*
教場に戻る廊下を歩きながら、アンは上機嫌を隠さない。
「やばーい! 私、レオン・ナイトレイに恋しちゃったかも!?」
他の生徒の目も気にぜず回廊の真ん中で小躍りするアンは、エリアーナがこれまで幾度となく聞いたセリフを語る。
「ふふ。アンったら《《また》》恋におちたの? よりによって今度はあのレオン?」
「ああ、レオン様っ……! 魔力も座学も学年成績トップにして女生徒の視線を釘付けにする超絶美男子。ふざけてるように見えるけど根は真面目な優等生! さっきのだって、ああ見えて私たちを庇ってくれたんでしょ!? そんなの、もう惚れるしかないじゃない!」
嬉々とはしゃぐアンを横目に、エリアーナは心底困ったように項垂れる。
「眼鏡、取られちゃったけどね……」
「それは私たちを馬鹿にしてるジゼルたちにエリーの素顔を見せつけるためよ。みんなは知らないんだから……大きな眼鏡の奥に隠された、エリーの真の可愛さを!」
「私にはただ面白がって揶揄われたとしか」
「エリー、彼はあなたが思うほど嫌な人じゃないわよ。さっきレオン様と一緒にいた男子生徒ふたり、ラバースーツ着てたでしょ? 魔術学科が不得意な生徒たちに、レオン様が昼休みにああやって防御魔法の訓練に付き合ってるらしいの!」
「レオンが使うのは『雷』魔法だものね」
「そうよ……元素魔法では最強の雷っ! 先生達だって彼の魔力には一目を置いてる。ラバースーツは感電防止のお守りね……優しいのよ、彼はっ」
アンは好意を持った男性を必要以上に美化する癖がある。
そしてアンの夢見心地な恋心は今に始まったことではなく、想い人は日々ころころと変わるのだった。
「アンの好きな人は生徒会長のジルベール王弟陛下じゃなかった?」
「エリー、恋心はね。空を征くあの雲のように、時を追うごとに形を変えていくものなの……」
胸の前で手を組んだアンはうっとりと窓の外を眺める。
恋に夢見がちなアンを見ていると、エリアーナは先ほどレオンに絡まれた戸惑いなど忘れ、つい頬を緩めてしまうのだった。
*
放課後になり、エリアーナとアンが躊躇いがちに生徒会室の扉を叩くと。
中から「どうぞ」と返答があって、一人の生徒が扉を開けてくれる。
「……失礼いたします」
それぞれ名を名乗り、ゆっくりと部屋の中に足を運べば。
広々とした生徒会室には数名の生徒会役員がいて、おのおの好きなことをしているように見えた。
壁沿いにある大きな本棚から本を取り出す者、窓際の小卓で書類と格闘する者、お茶のセットを乗せたトレイをテーブルに運ぶ者……。
ロッカジオヴィネ魔術学園の生徒会長、天下のアストリア国・ジルベール王弟陛下が単なる一生徒のふたりに何の用があると言うのだろう。
エリアーナとアンが部屋を見回していると、中央に置かれた円形の大きなテーブルの奥から声が届いた。
「おっ、十一年生のエリー・ロワイエとアン・レオノールか? また随分と早かったね。私は《《この男》》と話があるから、その辺で待ってて」
声のする方を見れば、声の主である生徒会長と——その隣に立つ、白い騎士服に身を包んだ背高い人影がエリアーナの目に飛び込んだ。
思いもよらない人物の登場に、エリアーナの心臓がどくりと激しく跳ね上がる。
———えっ、えええ……っ
ティーセットが運ばれて来ると、ジルベール王弟陛下、いや生徒会長がその青年に座れと促す。
「……なるほど、そういう事か。陛下の密偵が不在だからとはいえ、君には何かと手間を掛けるね。当該のレオンには所用を言い渡しておいた。しばらくここには戻らないだろうから、このまま話を続けてくれ」
騎士服の青年は生徒会長に軽く頭を下げるが、すぐにエリアーナに視線を戻す。
どうやら彼もエリアーナと同様……もしかするとそれ以上に驚いている様子で、ブルーグレーの瞳を大きく見開いた。
———だっ、《旦那様が》、なぜここに……………!?
生徒会長の隣に立ち、エリアーナを凝視する青年は——何度まばたきを繰り返しても目をこすっても、夫のアレクシス・ジークベルトに見違いなかった。
「おや、君たちは知り合いか?」
ふたりのただならぬ様子に生徒会長が形の良い眉を吊り上げた。アンはすっかりしどろもどろで、エリアーナと青年を交互に見ている。
「……いいえ、初対面です」
エリアーナから目を逸らすと、アレクシスが温度を感じさせぬ声で言う。
綺麗な青い瞳が冷たい光を宿すのを見たような気がして、エリアーナの肩がびくりと震えた。
——私のこと、旦那様に気付かれていない……わけ、ないわよね。
アレクシスは珍しく混乱していた。
思いもよらぬエリアーナとの遭遇、どんな時も冷静さを欠くことなく瞬時に答えを導き出す彼の脳内が様々な憶測によって絡み合ってしまう。
『エリーがなぜ学園ここにいる……!
王都で良き妻になるのための修行とやらに励んでいるのではないのか?!』
そもそもこの魔術学園は、魔力や魔術もしくは普通の人間がもたない強力な特異能力が無ければ入学を許されない。
それにエリアーナには王の眼の異能以外の魔力は無いはずだ。
『動物や鳥の声を聴くという異能だけで、名門のこの学園が入学を許可するとは思えない。』
何故……何故。
ほんの僅かな時間のなかで、アレクシスは押し寄せてくる憶測を無理やりに抑え込む。
——いや、落ち着け。
今は戸惑っている場合ではない……この学園内に於いて王弟陛下に尽力を乞うために来たのだ。
俺の役目は、魔法省大臣の息子レオン・ナイトレイと反王政組織との繋がりを暴く事だ。
数日前、アレクシスは王都の衣装屋の視察とともに、魔術学園の生徒であるレオン・ナイトレイについての身辺調査を国王から命じられた。
反王政組織グリムロックとの関連を警戒される或る施設に、ひどく周囲を気にしながら身を潜めるように入っていくレオンの姿が目撃されたのだという。
「まあ、座れ。お茶も入ったことだしね」
「いえ、折角ですが長居はしません。要点は今お話した通りです。学園長には許可を取ってあります。今後しばらく、私は彼を探りますが……」
そして整った眉をしかめる生徒会長に口元を寄せる。
「くれぐれも周囲の者には口外なさいませんよう」
「はっ、心配は要らないよ。シールドを張っているから、先ほどの話も今の君との会話も他の者には一切聞こえていない。長居はせぬと言ったが、学園は久しぶりだろう? せっかく来たのだから、君も校内を歩いて懐かしい日々の思い出に浸るといい」
アレクシスも強力ではないが氷と水魔法の使い手だ。在学したのは王城勤め前の二年間だけだが、この王立魔術学園の出身者でもある。
当時まだ王太子だった現アストリア国王とは、その頃に培った学友の仲であった。
生徒会室を出る時、エリアーナとはちら、とだけ目を合わせた。
——これは事情を問わねばなるまいな。
その刹那、エリアーナの瞳が怯えて揺らぐのがわかった。
か細い身体をいじらしいほど強張らせ、アレクシスから視線を逸せてしまう。
また冷たいと思われるような態度を取ってしまったと後悔するが、この局面では仕方がなかった。
「エリーとアン、待たせたね! さぁ、こっちに来て。そこに座って?」
背後から投げられた声を聞けばまた新たな疑問が持ち上がる、王弟陛下はなぜエリアーナを生徒会室に呼んだのだろうと。
エリアーナも生徒会の役員なのだろうか。
それとも別件、ならば、どんな用件で……。
愛おしいエリアーナのこととなれば、アレクシスの脳内には憶測が湧き出て細い糸のように絡まり合ってしまう。
そして導き出せぬ答えへの苛立ちは、彼の冷静さと平常心を削ぎ落としていく——。
*
生徒会室を出たエリアーナとアンは書庫室に向かって歩いていた。
すっかり傾いた太陽は世界をオレンジ色に染めている。広々とした学園の書庫室もまた、橙色の水の中にすっぽりと浸かるようだ。
——魔術学園に通っていること、嘘をついてそれを隠していたこと。旦那様はきっと物凄く怒っているでしょうね。
昨日はアレクシスが初めて笑顔を向けてくれた。
着飾ったエリアーナを初めて「綺麗だった」とほめてくれた。
そのことが嬉しくて、ジークベルト侯爵家に嫁入りしてから初めて、とても幸せな気持ちで目覚めることができたのに。
生徒会室でアレクシスが見せた表情は昨日の優しい笑顔とはかけ離れたものであった。
それを見たエリアーナの硝子の心は、アレクシスの失望の眼差しに射抜かれた。