女子トイレは、参拝客で長蛇の列だった。しかし、出来たばかりで大きなトイレだったため、洗面台はいくつもあったのが幸いだった。私は邪魔にならないように端の洗面台に向かい、コートを脱いだ。
「派手にやってくれたな…」
胸の位置から下にかけて大きな染みが出来ている。コートの下に身に着けていた小さいバッグからティッシュやハンカチを取り出し、染み抜きを始める。コーヒーをかけられてすぐなのが功を奏して、意外と簡単に染みが薄れて行く。ただやはり完全に消すことは難しく、茶色い染みが残ってしまった。真っ白なコートだったから、なおさら目立つ。
「ここまでか。あとはプロにお任せしよう…」
私はふうとため息を吐き、首をコキコキと鳴らした。
長い間、染み抜きに没頭していたせいか、いつの間にか長蛇の列は解消されていた。私は大量のティッシュをゴミ箱に捨て、外に出た。
外に出るとすぐに冷たい空気が吹き付けた。あんなに明るかった空は既に夕暮れ時に迫ろうとしていた。
「日が落ちるのは早いな…」
まだ若干染みの残るコートを着ながら、私はスマホを取り出し歩き始めた。
平松に連絡しようと画面を見つめていると、目の前に誰かが立ちはだかった。
「君、一人?」
男が言った。そこまで身長は高くないが、茶髪をワックスで立たせた分大きく見える。恐らく大学生くらいだろうか。迷彩柄のダウンにダボダボのジーンズを履いていた。
「可愛いね。この後ヒマ?」
神社でナンパとか、どれだけ不謹慎なのだろう。
「忙しいです」
私はその人を避けて、入り口まで向かおうとするが、なぜか男も隣について来る。
「俺さ、弟と来たんだけど、さっきはぐれちゃって。近くにカフェがあるんだけど、一緒に行かない?お兄さんが、奢ってあげるよ」
聞いてもいないのにペラペラと話す男にうんざりする。
(るーちゃんの見た目は、本当に絡まれやすいな…)
「君、真徳生?それともこれから受けるの?俺もさ、真徳受けたんだけど落ちたんだよね!学力が足りなかったのかな~。俺ん家も結構金持ちなんだけどな」
(知らんし)
私は相手にするもの無駄だと、無視して歩き続ける。
「俺の弟が来年、真徳受けるからってここに来たんだけどさ。俺は無駄だと思ってんの。あれ、知ってる?数年前に理事長が代わってから、受かる生徒はほとんど最初から決まってんだって。親のコネがないと入れないんだと」
話半分に聞いていたが、次の言葉に私は気を引かれた。
「確か、理事長の親戚に西園寺ってやつがいて、そいつが実は学校を牛耳っているっていう噂」
私は足を止めて、男を見た。
「どういうこと?」
男はにやりと笑った。
「あ、やっぱこの話気になる?やっぱり真徳生をナンパするには、この話題が一番か~」
「その噂はどこで聞いたの?」
私は男に詰め寄った。
「さあな。真徳の掲示板に書かれているって聞いたよ」
(掲示板?)
突然首周りに重みを感じて、男が私の肩を組んだのが分かった。
「詳しい話は、カフェでしてあげるよ」
私はさっと彼の腕から逃げると言った。
「自分で調べるわ」
「まあ。そんなことを言わずに」
再度、男が腕を伸ばした時、誰かの手が伸びて来て彼の腕を掴んだ。
「いてっ!」
「何してんの?」
男が顔を上げると、180センチ以上ある巨木が顔をしかめて見下ろしていた。大学生の男は、天城を前にするとかなり小さく見えた。
「だ、誰だよ!」
「こっちのセリフなんだけど」
天城が抑揚のない声で言った。男はどうにか腕をねじって放そうとするが、天城の力が強いのかびくともしない。
その時、遠くから声が聞こえた。
「兄さ~ん!」
兄と呼ばれた大学生よりも少し背の高い、黒ぶちの眼鏡をかけた男子が走ってきた。それから、私たちを見渡すとすぐさま何かを察したのか、慌てて頭を下げた。
「す、すみません!兄が失礼なことを…」
何も知らないのに謝るところを見ると、きっとこの男はいつでもナンパしているのだろう。そして弟が決まって謝罪をする役目を担っているのだろう。
(面倒な兄を持つ弟も大変だな…)
「いいえ。あなたが謝ることでは」
私が首を振ると、天城は無言で腕を離した。
「ったく、お前は遅いんだよ。行くぞ」
チッと舌打ちして男は謝罪の一言もなしに、その場を去った。メガネ男子は再度私に謝ると兄のあとを追いかけて行った。
私はしばらく彼らの背中を見ていたが、ふと未だに隣に立っている天城に目を向けた。
「どうしてここに?」
素朴な疑問を投げかけたつもりが、何かが彼の逆鱗に触れていたらしい。
もの凄い殺気を持った視線で天城が私を睨んだ。
「何やってんの?」
「え?」
私はその勢いのある雰囲気に思わず後ずさった。
「な、何って、私はただ帰ろうとしていただけで…」
(あの男が勝手について来ただけなんですけど)
「どうして全部一人で抱える」
「え?」
天城から思いがけない言葉が飛び出し、更に混乱した。彼の瞳の奥で様々な感情が動いているのが分かった。
「言わないと何も分からない」
(なんか前にも聞いたことあるセリフ…)
「西園寺のことも、本当のことを言えば何かしてやれたかもしれない。お前が何も言わないから、助けられなかった」
私は天城の言葉が理解できずに、しばし混乱する。
「…え、えっと。もっと頼って欲しいってこと?」
自分で言ってすぐさま、私は頭を振った。
(いや、まさかね。あの白石透嫌いの天城が、そんな風に思うなんて)
すぐさま否定されると思ったが、天城は何も言わずくるりと背を向け歩き出した。
(ちょっと待って。それは肯定なの?)
私が後ろから付いてきていないのに気づいた天城は、振り向くと「早く来い」と目線で伝えて来る。
(…やっぱり、天城の設定がバグり始めている気がする)
嬉しいのか悲しいのか、よく分からない感情が私の中に渦巻いた。