「えー、まずはどの教科が苦手なのか把握したいと思います」
図書室の端にある、6人掛けのテーブルに着き、蓮見が言った。今日が初日だからか、ちゃんと天城も五十嵐も参加している。ただ、乗り気でないのは目に見えて分かった。
「苦手?全部だな」
榊が腕を組んだ。
「英語は問題ないでしょ。帰国子女だもの」
皆の士気が下がりそうなので、私は慌てて言った。
先週、榊が全員を先生にすると言った時、嫌な予感がしたものの、よくよく考えてみると、意外と良い案だと分かった。自分一人が背負う仕事が減るばかりか、私以外に先生に向いている人がいれば、途中からその人一択に仕事を任せられる。
(自分でも卑怯な考え方だとは思うけど…)
私はちらりと横に座っている榊を見た。
(私は他にやらないといけないことがあるのよ)
最近まどかが、西園寺がどこの病院にいるかを突き止めくれたおかげで、安心して学校に来ることが出来ている。しかし、例の階段は未だ見つかっていない。本編では、事故は高校3年の時に起こった。まだ時間の猶予はあるとは言え、心配性のまどかはすぐにでも事件の起きる階段を見つけ出し、何かしらの手を打ちたいと考えている。
「じゃあ、英語は抜きにした主要科目にしぼろう」
蓮見が手元にある紙に書き出しながら言った。
「俺が数Bと数Ⅱを見るから、海斗が化学と物理。五十嵐が現代文と古典」
顔を上げると私に目を向けた。
「白石ちゃんは、世界史と日本史。大丈夫そう?」
私は頷いた。
「ええ」
「俺、英語の点数も悲惨だったけどな」
隣で榊が頭の後ろで手を組んだ。
「英語を分解されると分からないんだわ」
(偉そうにすな!)
そう言いたくなるのをぐっと堪える。
「英語だけは、自力で頑張りなさい」
「了解!」
「じゃあ、最初はどの教科から始める?」
そして奇妙な5人の勉強会が始まった。
しかし、開始して間もなく、全員が音を上げそうだった。海外の高校に通っていたとは言え、榊のあまりの学習能力のなさに、天城は怒り、蓮見は爆笑し、私は呆れていた。五十嵐に至っては、途中から面倒くさくなって「もうそれでいいんじゃない」とか言う始末。それでも、週に2日皆を付き合わせているのに責任を感じているのか、試合に出たい気持ちが強いのか、数週間が経つ頃には、私たちが出す問題には少しずつ答えられるようになってきた。
また自分でも勉強の仕方が分かって来たのか、自習もするようになった。
そんなある日の放課後のこと。
「凛ちゃん」
書店で買った参考書を読みながら榊が言った。
「なんで北条政子は尼将軍って呼ばれてたんだ?」
「あー。それね」
私も勉強しようと鞄から一斉に教科書を出した。6人掛けのテーブルは、どれだけ本を広げても場所が余るほどある。
「夫の源頼朝が死んでからも、彼女が将軍みたいな力や権威を持っていたから「将軍」ってあだ名が付いたんだけど」
話しながらも自分は、苦手な英語の教科書を引っ張り出した。
「北条政子の弟と実権を握った時には、既に出家して尼だったの。だから、尼将軍」
「ふうん。凄い奴なんだな」
感心しながら今聞いた話をメモする榊。
「そうよ。歴史上かなりやり手の女性だと思う」
「凛ちゃんも、やり手だよね」
テーブルに肘をつき、榊がこっちを向いた。
「なんで」
私は自習用のノートを開いた。
「だって、人生二度目の高校生活だろ。俺だったら、やってらんないね。また同じことを勉強するのも、試験を受けるのも。でも、お前はちゃんとやってるし、試験の成績で学年10位まで取ってる。ほんと、凄いよ。お前は」
私はまじまじと榊を見た。真剣な表情からして、本気で褒めてくれているようだ。
「ありがと。6位だけど」
榊の紫色のカラコンに、今までの私とは全く似ても似つかない自分の姿が写っていた。
確かに自分でも驚くくらい、生前よりも一生懸命頑張っていると思える。時々、社会人の方が学生をしていることより楽だと思うことがあるほどに。
「…私は自分の人生をやり直したいのかも」
勝手に口をついて言葉が出た。はっと気づき、慌てて教科書に視線を戻すが、榊に乱暴に頭を撫でられた。
「だから凛ちゃんらしく生きればいいんだって!」
「頭を撫でるな」
榊の大きな手を払いのける。
「えーいいじゃん」と口を尖らせている榊を無視し、私は目の前の英語の教科書に目を向けた。ある一文が目に飛び込んで来る。
Just be yourself.
(私らしく…。本当にそれでいいのだろうか)
その時、脳の奥底で微かな声が響いた。
―「もう私の為に生きなくても大丈夫」
(…え?)
「あれ。今日も勉強してるの?」
顔を上げると蓮見と天城が並んで立っていた。腕に何冊か本を抱えている。
「急きょ部活が休みになったから、自習に付き合ってもらってんだ」
蓮見達に向かいに座るように指さしながら、榊が言った。
「お前らも勉強か?五十嵐が見えないけど」
勉強仲間が増えるのが嬉しいのか、口角を上げている榊。しかし、蓮見は首を振った。
「いや。俺たちは、修学旅行の準備。旭は後から来るよ」
「しゅっ…修学旅行~!」
どこか悔しそうに榊は叫んだ。
「静かに」
私は榊を肘で小突いた。
図書館に人がほとんどいないとは言え、ここで大きな声を出すのは非常識だ。
「だってよ、凛ちゃん。俺、修学旅行、行けないんだよ?可哀想でしょ!」
「それとこれとは、話が別!」
私は小声で榊を叱る。
数日前に分かったことだが、バスケの県大会と被った榊はいきなり修学旅行に行けなくなった。顧問の先生曰く、勝ち進む予定ではなかったので、問題ないと思っていたそうだ。そのせいで、榊だけでなく別のクラスのバスケ部員も、楽しみにしていた修学旅行に参加出来なくなったのである。
榊の態度に注意を払うあまり、私は全く気付いていなかった。榊があまりにも自然に私の名を呼んだことに。
「…凛って誰」
私の目の前に座っている天城が聞いた。榊に投げかけている質問のはずなのに、なぜか私の方を見ている。
一瞬、私と榊は目を合わせた。榊の表情にも焦りが浮かんでいた。
「なんのことかしら?」
私は冷静を装いながら、聞き返すと今度は蓮見が言った。
「俺も聞こえた。榊、白石ちゃんのこと、凛ちゃんって呼んだよね?」
「あー。それ、あだ名」
榊は口を開いた。私はじっと体を固まらせた。
「愛称ってやつね。ほら、透って凛としてるじゃん?だから、時々凛ちゃんって言っちゃうんだよね。な、透?」
「え、ええ。そうね」
苦しい言い訳に聞こえるが、二人がそのあと追及しなかったことを考えると一応は納得してくれたらしい。
「俺さ、一つ心配なことがあんだよ」
気まずい空気になる前に話を変えた榊に、私は「ナイス」と心の中で呟いた。
「何?お土産の心配か?」
ガイドブックに再度目を落としながら、蓮見が笑っている。
「それは心配してない。お前らを信用してる」
すぐさま榊が反応し、親指を立てている。
(そのお前らに、私も含まれてるんだろうな~)
私はぼんやりとそんなことを思っていると、榊が私の肩を引き寄せた。
「心配なのは、この子」
「は?」
「え?」
「…なんで、私」
一斉に全員で同じ反応をする。最初に反応した天城に至っては、眉間の皺が深くなっている。
「こいつ、かなり修学旅行を楽しみにしているのに、仲間からはぶられてんだよね」
「ちょ…」
(いきなり何を言い出すんだ、お前は!)
私は顔が赤くなるのを感じた。
榊の言う通り、担任によって勝手に組まれたグループには藤堂とその取り巻きがいて、私は完全に蚊帳の外だった。グループ行動の話し合いで、私が話に入って行けていないのは、クラスでの行動を見れば分かるかもしれないが、心待ちにしているというのは、どこで気づかれたのだろうか。
「これ、凄い付箋の数だね」
今来たばかりの五十嵐が、積み上げられた教科書やノートの山から、私が最近持ち歩いているガイドブックを見つけ出した。そこには、言い訳も通用しないくらい、カラフルな付箋がいくつも付いていた。
(詰んだよ…)
私は両手で顔を覆った。
蓮見の笑い声が聞こえた。
「さすがに、これ全部は回れないよ~」
本をパラパラめくる音がする。
「凄い楽しみにしてんだね。修学旅行」
優しい口調で五十嵐に言われると、顔から火が出そうなほどの羞恥心が私を襲った。
(26歳のくせに、修学旅行ではしゃいですいません!)
「わ、私はこれで…」
あまりの気まずさにその場から離れようとするが、榊が腕を掴んだ。
「俺は行けないから、お前たちに透の面倒を見てもらおうと思って。さすがに、一人は可哀想じゃん?コイツ、友達もいないし」
「い、いえ。結構です!大丈夫です」
私は慌てて言った。
「むしろ京都は、一人で楽しみたい派です。では、失礼します」
教科書やらノートやらを腕に抱え、蓮見が面白がっていたガイドブックを回収すると私は急ぎ足で図書館から離れた。そして、早まる心臓を押さえながら、天に祈った。榊のたわ言をみんなが受け流してくれますようにと。
(別クラスだし、会わないはず!)
自分にそう言い聞かせた。
それから人生初めての京都に、心を弾ませた。例え藤堂たちに置いてけぼりにされたとしても問題ない気がしてきた。
(むしろ、一人で行動した方がやりたいことが出来る!)
付箋の多いガイドブックを眺め、私は思わず笑みがこぼれた。
しかし、この時の私は浮かれすぎていて、修学旅行中に色々な事件が起こるかなんて予想もしていなかった。