覚悟を決めたつもりだったけれど、手が震える。
 私の右手にはペン。目の前には文字と枠が並んだシンプルな書類。左上には、茶色いゴシック体で『婚姻届』とレタリングされていた。
 ただの紙切れ一枚。戸籍が少し変わるだけ。子どもなんて何年かかっても出来ないときは出来ないし、夫婦生活を拒否し続けておじい様の目を誤魔化せばいい。
 ああ、でも本田さんがおじい様にばらしたら援助は打ち切られてしまうかもしれない。勉強ばかりで腕力のない私が、細身とはいえ男性の力に敵うとも思えない。意に添わぬ結婚に、意に添わぬ妊娠――十分あり得ることだった。
 血の気が引く。でも、解決策が見つからない。
 まだ未成年の私には、一人で生きていく術がない……自分が早生まれであることをこんなに呪ったことは今までなかった。
 生まれてから受験までに得られる勉強時間が四月生まれの人より一年近く短いことだって、なんとか巻き返せると自分を信じていた。でも、それもおじい様が用意した恵まれ過ぎた環境があってのこと。両親を亡くしておじい様もいない天涯孤独のみだったら、私は合格の二文字どころか受験の二文字さえ見られなかったかもしれない。
 今までの生活に未練はある。自活するようになって、思うように勉学に励めなくもなるだろう。でも、逃げ道を探さないと潰れそうだった。
 誕生日までの期間限定。十八歳の誕生日を迎えたら、反故にしよう。それまでには入学手続きも終わって前期の授業料も支払われている。十八歳になれば両親の遺産も自分で動かせるようになるし、部屋とか契約も自分一人で出来るようになる。遺産を元手に、後期の支払いまでになんとか自分でお金を工面しよう。
 それまではなんとか貞操も守って形だけの妻としておじい様のご機嫌を……と、そこまで考えて私は気が付いた。

「民法改正されて、女性の結婚年齢も十八歳に引き上げられましたよね? 私、早生まれなのでまだ十七歳なんですけど」

 一瞬、一縷の希望が見えた気がした。
 今ここで婚姻届けを書かずに済めば、もう少し落ち着いて今後のことを考えられる。正直、今は話が早急過ぎて上手く考えを巡らせられているとは思えなかった。
 でも、希望は本当に一瞬だけだった。

「公子さんは四月一日時点で十六歳以上でしたので、経過措置により親の同意があれば婚姻可能です」

 弁護士相手に法律の話で勝てるわけがなかった。
 本田さんが私の知識不足を指摘すると、おじい様は鷹揚に頷いた。

「亡き息子夫婦に代わって、認めよう」

 不仲だった癖に、勝手に代理を務めないで欲しい。二人が生きていれば、絶対にこんな結婚認めなかった。
 心が傷ついて、その傷を深めないために頭の中が凍り付く。

 私は促されるがまま、婚姻届けにサインをした。

「これからよろしくお願いいたします。公子さん」

 満足そうなおじい様の横で、テーブルから婚姻届けを取り上げて内容を確認した本田さんが私に微笑みかける。
 優雅なその笑みさえも、私の心には響かない。
 膝の上で拳を握りしめて、私は意地だけで目に張った涙の膜を崩さなかった。