正直、婚姻届けにサインをしたときはここまで早急に事が運ぶとは思っていなかった。思いたるべきだった、あのタヌキじじいの周到さに。
 そもそも、十六歳になった時点で婚姻届不受理申出所を役所に出しておくべきだったんんだ。
 政略結婚の駒にされるであろうことは予測がついていた。今回は直筆のサインを求められただけマシだったんだ。知らないところで代筆されて知らないうちに結婚させられていたっていう事態だった十分あり得た。なんなら、実は今回の結婚が書類上は二回目になっていたとしても不思議はない。
 一度、戸籍を確認した方がいいかもしれない。

 そんなことを考えていると、盛大なため息が出た。
 調度は一緒なのに部屋が変わってしまった自室にいる気が起きなくて、私はダイニングテーブルで頭を抱えていた。
 下の部屋で使っていた二人掛けのテーブルよりもうんと広い、六人掛けのダイニングテーブル。傷一つない様子からも本間さんが使っていたものではなく、おじいさまがベッドなんかと一緒に新調したものなんだろう。なにを想定してこのサイズにしたのかは……あえて考えないでおこう。
 またため息が出ると、ふわりと甘い香りが鼻をくすぐった。

 目の前に置かれたティーカップから上がる湯気を目で追っていくと、本間さんと目が合った。

「そう思いつめないでください。公子さんの嫌がることはしませんから」

 眉を寄せて申し訳なさそうに私を見つめてくる。
 カップの中身はたぶん、私の好きなニルギニ。
 紅茶の香りに一瞬ほだされそうになるけれど、目に力を込めて本間さんを見つめなおす。きっとこれもおじい様の入れ知恵だ。

「結婚は嫌がることではないんですか?」

 私が睨みつけてそう声に出すと、演技だったのか眉が開く。

「あれ、お嫌だったんですか? ご自身で婚姻届けにサインされていたと思いましたが」

 飄々と言ってのけるその態度に体が熱くなり、思わず立ち上がる。

「脅迫されてのことです!」

「どこに脅迫がありましたか? 意に添わぬ結婚だったと言うのなら、いつでも離婚に応じますよ」

 睨みつける距離が近くなっても本間さんは意に介さない。
 睨み返す価値もないと言わんばかりに視線を逸らすと、収納付きだったらしいダイニングテーブルからひらりと紙を一枚取り出しティーカップと私の間に置いた。
 ほんの数時間前に見た物と類似のデザイン。けれど色味はグリーンで、左上に記載された文字は『離婚届』だった。