「いえ、折角ですが長居はしません。要点は今お話した通りです。学園長には許可を取ってあります。今後しばらく、私は彼を探りますが……」
そして整った眉をしかめる生徒会長に口元を寄せる。
「くれぐれも周囲の者には口外なさいませんよう」
「はっ、心配は要らないよ。シールドを張っているから、先ほどの話も今の君との会話も他の者には一切聞こえていない。長居はせぬと言ったが、学園は久しぶりだろう? せっかく来たのだから、君も校内を歩いて懐かしい日々の思い出に浸るといい」
アレクシスも強力ではないが氷と水魔法の使い手だ。在学したのは王城勤め前の二年間だけだが、この王立魔術学園の出身者でもある。
当時まだ王太子だった現アストリア国王とは、その頃に培った学友の仲であった。
生徒会室を出る時、エリアーナとはちら、とだけ目を合わせた。
——これは事情を問わねばなるまいな。
その刹那、エリアーナの瞳が怯えて揺らぐのがわかった。
か細い身体をいじらしいほど強張らせ、アレクシスから視線を逸せてしまう。
また冷たいと思われるような態度を取ってしまったと後悔するが、この局面では仕方がなかった。
「エリーとアン、待たせたね! さぁ、こっちに来て。そこに座って?」
背後から投げられた声を聞けばまた新たな疑問が持ち上がる、王弟陛下はなぜエリアーナを生徒会室に呼んだのだろうと。
エリアーナも生徒会の役員なのだろうか。
それとも別件、ならば、どんな用件で……。
愛おしいエリアーナのこととなれば、アレクシスの脳内には憶測が湧き出て細い糸のように絡まり合ってしまう。
そして導き出せぬ答えへの苛立ちは、彼の冷静さと平常心を削ぎ落としていく——。
*
生徒会室を出たエリアーナとアンは書庫室に向かって歩いていた。
すっかり傾いた太陽は世界をオレンジ色に染めている。広々とした学園の書庫室もまた、橙色の水の中にすっぽりと浸かるようだ。
——魔術学園に通っていること、嘘をついてそれを隠していたこと。旦那様はきっと物凄く怒っているでしょうね。
昨日はアレクシスが初めて笑顔を向けてくれた。
着飾ったエリアーナを初めて「綺麗だった」とほめてくれた。
そのことが嬉しくて、ジークベルト侯爵家に嫁入りしてから初めて、とても幸せな気持ちで目覚めることができたのに。
生徒会室でアレクシスが見せた表情は昨日の優しい笑顔とはかけ離れたものであった。
それを見たエリアーナの硝子の心は、アレクシスの失望の眼差しに射抜かれた。
「王宮の騎士様、素敵だったわね……!」
砕けかけたエリアーナの気持ちなどつゆ知らず、詩人のアンはふにゃりと頬を緩める。
「神秘的な髪色、宝石ともみまごう青灰色の瞳……雪原に佇む銀色の狼みたいだった。まれに見るイケメンよあれは! 生徒会のメンバー全員イケメンだし、生徒会長の周りってなんでイケメンばかりが集まるの? イケメン収集能力?! はぁっ、一度でいいから、あんな綺麗な男性にとろとろに愛されてみたいなぁぁっ」
恋に恋する夢見がちなアンの隣で、エリアーナは両足に鉄球を繋いだように重い一歩を進めていた。
頭の中が黒い霧にすっぽりと覆われ、アンに返事をする気力さえも沸かない。
「それに! 私たちに《編入生の世話をして欲しい》だなんて。生徒会長もたかがその編入生ひとりに目をかけすぎだと思わない?」
「……色々と問題のある生徒さんみたいだし、心配なさったのではないかしら」
「問題って?! だったらエリーもまだまだ新入生よ、あの性悪なジゼルたちに揶揄われてるじゃないの。あれはれっきとしたいじめよ? こっちが心配してもらいたいくらいだわ」
生徒会室に呼ばれたエリアーナとアンは、生徒会長直々に編入して間もない下級生の面倒を見てやって欲しいと頼まれたのだった。
エリアーナも編入して日が浅いため新入生どうし、気持ちが通じるのではと白羽の矢が立ったようだが、こちらも色々な事情を抱えている。
正直、他人の面倒——それも編入早々、かなりのトラブルメーカーらしい——を見る余裕なんて今は持ち合わせていない。
「書庫室って言っても広いんだけど……《《その子》》、どこにいるんだろう?」
一階も二階にも、見渡す限り天井にまでそびえる本棚が幾重にも連なっている。
生徒会長から当該の女生徒が待っていると聞いているけれど——放課後の図書室は閑散として、本棚に囲まれた自習机に座る男子生徒がぽつぽつ見えるだけだ。
「私、二階を探してくるね。エリーは一階をお願い! 長い黒髪にルビーレッドの瞳の女の子よっ」
「アン、ちょっと待って……!」
アンは小走りで二階への階段を駆け上がっていく。
残されたエリアーナが仕方なく本棚に沿って歩いていると……。
「見つけた」
背後から良く通る艶めいた声がした。
振り返れば、誰かの《《胸板に》》鼻をぶつけそうになって!?
あまりに近すぎる距離感に驚いてのけぞる。
「……っ」
「ここで何をしてるんだ?」
レオン・ナイトレイが澄んだ青い瞳でエリアーナを見下ろしている。狭い書棚と書棚との隙間で逃れることもできず、その距離は怯んでしまうほどに近い。
「…………何って、人を、探していて」
「人って誰を?」
「あなたには関係ないでしょう……! あなたこそ、こんな時間まで……書庫室で何をしているの?」
「生徒会長に頼まれた本を探してる。二十三冊」
「へ……?」
「残り三冊が見当たらない。でも、代わりにおまえがいた」
それは一瞬の出来事。
あっと声をあげる間も無く、気付いた時には後頭部にぎゅっと小さく結えていたはずの長い髪がはらはらと宙を舞っていた——レオンの腕が伸びて、髪留めが奪われたのだった。
「何をするの?! 返して……! それに眼鏡もっ」
「どっちも返さない、と言ったら?」
「どうしてこんなことをするの、ひどいわ……」
レオンが握る花の形を模した髪留めに精一杯手を伸ばすが、届きそうなところでひょい、と逃げられてしまう。目を細めたレオンは秀麗な面輪に悪戯な笑みを浮かべた。
「どうしてって、このほうが似合うから」
「勝手な事ばかり……。あなたに私の事情なんてわからない……!」
「ああ、わざと《《そういう格好》》をして自分を偽ってるご令嬢の事情なんか知らない。だが、ひとつの事実は伝えておく」
涙目になって震えるエリアーナの頬を長い指先がかすめた。
銀糸の髪をひとすじ掬い上げると、見せつけるように自分の鼻先に持っていく。
——ひとつの、事実……?
レオンの行為に抵抗するすべもなく、エリアーナの丸い両目が大きく見開かれる。
夕陽を映し取ったレオンの瞳がきらりと揺れた。
「一目で惚れた……それが俺の事実」
レオンは穏やかに、くすりと微笑う。
——微笑む顔が可愛い。いや、《《あれ》》は尊いと言ってもいいだろう。
すぐ転ぶ。頑張ってはいるが救いようのないドジだ。そういうのも全部、いちいち愛らしい。
ひどく緊張していたエリー・ロワイエはもう忘れてしまっただろう——この学園にやって来て、初めて笑った時のことを。
カチコチに固まった彼女の緊張をほどこうと、レオンが幻の蝶フレイアを出現させたことも。
レオンの心の内を知らぬエリアーナは当然ながらあからさまに拒絶する。
「やめて……。みんなにそんな冗談を言って揶揄っているのでしょう?! 私の反応を見て、面白がっているのでしょう……!」
レオンはきょとんと目を丸くした。
「そんな事をして何になる? 第一、時間の無駄だろう」
「あなたは自分に自惚れていて、女の子にわざと気を持たせて愉しんでいるだけ……。でなきゃ、《《こんな私》》が声をかけられるはずがないもの」
——本気で言っている? 彼女は無自覚なのか? 眼鏡かけてても髪引っ詰めててもメチャクチャ可愛いってことに気付いてないのか……?!
息を吐き、レオンは「わかった」と小さく呟いた。
「わかってくれたのなら……私の眼鏡と髪留めを返してくれるわね?」
エリアーナはほっとして頬の緊張を緩める。だがレオンの胸の内はエリアーナの理解とは程遠い。
「……俺が本気だってことを、態度で示そうか?」
ぐい、と腰元を引き寄せられ、驚いて顔を上げれば——エリアーナの額にレオンの柔らかな唇がそっとふれたのだった。
「髪留めと眼鏡は、いつか……ちゃんと返すから」
*
アレクシスは怪訝に目を眇め、レオン・ナイトレイの姿絵を見返した。
ジルベール生徒会長の思惑通りに「(もともと無いのだから)探しても絶対に見つからぬ」本を諦めていなければ、レオンはまだ書庫室にいるはずだ。