三日という短い修学旅行だったが、学生時代の2週間のバスケ合宿より疲れていた。昨夜は温泉で癒されたはずなのに、リネン室で座って眠ったせいか、更に体が重くなった気がする。
「ゆっくり休んでください」
車から降ろしてもらっている時、平松が言った。
土産を大量に受け取り、困惑しながらも喜んでいる平松に、もはや笑顔も作れない。
「ええ。ありがとう」
私は重い瞼と格闘しながら、家に入った。
今すぐベッドに倒れ込みたいと思っていたのに、神様はどこまでも意地悪のようだ。
「あら、早いわね」
リビングで私を待ち受けていたのは、土産を期待している妹ではなかった。体のラインが出る紺のタイトなワンピースを着こなし、襟元に派手な柄のスカーフを巻いた母親がソファーに座り、まだ日も暮れていない内からワインを飲んでいた。
(なぜこのタイミングで…)
超絶に疲れている今、一番会いたくない人だ。
「もっと遅く帰ってくるかと思ったのに」
どこか残念そうに言う母の嫌味に答える元気もなく、私は小さく頭を下げた。
「あら、久しぶりに帰宅した母に挨拶もなし?」
「お元気そうで何よりだわ、お母さま」
後々面倒なことにならないよう、必死に笑顔を作った。
「やっぱり、我が家はいいわね」
私の言葉を無視し、母親が周りを見渡した。
「そう思わない?ねえ、原田さん」
「そうですね。奥様」
白石家の母親専用の家政婦である原田は、果物やチーズが乗ったお盆をテーブルに置いた。
「お久しぶりです」
私は以前会った時よりも一層老けて見える原田に挨拶した。
「ええ。おかえりなさい、透お嬢様。何か飲まれますか?」
気を使ったように原田が顔を上げて聞いた。
「疲れているので、これで失礼しますわ」
お辞儀をしてこの場を去ろうとしたが、母親がそれを止めた。
「透さん。久しぶりに帰宅した母親を放っておくつもり?」
(勝手に帰って来たくせに、相変わらず自己中心的な…)
彼女の傍若無人さには辟易するが、今の自分には母親と対立する元気はない。
私は渋々、母親の前に座った。長丁場になると踏んだのか、原田は静かに私の前に水を置いた。
「貴女。最近、天城さんとはどうなの?」
母親がワインを傾けながら聞いた。
「変わりませんが」
私は無表情のまま答えた。
「照れているのかしら?」
鼻で笑われた。
「隠さなくても良いのよ。蓮見の奥様から、ちょくちょく話は聞いているわ」
(じゃあ、なぜ聞く)
目の前に水を一口飲んだ。
「聞いた情報によると、蓮見家のご子息や五十嵐家のご子息とも仲良くやっているそうね。全く取り柄のない貴女にしちゃ、上出来じゃないの」
話がどこに向かうかも分からず、母親の顔を見つめ意図を探ろうとする。
「ああ。それから榊家のご子息とも知り合ったんですって?あの一家も大変大きな財閥なのよ。素晴らしいことだわ。人脈を広げることはとても大事よ。貴女のような子は、特にね」
まるでゴミでも見るような目つきで、母親がこちらを見た。
「私はとても気分がいいの。だから…」
母親はワインを持ち、静かに立ち上がった。何事かと思っていると、いきなり頭から冷たい液体が流れてきた。
原田が小さく悲鳴を上げるのが聞こえた。
「まどかさんに関しても、今回は許してあげるわ」
白ワインの香りが辺りに立ち込めた。
「自分の立場を忘れないことね。貴女はどうあがいても貴女なのだから」
母親はワイングラスをテーブルに置くと、原田に向かって言った。
「ここ、片づけておいて。汚れてしまったわ」
「は、はい」
原田は慌てて、布巾を持って来た。
「なんだか、疲れてしまったわ。私は寝るわね」
そう言うと母親は、座ったまま呆然としている私を一瞥し自室へ戻った。
部屋の扉が閉まる音がしても、しばらくの間私は動けなかった。ワインから漂うアルコールの臭いで、頭がクラクラする。
「と、透様…?」
どこか泣きそうな表情の原田が、私の顔を覗き込んだ。
「あのタオルを…」
「え、ええ。ありがとう」
私は濡れた場所を拭きながら、母親の言葉を脳内で反芻していた。
―まどかさんに関しては、許してあげる。
「原田さん」
濡れた床を丁寧に拭いている原田に声を掛けた。
「まどかに何かあったんですか?」
「あ、ああ…」
手を止めた原田は、どこか言いにくそうに俯いた。
「お嬢様が修学旅行中に、奥様が帰宅されたのですが…」
「数日前ね」
「…はい。ちょうど帰宅した際に、まどかさんが透様のお部屋でパソコンをいじっていたのを見て、奥様が激怒したんです」
(まさか、ハッキングのことがバレた…?)
手の平に汗がにじむのが分かった。
「・・・それで?」
「それで、奥様がこの部屋には二度と近づかないこと、そして透様とは一切口を効かないことと注意したそうです」
(そこはいつも通りだとすると、ハッキングについては気づかれてはなさそうか)
私はほっと胸をなでおろした。しかし、原田はここからが本題というように頭を振った。
「そしたら、いつもは大人しいまどか様がいきなり激情して、奥様に向かって反抗したのです!この家に来て初めて見る光景で、私は背筋が凍りました」
私は驚いて原田を見つめた。
(まどかがキレた?あの冷めた天才少女が?)
「まどか様はずっと、透様とは離れたくないと言って暴れて、奥様を困らせていました。何度注意しても、人目を盗んでは透様の部屋に侵入していましたし」
「あ、暴れた?」
原田は顔を上げて、懇願するような表情を私に向けた。
「はい…。普段のお嬢様の姿からは想像つかないですが、でも、本当に透様のお部屋の床でジタバタしていたんです」
いつも冷静で、時々26歳の自分と同い年なのではと勘違いするほどの妹が、いきなりそんな行動に出るとは思えない。
(たまたま虫の居所が悪かったのか…?)
「今朝のことです。まどか様もやっと落ち着いて、今は静かに自室でお勉強をされています。ただ、まどか様がああなってしまったのは、透様のせいだと奥様はお考えで…」
(それでワインを、ね)
申し訳なさそうに原田は首を垂れた。
「お母さまは、いつ頃また家を空けるのかしら」
私がゆっくり立ちあがると、原田もそれに倣った。
「今のところは、11月上旬かと」
(今回は長く家にいる予定か)
考え込んでいる私を伺い見るように原田が言った。
「奥様のご友人の予定によって早まるかもしれないと仰ってましたが、今回の件があり、まどか様を近くで見ていたいと」
(数日なら良かったけど。西園寺のこともあるし、1か月近くもまどかと話せない状況なのは困ったな)
母親の目を盗んで、どうにかまどかを話す機会を作らないと。そう意気込んでみたものの、私は母親の監視を甘くみていたことに、気づかされることになる。