アンは小走りで二階への階段を駆け上がっていく。
残されたエリアーナが仕方なく本棚に沿って歩いていると……。
「見つけた」
背後から良く通る艶めいた声がした。
振り返れば、誰かの《《胸板に》》鼻をぶつけそうになって!?
あまりに近すぎる距離感に驚いてのけぞる。
「……っ」
「ここで何をしてるんだ?」
レオン・ナイトレイが澄んだ青い瞳でエリアーナを見下ろしている。狭い書棚と書棚との隙間で逃れることもできず、その距離は怯んでしまうほどに近い。
「…………何って、人を、探していて」
「人って誰を?」
「あなたには関係ないでしょう……! あなたこそ、こんな時間まで……書庫室で何をしているの?」
「生徒会長に頼まれた本を探してる。二十三冊」
「へ……?」
「残り三冊が見当たらない。でも、代わりにおまえがいた」
それは一瞬の出来事。
あっと声をあげる間も無く、気付いた時には後頭部にぎゅっと小さく結えていたはずの長い髪がはらはらと宙を舞っていた——レオンの腕が伸びて、髪留めが奪われたのだった。
「何をするの?! 返して……! それに眼鏡もっ」
「どっちも返さない、と言ったら?」
「どうしてこんなことをするの、ひどいわ……」
レオンが握る花の形を模した髪留めに精一杯手を伸ばすが、届きそうなところでひょい、と逃げられてしまう。目を細めたレオンは秀麗な面輪に悪戯な笑みを浮かべた。
「どうしてって、このほうが似合うから」
「勝手な事ばかり……。あなたに私の事情なんてわからない……!」
「ああ、わざと《《そういう格好》》をして自分を偽ってるご令嬢の事情なんか知らない。だが、ひとつの事実は伝えておく」
涙目になって震えるエリアーナの頬を長い指先がかすめた。
銀糸の髪をひとすじ掬い上げると、見せつけるように自分の鼻先に持っていく。
——ひとつの、事実……?
レオンの行為に抵抗するすべもなく、エリアーナの丸い両目が大きく見開かれる。
夕陽を映し取ったレオンの瞳がきらりと揺れた。
「一目で惚れた……それが俺の事実」
レオンは穏やかに、くすりと微笑う。
——微笑む顔が可愛い。いや、《《あれ》》は尊いと言ってもいいだろう。
すぐ転ぶ。頑張ってはいるが救いようのないドジだ。そういうのも全部、いちいち愛らしい。
ひどく緊張していたエリー・ロワイエはもう忘れてしまっただろう——この学園にやって来て、初めて笑った時のことを。
カチコチに固まった彼女の緊張をほどこうと、レオンが幻の蝶フレイアを出現させたことも。
レオンの心の内を知らぬエリアーナは当然ながらあからさまに拒絶する。
「やめて……。みんなにそんな冗談を言って揶揄っているのでしょう?! 私の反応を見て、面白がっているのでしょう……!」
レオンはきょとんと目を丸くした。
「そんな事をして何になる? 第一、時間の無駄だろう」
「あなたは自分に自惚れていて、女の子にわざと気を持たせて愉しんでいるだけ……。でなきゃ、《《こんな私》》が声をかけられるはずがないもの」
——本気で言っている? 彼女は無自覚なのか? 眼鏡かけてても髪引っ詰めててもメチャクチャ可愛いってことに気付いてないのか……?!
息を吐き、レオンは「わかった」と小さく呟いた。
「わかってくれたのなら……私の眼鏡と髪留めを返してくれるわね?」
エリアーナはほっとして頬の緊張を緩める。だがレオンの胸の内はエリアーナの理解とは程遠い。
「……俺が本気だってことを、態度で示そうか?」
ぐい、と腰元を引き寄せられ、驚いて顔を上げれば——エリアーナの額にレオンの柔らかな唇がそっとふれたのだった。
「髪留めと眼鏡は、いつか……ちゃんと返すから」
*
アレクシスは怪訝に目を眇め、レオン・ナイトレイの姿絵を見返した。
ジルベール生徒会長の思惑通りに「(もともと無いのだから)探しても絶対に見つからぬ」本を諦めていなければ、レオンはまだ書庫室にいるはずだ。
学園長への挨拶を手短に済ませたあと、久々に訪れた母校の風情を懐かしみながら書庫室に向かう。
回廊は人気がまばらで閑散としていた。
エリアーナにすぐにでも事情を問いたかった。
だが学園の校内はアレクシスが妻に詰問をする場ではない。
——話し合いは屋敷に戻ってからだ。
そう思った矢先。
回廊に差しかかれば、見覚えのある後ろ姿に遭遇する。
——エリー?
後頭部に小さくまとめ上げた灰紫色の髪、その隣を歩くのはエリアーナと一緒にいた赤毛の女生徒だ。
どうやら彼女らも書庫室に向かうようで——目的の場所が同じだとはいえ、気付かれないように距離を取りながら歩いた。
書庫室に入ると、赤髪の女生徒が二階に駆け上がって行く。残されたエリアーナは本棚に沿って歩き、何かを探しているように見えた。
——俺もレオンを探さねば。奴の顔を見ておきたい。
「……ン?」
そこに現れた一人の青年がエリアーナを追って本棚の影に消える。
不意に胸騒ぎを感じて、アレクシスも導かれるように後を追った。
—————*
「髪留めと眼鏡は、いつか……ちゃんと返すから」
額から形の良い唇が離れるのと同時に後頭部が大きな手のひらで包まれる。
エリアーナの滑らかな額に頬を寄せ、レオンが囁いた。
この状況をはたから見れば、レオンの抱擁を甘んじて受け入れているようにしか見えないだろう……エリアーナの気持ちなんてすっかり除け者にしたままで。
「!?」
どん! と音が出そうなほど強く、ぶ厚い胸板を突き離した。
嫌悪感と怖さが一気に押し寄せて言葉が出ない。ただ目の前にあるものから逃れたくて無我夢中だった。
「……な……に、するの」
込み上げてくる怒りの感情が抑えきれずに平手を高く上げる。
思い切りひっぱたいてやろうと思った。
なのに——華奢な手首はレオンの手に掴まれてしまう。
「驚かせたのなら謝る。だがエリー・ロワイエ……俺は、本当に」
蠱惑的なレオンの青い瞳が、今は途方もないほど心許なく揺れている。
そんなレオンが継いだ言葉は突然、甲高い女の声に遮られた。
「レオン……? あなたがレオン・ナイトレイ!? ねぇ、そうでしょう? そうなんでしょうっっ、『魔術学園の貴公子』見つけたぁー!」
書棚の合間からひょいと顔を覗かせた一人の少女は、無遠慮にずかずかと二人の間に詰め寄った。
長い黒髪を揺らし、ルビーレッドの瞳を輝かせて。
胸の前で手を組んで祈りのポーズを決め込み、満面の笑みを浮かべた少女はあっけに取られるレオンを崇めるように見上げる……どうやらエリアーナは彼女の視界に入っていないようだ。
「…………は?」
レオンはあからさまに目を眇めた。だが少女はおかまいなしに、ぐいぐい迫ってくる。
「ああーっ、やっっっと逢えた! まさか書庫室で出逢えるなんて……。ジルベール王弟陛下はすぐ見つけたのに、生徒会室に毎日通っても逢えなかったのに……!」
祈りのポーズのまま瞳を輝かせ、少女はレオンをまるで珍しいものでも見るように前から横から後ろから眺めて回る。
そんな少女の『奇行』にレオンは成すすべもなく、戸惑う青い瞳がエリアーナに助けを求めた。
「知り合いなの?」と、目だけで尋ねれば、レオンは「まさか!」ふるふるとかぶりを振る。
「もしかして、あなたが……アネット?」
編入生のアネット・モロー。
長い黒髪にルビーレッドの瞳を持つ彼女——ジルベール生徒会長にわざわざ世話役を付けようとまでさせた問題児——に違いなかった。
「あらいたの? あんた誰? あっ、やだあたし? そう! アネットわぁ、あたし」