく。
知らぬ間に溢れ出した涙が、エリアーナの硬くなった頬に幾筋も伝い落ちた。
*
——今日まで夫たりうる行為の全てを放棄してきた。
アルマを離れ屋敷に囲い、エリーの閨を夫として訪れた事もない。そんな俺にエリーを責める資格などない。
いたたまれなくなって背を向けたものの、強く後ろ髪を引かれた。
エリアーナは何を思い、今頃どんな顔をしているだろう。
——突然くちづけようとした俺に失望しただろうか。
足早に厩へと向かい、愛馬に飛び乗った。
ヤケになって強く手綱を引けば美しい白馬は大きく嘶き、王都の街に続く山道を駆け出した。
——俺だってエリーを愛してる……! 誰よりも強く、心から。
夜風に変じた冷たい風がアレクシスの火照った頬を撫でる。
こんなに急がずとも良かった。だが言いようのない重みに胸が押しつぶされそうで、気を紛らわせようと必要以上に馬の足を早めてしまう。
胸に重くのしかかるのは、アレクシスが生まれて初めて感じた猛烈な嫉妬心であった。
——もしもあの男がエリーの異能を発現させたのだとすれば、俺のこれまでの苦悩は……何だった……?
ふれたいと思う愛しさも、ふれられたいという願いも全て押し殺してきた俺の苦悶は、いとも簡単に砕かれてしまったというのか。
ましてや相手は疑惑のかかる胡散な男だ。
このまま奴に関わっていればエリアーナの身に危険が及ばぬとも限らない。
宵闇に向かって馬を走らせながら、アレクシスは心の内で叫ぶ。
—— エリーを愛せるのは俺だけだ……!
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クロード。
エリーは旦那様を傷つけてしまいました。
悲しませてしまいました。
旦那様がお屋敷の改善の役目をくださり、無能嫁の私でもジークベルト家にいる意味を与えてくださったのに。
初めて優しい言葉と笑顔を向けてくださったのに。
旦那様を、ひどく失望させてしまいました。
エリーは「不貞」を犯しました……旦那様の激昂は当然です。
旦那様の顔が離れなくて、涙があふれてとまらないの。
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アレクシスは書卓に額がつくほど項垂れた。
朝陽が潜んだ山の端が明るみを帯び始めている。
明け方に届いた手紙には、四角く小さく切り取られた紙面を埋めるようにびっちりと文字が綴られていた。
こんな手紙が来ることは滅多にない。インクが滲んでいるところはエリアーナが溢した涙のあとなのだろう。
「泣いている」のだと書かれていたのも初めてだ。
真っ白な魔法鳩が丸い目でまばたきをしながら心配そうに眺めている。
足元に寝そべっていたドーベルマンのマルクスも、主人の異変に気付いてクゥン? と眠そうな顔を上げた。
「……やはり、そうか」
手紙にははっきりと「不貞を犯した」と書かれていた。
「エリーはあの男を……」
溢れんばかりの愛情をろくに示せぬまま、エリアーナを奪われた失望もさることながら。
何よりも案じるべくはエリアーナ自身も気付かぬところで『王の眼』の異能が発現している可能性についてだ。
——もしもそうなら、異能の発現をどこまで隠し通せる?
エリーを『王の眼』として王宮になど上げるものか……!
アビス一族の娘を娶ったアレクシスが妻の異能の発現を隠していたと発覚すれば、当然、重大事項の隠蔽と国王を欺瞞した罪を問われるだろう。
「だとしても、俺はどうなったっていい……エリーを守ると決めたのだ」
先ずは『王の眼』発現の事実の有無を確かめねばなるまい。
問題はどうやってそれを知るかだ——。
「随分と早起きね? また怖い顔をして、いったいどうしたの?」
起き抜けのアルマから香油が薫った。
エリアーナなら絶対に使わぬと思える、麝香の強い香りだ。
夜着を着崩したアルマは書卓を睨むアレクシスの背中に腕を回し、寄りかかるようにして背後から抱きしめた。
「なんなら、この身体で慰めてあげてもよくってよ? いくら私が治癒魔法を使えると言っても、治せるのは身体の傷だけですもの」
猫なで声で耳元に囁くアルマの腕を、アレクシスはゆっくりと引きはがす。
「よしてくれ。君とは《《そういう関係》》じゃないだろう」
「あら、そういう関係って、どういう関係? 私はれっきとしたアレクの《《愛人》》のつもりよ?」
「それは……ッ」
「エリアーナとかいうあの娘がお屋敷に来ると決まった日、『そういうことにして欲しい』って言ったのは、アレク、あなたでしょ?」
アルマが言ったことは正しい。
アレクシスは目を閉じて鼻で大きく息を吐いた。
結婚したにもかかわらず新妻と寝室を共にしない——エリアーナと両親を納得させるためには、情婦、つまりは「愛人」の存在が必要だった。
「私はっ、あなたが困っていたから助けてあげたの。あなたには父が亡くなってからもここに住まわせてもらっている恩がある。
あなたは今でも、目も合わせたくないほどあの娘を嫌悪してる……だから私を「愛人」に仕立てあげて、私を隠れ蓑にあの娘との関係を絶っているのでしょう? なにか違ってる?!」
「アルマ……。俺はどうやら、君に間違った理由を植え付けてしまったようだ。妻を避けているのは嫌っているからじゃない。別の……事情があるんだ。俺の身勝手に君を巻き込んでしまったのは、本当に申し訳ないと思ってる」
「嫌いじゃないのなら、どうして奥様を避けるの?! 事情ってなに? わけがわからない。私をここに置いてるのも、ただ「愛人」の存在が必要だったから? そうならそうと、はっきり言って頂戴……っ」
アレクシスは身体を回してアルマに向き合い、泣き出しそうになりながら俯くエメラルドの瞳を真摯に見つめた。