思い切りひっぱたいてやろうと思った。
なのに——華奢な手首はレオンの手に掴まれてしまう。
「驚かせたのなら謝る。だがエリー・ロワイエ……俺は、本当に」
蠱惑的なレオンの青い瞳が、今は途方もないほど心許なく揺れている。
そんなレオンが継いだ言葉は突然、甲高い女の声に遮られた。
「レオン……? あなたがレオン・ナイトレイ!? ねぇ、そうでしょう? そうなんでしょうっっ、『魔術学園の貴公子』見つけたぁー!」
書棚の合間からひょいと顔を覗かせた一人の少女は、無遠慮にずかずかと二人の間に詰め寄った。
長い黒髪を揺らし、ルビーレッドの瞳を輝かせて。
胸の前で手を組んで祈りのポーズを決め込み、満面の笑みを浮かべた少女はあっけに取られるレオンを崇めるように見上げる……どうやらエリアーナは彼女の視界に入っていないようだ。
「…………は?」
レオンはあからさまに目を眇めた。だが少女はおかまいなしに、ぐいぐい迫ってくる。
「ああーっ、やっっっと逢えた! まさか書庫室で出逢えるなんて……。ジルベール王弟陛下はすぐ見つけたのに、生徒会室に毎日通っても逢えなかったのに……!」
祈りのポーズのまま瞳を輝かせ、少女はレオンをまるで珍しいものでも見るように前から横から後ろから眺めて回る。
そんな少女の『奇行』にレオンは成すすべもなく、戸惑う青い瞳がエリアーナに助けを求めた。
「知り合いなの?」と、目だけで尋ねれば、レオンは「まさか!」ふるふるとかぶりを振る。
「もしかして、あなたが……アネット?」
編入生のアネット・モロー。
長い黒髪にルビーレッドの瞳を持つ彼女——ジルベール生徒会長にわざわざ世話役を付けようとまでさせた問題児——に違いなかった。
「あらいたの? あんた誰? あっ、やだあたし? そう! アネットわぁ、あたし」
「……ちょうど良かった。私はジルベール様からあなたの世話役を仰せつかった十一年生のエリー・ロワイエです。あなたが書庫室で待っていると聞いて、友人のアンと探していたところなのよ」
「ふーん。わざわざ自己紹介してくれちゃったみたいだけど、こっちは《《あんた》》の事なんかどうでもいいけどね?」
————「あんた」……?
エリアーナにはもうこの時点で明日からの更なる苦悩が透けて見えた。
「それよりもぉー…。やだ、アネットったらぁ。レオンとの遭遇で頭んなかパニクってる?!」
聞き慣れない語り口調を繰り広げながら鞄の中身をひっくり返す。
ごちゃごちゃと細かいものを床に広げていたが、その中から何やら薄紙に包まれた小さな塊を手に取ってレオンに差し出した。
「はいこれ! 今回わぁ……チョコレート。だって全然逢えないからさぁ。ずっと鞄んなか入れてたから形くずれちゃったけどぉ……まいっか」
得体の知れない代物を強引に突きつけられては、もう受け取るしかない。
指先でつまんだ塊にレオンが顔をしかめると、アネットはその何倍もの皺を眉間に寄せた。
「うわー、うわっ。またしくった———! なんだよ、チョコも違うのかよ……ってコトはぁ、正解は飴玉?」
「「…………………」」
相当な変わり者を目の当たりにした衝撃で、突然の告白とキスの戸惑いなんてどこかへ飛んでいってしまう。
エリアーナとレオンは呆気に取られたまま、もう一度顔を見合わせるのだった。
*
「ふぅぅ……」
さすがに反省すべきだとも思う。
ため息を吐けば幸せが逃げていくと言ったのは誰だったか。
——私ったら、ため息ばかり。
アネットとの《《顔合わせ》》を済ませたアンとともに、三人はレオンと別れて書庫室を出た。
レオンは名残惜しそうにしていたが、何も知らないアンとアネットの前でレオンとの攻防戦を蒸し返すわけにもいかなかった。
ようやく帰路に着こうという時、アネットが教場に忘れ物をしたと言い出した。
アンに付き添いを頼み、遠路を帰らねばならないエリアーナはひとりきりで馬車の待つ厩に向かう中庭の石畳を歩いていた。
——急がなきゃ。御者のアルバートさんが待ちくたびれてる。
眼前に広がる空は群青色から橙色に美しいグラデーションを描き、一番星が輝いている。夕風はほどなく肌寒い夜風に変わるだろう。
薄い紫がかった銀糸のような髪がさらさらと風に靡いた。
髪が《《こうなった》》のは、レオンのせい。
——髪留め、結局返してもらえなかった。一つしか持っていない大切な眼鏡も。
帰り支度が遅くなってしまったのを焦る気持ちのなかで、書庫室でのレオンとのやり取りがむくりと首をもたげてくる。
—— 本当に、ちゃんと返してくれるのかしら。
額にキスを落とされた時は驚きと嫌悪感しか湧かなかったけれど。
ふざけているとしか、思えなかったけれど。
そのあとに見せたレオンの眼はどこか悲しそうで、心許なくて——
「ふざけて、たのよね……?」
額にふれたあたたかさとその感覚はまだ鮮明で、レオンの眼差しと相まってエリアーナの心をほろ苦く揺さぶる。
「きゃ!?」
大きな木の影から腕が伸びて、手首を取られた。
強く引かれ、否応なしに立ち止まる。ふらりと身体が揺らいで目を瞑った。
気付いた時には、茂みの奥の塀を背にして立たされていた——《《二本の腕》》に囲まれるようにして。
「……エリアーナ」
背高く凛々しい体躯が大きな影となって見下ろしている。
周囲は木々に覆われていて薄暗く、エリアーナは相手の表情を読み取ろうと目を凝らした。
「旦那、様………?」
黒々とした影のなかで、アレクシスの瞳は見た事もないほど剣呑な光を宿していた。
「《《あれ》》はいったい、どういう事だ」
——やっぱり怒ってる……私が、学園に通っていた……こと。
「ぁ……の……っ」
何か言わなければと思うのに、喉の奥がぐ、と詰まってしまう。
「レオン・ナイトレイとはどういう関係だ……! 一体いつから……ッ」
アレクシスの声色には、怒りの中にも押さえのきかぬもどかしさと悲しみが潜む。エリアーナと目を合わせる事さえ辛いと言わんばかりに視線を逸らせると、
「私の妻に馴れ馴れしくふれたばかりか、あろうことか……妻に、エリアーナに……ッ」
——レオンの抱擁をエリーが受け入れるのを見た。
異能を発現させたのか……?
奴に『愛され』、奴を『愛する』ことで——。
『まさかとは思うが、俺の預かり知らぬところでエリアーナの異能……「王の眼」が開花していたのではなかろうか——』
どういった経緯で入学に至ったのかはわからぬが、異能が発現したならば学園の生徒として問題なく、辻褄もあう。
レオンがエリアーナの額に口づけるのを見た時、二人の間に分け入ってレオンをぶん殴りたい衝動に駆られた。
だがアレクシスはその衝動を毒を飲む思いで抑え込んだ。
あの場で飛び出してしまえばレオンの動向を探るという任務を放棄する事になる。
どんなに口惜しくとも私情より己の責務を優先させるしかなかった。
「レオンを、愛して……いるのか?」
「ぇ…………?」
再び視線を合わせれば、アレクシスの失望と悲しみとが入り混じった声が耳朶を打つ。
——レオンといるところを、旦那様に見られていた……!?
「愛しているだなんて、どうしてそんなっ……誤解です、レオンはただのお友達で……」
「友達が軽々しく口づけるのを、君は許すと言うのか?」
「それはっ」
ぞわりと悪寒が走る、やはり書庫室での出来事を見られていたのだ。