「おじい様、お待たせして申し訳ありません」

 おじい様の秘書が手配したタクシーでオフィスに到着すると、そのまま社長室に通された。
 おじい様が好きそうないかにもなレイアウトな部屋の真ん中に置かれた机のところで、タヌキじじいは革張りの椅子にふんぞり返っていた。

「公子、彼と結婚して男児をもうけなさい」

 突拍子もない第一声に『は?』と言い返すことさえ出来なかった。
 耳から入った言葉の理解が出来ない。頭が拒否するように停止して、ただ示されるがまま『彼』に顔が向く。
 おじい様の傍らに立つ長身痩躯の男性。鼻筋が通っていてその上に黒縁の眼鏡が乗っている。後ろに髪を撫でつけて軽く身なりを整えると、私を見つめ返して微笑んだ――
 女子校育ちで男性に免疫がないせいだ。合格発表を見た時のように、胸が高鳴った。
 それと同時におじい様の言葉の意味がようやく頭に染み渡って、嫌な予感が大当たりだったことを思い知る。
 不合格で進学がなくなればこいういう未来が待っていることは予想していた。なのに、合格してもこんな未来が待っているとは思ってもみなかった。

「まあ、座りなさい」

 おじい様に促されるがまま応接用のソファーに移動して、めまいを覚える体を柔らかいクッションに預ける。
 杖をつきながらソファーに移動してくるおじいさまに従って黒縁眼鏡の彼も移動してくるけれど、ロウテーブルを挟んだ向かいに座ったのはおじい様だけで、彼は立ったままだった。
 初対面の女子高生と結婚させられそうになっているというのに、彼は涼しい顔だった。

「おじい様、約束が違います。第一志望に合格すれば、進学を許可してくださる約束ですよね?」

 こめかみを押さえて歪みそうになる視界を押さえながらタヌキじじいを見ると、眉尻を垂らしてニコニコしている。ますます、タヌキに見えてくる。

「もちろん、約束は守るよ。公子の夢はじいじの夢だ。ただ、そうするとタイミングが難しくなるだろう」

 笑顔を崩さないおじい様に、めまいがますます酷くなる。本気で結婚が私の幸せと思っているのか建前なのか、本心が読めない。

「学生のうちなら、浪人留年珍しくないからな。社会に出てからキャリアを中断させるよりも、一時休学して妊娠出産した方が巻き返しが効きやすいだろう」

 本気で私のためを思って言っている可能性が捨てきれないのが恐ろしい。ちょっと一理あるかもっていう気になってしまうのも怖ろしい。
 私の夢は大学卒業後にある。
 女性がキャリアを積んでいくなかでネックになるのが妊娠出産だ。M字カーブに代表されるように、女性の就労と妊娠出産は絡み合っている。本人が就労希望しても産後六週間は仕事に穴を開けることになる。ガラスの天井にだって影響している。
 私が夢を叶えるためには、キャリアを積んで出世する必要がある。妊娠出産するなら、そのタイミングは重要になってくる。あくまで、するならの話だが。

「結婚も妊娠出産もしないという道はないんですか?」

 私の言葉に、たぬきじじいは目を丸くする。タヌキに豆鉄砲を食らわせても、こんな顔をするんだろうか。
 世代的な問題なのか、わかった上ですっとぼけているのかはわからないけれど、おじい様にとって私が跡継ぎを生まない未来はないようだった。