「あぁ、どうしよう。寝坊してしまったわ」

爽やかな朝に似つかわしくない、階段を慌てて駆け降りる音が屋敷内に響く。
すれ違う使用人が小さく小言を言ったが、当のミアにはそれが耳には入っていない。今のミアには使用人の言葉に反応している暇などなかった。

「また叱られてしまう。急がないと……!」

一階の食堂の前につくと、急いでいた足を止める。一度立ち止まりそっと身なりを整えた。呼吸を整えて扉を開けると、テーブルに着いた三名が一瞬だけ視線だけをよこす。ピリッとした空気にミアは小さく息を飲んだ。

「遅くなり、申し訳ありません」

広い食堂にミアの小さな謝罪が響く。
夜遅くまで勉強をしていたミアは、今朝珍しく寝坊してしまったのだ。この家でのミアの立場から、それはあまり好ましいことではなかった。
ミアが慌てて朝食の席に着くと、すでに着席していた姉のサラサが厳しい眼差しを向ける。

「ミア! 食事の席に遅れるなんてどういうこと? 何様のつもりなのかしら」
「お姉様、申し訳ありません……」

ミアが肩を落として謝ると、サラサはこれ見よがしにため息をつく。

「はぁ、全くお父様もどうしてあなたを引き取ったのかしら。レスカルト家はお兄様が継ぐのだし、私は王族に嫁ぐのだからあなたはこの家に必要ないのにね。時間も守らず、屋敷内をばたばたと走る娘なんて品もないし恥でしかないわ」

わざとらしく『王族』を強調したサラサは、ねぇ? と美しい顔でミアに微笑んだ。でも顔は笑っているのに瞳は笑っていない。
まただ……と思いながらも、ミアはサラサに頭を下げた。

「母が亡くなった後、お父様が引き取ってくださったことには感謝しています。それと、慌てていたので屋敷内を走ってしまいました。うるさくして申し訳ありません」

その謝罪はサラサ以外の他二名の男女にも向けた言葉だ。しかし、その他二名である父と義母は反応すらしない。
サラサの隣に座る義母は食事が終わるとサッと口を拭き、優雅なしぐさで食堂を出て行く。父はミアやサラサが見えていないかのように、新聞を読み続けていた。
唯一反応するのはサラサだけだが、口を開けば嫌味しか出てこないから困りものだ。

「あなたも私のように早く嫁ぎ先が見つかるといいわね。さっさとこの家を出なければいけない。そうでしょう? まぁ、でも愛人の子のあなたにそれが出来るのかしら。あなたなんかをお嫁にもらおうなんて奇特な人、存在するのかしらね」

サラサはミアをバカにしたようにクスクスと笑った。ミアは言い返すことも許されず、ただ俯いているだけだ。

(またお姉様の嫌味……。当然、お父様にはそんな声など聞こえていないのね)

庇いもしない父を横目で見ながら、サラサの言葉にさらに身を縮こませた。


このレスカルト公爵家には二人の美しい令嬢がいた。姉のサラサ、妹のミアだ。
サラサは金色の髪に色白の肌。水色の瞳は、性格に反して湖のように澄んでいて綺麗である。半面、ミアは赤毛の髪が輝いている。緑色の瞳は新緑のように鮮やかだ。
二人は髪色も瞳の色も全く違うので、一見姉妹には見られないが異母兄弟なので一応血は繋がっていた。

ミアは父の愛人のもとに生まれた。愛人であった母が亡くなった後は、父がミアを引き取ってこの公爵家へ招き入れた。それが二年前のことである。

サラサの母親はミアのことが見えていないかのようにふるまっていた。完全無視である。サラサも毎日のように嫌味を言ってはバカにして笑ってくる。マウントを取り、見下しているのだ。引き取った当の本人である父は、ミアを可愛がるわけでもなく、ただ淡々と接してきた。
世間体的に一応、仕方なく引き取った……、そんな感じなのだ。要は、ミアはこの家に歓迎されていなかったのだろう。
引き取ってもらっただけでも、感謝しなければならないと自分に言い聞かせる毎日である。

「そうそう、お父様。私、今日はカズバン様のところへ行くので帰りは遅くなりますわ」

嬉しそうに微笑んだ後、ミアに勝ち誇った笑みを向ける。

「ミア、あなたも私のように素晴らしい方と出会えるといいわね。まぁ、愛人の娘には難しいことでしょうけど」

サラサは先日、王位継承者第10位のマハーテッド公爵家へ来年嫁ぐことが決まった。
王族の親族へ嫁ぐということでレスカルト家は大騒ぎ。レスカルト家は遠い昔に公爵の称号を得ただけの名前だけ公爵だったので、その喜びようはひとしおだった。

当然だが、家の中ではサラサの天下のようになっていた。
サラサは現在、花嫁修業と称して母と観劇に行ったり買い物をしたりと悠々自適に過ごしている。
一つ下のミアは現在学校へ通っているが、半年後の卒業後の進路は決まっていない。姉のように嫁ぎ先を見つけるか、家事手伝いという名目で家にいるか……。一応、レスカルト家の苗字を名乗っているので、働くなど普通はあり得ない事だから……。

食事を終えたミアは一礼してから食堂を出る。学校へ行く支度を済ませると、玄関前で振り返った。

「行ってまいります」

家を出るとき、そう声をかけるが当然ながら、誰も返事はしてくれなかった。


ミアの通う学校はマリージュ学院という。いわゆるお嬢様学校で、貴族の爵位のある令嬢が通っていた。
その大きな生垣を挟んだ隣には同じく爵位ある子息が通う、ザーランド学院の校舎が建っていた。この二つは文武も勉学においても、国内で一番の貴族学校といわれている。

「ごきげんよう、ミアさん」
「ごきげんよう」

廊下を歩いていると、後ろからクラスメイト達に声をかけられ、ミアは小さく微笑みながら挨拶を返す。
父に引き取られるまでは郊外の小さな町で普通に庶民として生活をしていたので、二年たっても令嬢としての振舞いは苦手だった。引き取られた後、振る舞いやマナーは徹底的に叩き込まれたので一応それなりには見えるだろうが……。

クラスメイト達はミアの隣に立つと顔を高揚させて話し出した。

「お姉様、マハーテッド家へ嫁ぐことが正式に決まったそうね。おめでとう!」
「凄いわよね、マハーテッド家と言ったら王族のご親戚ですもの」
「しかもお相手のカズバン様は王位継承者第10位のお方ですものね」
「ミアさんが羨ましいわ。あんな素晴らしいお姉様がいらっしゃって。学院でもいつも優雅で凛として素敵でしたものね」

クラスメイト達はキャァキャァとはしゃいでいる。
ミアはただ黙って笑顔を作ってやり過ごした。一緒にはしゃぐことはできない。どこが素敵か……。凛としている? あれはただの我儘なだけ。しかし、外面のいいサラサの本性など家族以外は知る由もない。

(お姉様の話題で持ちきりね。お姉様が美しいのは表面だけだわ……。みんな騙されているのに気が付いていない)

ミアはこっそりとため息をつく。
この二年、何度も嫌味や小言を言われ続けていた。時にはミアの手柄もサラサのものにされた。
でもあの家の誰もかれも、みんなサラサの表面的な部分に騙されてサラサの味方ばかりだ。後から来た愛人の娘など、目もくれようとしない。

(お姉様が家を出ないのなら、私が先に出たいくらいよ)

でもミアに行くところはなかった。この国での女性の働き口は少ない。母が生きていた頃も、いつか母がしていた掃除仕事の手伝いをしようと思っていた。貧しくたっていい。母とならと……。
でも、この大都市ではそれも難しい。まだ18歳の若い娘が後ろ盾もつてもない中、仕事をするのは無理がある。
だからこそ、今は家を出ることができない。あと少しの辛抱だと自分に言い聞かせる。

(今は辛抱よ。あと少ししたらお姉様は出ていくのだから……)

毎日そう思っていた。