ミアの就職先は、城下町にある飯屋ゴラといういわゆる大衆食堂だ。
城下町の商店街通りにあって、朝から夜遅くまで空いている店である。お酒も出しているので、夜になると酔っ払いが多くたむろしていた。

「ミア! ちんたらしていないで、これを運びなっ!」

女将さんがそう怒鳴ると、ミアは慌てて駆け寄った。

「すみません、女将さん」
「あんたは本当に愚図だね! もっとテキパキ動けないのかい? クビにするよ!」
「すみません……」

ため息とともに料理を渡される。揚げ物が入った大きなお皿だ。重量があるが、それをしっかりと支えて落とさないように抱える。

ミアは渡された食事を運んだ。狭い客席の間を通り、大皿を客のいるテーブルに出すと席にいた男に腕を掴まれた。思わず身構えると、男は酒を飲んだ赤ら顔でニヤニヤと笑っている。

「お姉ちゃん可愛いねぇ。最近働き始めたんだろう? あまり見ない顔だが、ここら辺の子かい?」
「綺麗な顔立ちしているな。お前ならこんなところで働かなくても、男を取ればやっていけるだろうに。あ、俺なんてどう?」

涎でもたらしそうな下卑た笑いで酔っ払いたちが絡んでくる。
飯屋の中でも安さが売りの飯屋ゴアは、その分訪れる客層も品がいいとは言えない。働き始めてから、こんなことは毎日のようにあった。

男を取れば……。
何度も客の男たちに言われたセリフだ。初めはそれがどういう意味か分からなかったが、要は男と寝てお金をもらう仕事をしたらどうかという意味だと知った。
その方が金になると。
余りに失礼な言葉に、初めは腹を立てていたが、今では忙しさが勝ってそんな声掛けもだいぶ流せるようになってきた。適当に愛想笑いを浮かべ、客の側から離れて厨房へ行くと女将さんが雑に手招きをした。

「ミア、これを食べたら買い物をしてきてくれ」

女将さんに小さなどんぶりに入った昼食を渡される。雑に野菜や肉が乗せられている。それも、明らかに残り物で量も少ない。すぐにお腹が空いてしまいそうだ。しかし、(一応)三食食事付きで住み込みで働かせてもらっているのだから文句は言えなかった。
またこれだけかとどんぶりを見つめていると、女将さんは焦れたように怒鳴った。

「ミア、返事は⁉」
「はい!」

ミアは急いで奥へ行くと、かき込むように食事をする。量が少ないのであっという間だ。思い返せばレスカルト家はあんな家だったけれど、今までお腹いっぱい優雅に食事ができていた。今ではそれも夢の出来事だったのではと思う。

食べると言いつけ通りに買い物へ出た。お釣りは一銭も間違ってはいけない。もし間違えたら折檻どころか、職も住むところも失う。念入りにお釣りの確認をして店を出ると雨が降ってきた。

「大変、急がなきゃ!」

買った品物が濡れたらまた叱られる。ミアは大急ぎで飯屋ゴアに戻った。ミア自身は少し濡れてしまったが、品物は無事でホッとする。店に入ると、女将さんはミアを睨みながら買い物かごをひったくった。

「遅いよ! お釣り、ちょろまかしたりしていないだろうね?」
「もちろんです」

女将さんはすぐさま細かくお金のチェックを始めた。
当然ながらお金に関しては一番厳しい。ミアも住み込みなのだからと諸々引かれるので給料は驚くほど低い。しかし、働けるだけましだろうと思っている。

ミアは雨に群れた体を軽く拭くと、すぐに夜の営業に向けて準備を始めた。毎日バタバタで忙しい。

あっという間に営業時間が終わり、深夜になってホッと一息がつけるのだ。

「今日は星が綺麗……」

寝る前になると、いつも部屋から空を見上げる。ミアはこの広い空が大好きだった。
この空はカラスタンド王国と繋がっている。もしかしたら、クラウが見ているかもしれないと思うと眺めずにはいられないのだ。

「クラウ様……、今頃何をなさっているんだろう……」

そう呟いたところで、クラウの耳には届かない。
もう会うことはないと覚悟はしているが、心の中では今でも忘れられない。時々見る夢の中のクラウは、ミアを優しく抱きしめてくれる。そんな幸せな夢は、今のミアを支える一つとなっていた。

(駄目ね、ミア……。いつまでもクラウ様を思い出してばかりいても辛いだけなのに……。あぁ、でも今日も夢で逢えるかしら。そうしたらまた明日も頑張れそう)

ミアは輝く星空にそっと願いを込めた。


――――


その日、ミアはとても疲れていた。
この日は朝から女将さんの機嫌が悪く、昼飯も抜かれ、休む暇もなくこき使われ続けていたのだ。前日は営業後の片付けも一人でやらされて睡眠時間も減っていたなかでの仕事だった。

「ミア、買い物!」
「はい」

ぶっきらぼうに言われ、押し付ける様に買い物かごを渡される。これ以上、機嫌を損ねないようにミアはメモを見ながら足早に商店街へと向かった。

「えっと、頼まれたものは……」

お店の店先で、メモを見ながら商品を選んでいる時だった。耳の奥がキィンとなって視界がぐらりと歪み、平衡感覚を失ってしまった。

「あっ……」
「危ないっ!」

めまいを起こし、倒れそうになったミアをちょうど後ろを通りかかった男性が支えてくれた。

「大丈夫ですか?」
「は、はい……」

なめらかな素材の上質な服を着て、眼鏡をかけた少し年配の男性だった。ミアの肩をしっかりと支えてくれる。男性が助けてくれなければ転倒していただろう。

「すみません、少しめまいが……。もう大丈夫です」
「無理なさらず。家まで送りましょう」
「いえ、そんなご迷惑をおかけできません。私は大丈夫なので……」
「まだフラフラしていますよ。遠慮なさらずに」

男性はミアをしっかりと支えると、有無を言わさずそのまま店まで送ってくれた。

「ここで働いているんです。本当にありがとうございました」
「いえいえ、ご無理なさらないでくださいね」

男性はにっこり微笑んで店から離れた。

(親切な人だったな。久しぶりに人の優しさに触れた気がする)

すると、店から出てきた女将さんがミアを見つけると大声で怒鳴った。

「ミア! 買い物はどうしたんだい! 本当に愚図だね、あんたは! もういいよ!」
「すみません、女将さん」

そのやり取りが聞こえ、男性はハッとして振り返った。しかし、店先にはミアも女将さんも誰もいなかった。

数日後。

夜の営業がこれから始まるので、ミアは店先の掃き掃除をしていた。昼の営業と夜の営業の間も、ミアは用事を言いつけれれていつも働きっぱなしだ。
少しだけ手を休めてハァと息を吐く。最近は夕方になると冷えてきた。荒れた手のひらを見つめていると、不意に声をかけられた。

「ミア?」

目の前の通りから高い声で呼びかけられ、反射的に顔を上げる。

「え……」

目の前に止まった馬車の窓から、サラサがこちらを見ていた。

「お姉……、いえ、サラサ様……。どうしてここに?」

うっかりお姉様と言いそうになって名前に言い換える。
ミアはもうレスカルト家と関りはない。一般人が公爵令嬢――……、今ではマハーテッド公爵夫人になったお方を気軽にお姉様と呼ぶことも失礼に当たるのだ。

「カズバン様がすぐそこの高級料理店で会談していらっしゃるの。それを迎えに来たのよ。そんなあなたこそ……。ププッ、何しているの? ここで」

サラサはわざわざ馬車から降りると、ミアを全身舐めまわすようにじろじろと見て笑った。その蔑む様な目線にミアは顔が赤くなる。

「へぇ、こんなところで働いていたのね。なんだか汚い店ねぇ。まぁ、あなたにはピッタリなんじゃない?」

ミアは黙って俯いた。まさかこんなところで会うなんて微塵も思わなかったから、久々の嫌味が胸にちくちくと刺さる。

(蔑むためにわざわざ馬車を降りて目の前に来たの……?)

関与しないといったくせに、こういう時だけ笑いものにするのかと泣きたい気持ちになった。

「せっかくお父様にマリージュ学院を出してもらったのにねぇ。学費の無駄だったわね。まぁ仕方ないわね、愛人の娘には公爵家は高根の花だったのよ。あなたにはこういうところが一番似合っているわ」

くすくす笑いながらバカにしてくるサラサにミアは唇を噛むしかできなかった。
すると、女将さんが店から出てきた。

「ミア! いつまで掃除をしているんだい! 店を始めるよ!」
「女将さん……」
「おや、誰だい? このお姫様は」

ミアが着飾ったドレスを着たサラサと話をしているのを女将さんは目を丸くして驚いた。見るからに明らかに身分違いである。

「えっと……、マハーテッド公爵夫人のサラサ様です」
「マハーテッド公爵夫人⁉ この方が⁉」

女将さんの驚き様に、サラサはにっこりと微笑んだ。マハーテッド家は王族の親戚だ。遠い親戚とはいえ、知らない者はいない。
すると、サラサは急に悲しげな声で言った。

「この人が私に埃をかけたものですから、気を付けるよう注意をしておりましたのよ」
「え……」

突然の嘘にミアは言葉を失う。それを聞いた女将さんは顔を赤くしてミアを叱った。

「ミア! あんたなんてことをしてくれたんだ! 公爵夫人に謝りなさい!」
「女将さん誤解です! 違います、私は……!」
「あぁ、言い訳なんか聞きたかないね! あんたは本当に愚図だ! やっぱり雇うんじゃなかったよ! もうクビだ、クビ!」
「そんなっ……!!」

女将さんが大声でクビにすると宣言した。ミアは真っ青になり、サラサはほくそ笑む。

(クビだなんて……、そんなことになってしまったらどうやって生きていけばいいの⁉)

絶望感でいっぱいになった。何とか誤解を解かなければ……! とりあえず、謝ればことが収まるのだろうかなど必死に考える。
どうしてもクビだけにはなあるわけにはいかなかった。

「土下座でもしてくれたら許してあげなくもないけれど?」

サラサの見下した笑顔に絶望を感じながらも、クビを免れるためにはやるしかない。

「女将さん、公爵夫人……。あの、申し訳……」

ミアが青い顔で地面に膝を折ろうとした時だった。ミアの腕を支えながら、真後ろから低い声がそれを制止した。

「する必要はない。クビにするなら、彼女はもらい受けます」